さようなら
部室の窓の外に人が降っていた。
いくつものゴミ袋の様な黒や茶色の物体が、大きな音を立てて地面にたたきつけられている。
淡々と、あまりにも淡々と――。
「しっかりしろ!明神!」
途切れそうな意識のまま、ふらふらと窓辺に近づいていく私の両肩を、黒川さんが前から掴み、大きく前後に揺り動かしてくれた。
「く、ろ、か、わ。さん」
はっと、我に返る。
そのとたん、音がしなくなった。
人の雨が止まっていた。
廊下から再び悲鳴が上がる。
数人の走り回る足音が、波のように聞こえてきたかと思うと、静まりかえる。
そんなことが繰り返された。
「始めやがった――」
苦々しげに黒川さんが呟いた。
始めた?
一瞬、その意味に迷ったが、すぐに理解した。
ヒトノモリだ。
『イラナイノ?』
ヒトノモリの『お節介な呪い』が始まったのだ。
「とりあえず止まったみたいだな」
黒川さんが、辺りに視線を配りながら言った。
「みんな、死んじゃったとか――」
定まらぬ思考の中で、何気ない気持ちで言った一言。
そのあまりにも軽率な自分の言葉に自分で震えた。
黒川さんは窓の外を指さす。
そこには、校庭や花壇の回りを逃げ惑う生徒達の姿があった。
「イッキには殺さない。ヒトノモリの力を強力にするには、この出来事を世の中に伝える人間が必要なハズだ。それに――」
そう言って、黒川さんは再び私の両肩を掴んだ。
「私らだって生きてるだろ」
ああ、そうだ。
私、まだ生きている。
助かったんだ。
「今日はこれで終わりなのか、それとも又すぐに始まるのか」
安堵したのもつかの間、黒川さんが凄く怖いことを言いだした。
あ、でも――。
「黒川さん!ヒトノモリを倒せるって言ってましたよね!」
黒川さんの飴玉がかろりと鳴った。
「それには、まずヒトノモリを探さなきゃならない」
えっ。
そりゃそうか、相手がいないんじゃ手が出せないよね。
探さなきゃ!
ん?
でも、待って。
ヒトノモリって、どんな格好してるの?
そもそも、どこに居るの?
私は、こもごもの思いに信頼と期待を込めて、黒川さんを見つめた。
「そんなキラキラした目で見つめられても、期待には応えられないよ」
駄目なの?
「まずは、ヒトノモリの手がかりを探そう」
今から?
それってかなり絶望的なんじゃ――。
「想定外だ。まさか、こんな方法で仕掛けてくるなんて――。圧倒的に不利な状態なのは間違いない。だけど――やらなきゃ、やられる」
私の気持ちを見透かしたように、黒川さんが凄んだ声でいった。
「なんとかして、ヒトノモリを引っ張り出す。奴に会うことが奴にとっては自分の弱点を晒すことになるんだ」
「それって――」
黒川さんからもっと詳しく話を聞こうとしたのだが、彼女は私の手を掴むとそのまま走り出していた。
廊下に出ると、数人の走ってくる生徒とすれ違ったが、目的があるようには見えず。
ただ、漠然とした物から逃げ回っていると言った、錯乱に近い感じだったし、そういう必死な表情だった。
「何処に行くんですか!」
私が喘ぐように叫ぶと、黒川さんは「職員室」と言って速度を上げた。
「とりあえず、先生達と合流しよう」
ああ、そうだ。
職員室なら同じ一階だし、ここから一番近い部屋だ。
先生達と一緒なら、施設や設備の使用制限も無くなるし、私達の知らない手立ても知ってるかも知れない。
先生達と合流するのはいい方法かも知れなかった。
途中、エントランスには、脱ぎ捨てられた上履きや、靴、放置された鞄などが散乱し、一時期の騒乱の跡が見て取れた。
あれ?
私は違和感を覚えた。
何かから逃げたような痕跡に見える。
さっきすれ違った生徒達もそんなだった。
大量の自殺者案件とは別?
職員室に着くと、扉が開けっぱなしになっている。
内を覗く。
愕然とした。
誰も居ない。
人っ子一人いない。
これだけの事が起こっているんだから、みんな現場に出向いているのかとも思ったが、やけに室内が荒れている。
書類や本が散乱し、ひっくり返った机まである。
「逃げるぞ――明神」
黒川さんが一点を見つめてそう言い放つ。
彼女の凝視する先に視線を移した私は、凍り付いた。
そこには、肩をゆっくり上下させ眼孔だけの目でコチラを睨む一匹の猿――禍神がいた。
みんなは、こいつから逃げていたんだ。
「今は、こいつをかまっている暇は無い」
黒川さんはそう言うと、私の手を強く引いて廊下を駆け出す。
エントランスまで引き返して、後ろを振り返ると、禍神の姿が無かった。
「禍神――、追いかけてきませんね」
私の言葉に、黒川さんはその場で止り、後ろを見てひとつ息を吐いた。
「そうか、多分――禍神になったばかりで、指示されたことしか出来ないんだ」
なったばかり?
「教室や職員室を襲うようにとか指示されたんだろう」
人の雨が降る前にヒトノモリに呪われた存在で、なったばかり――。
「黒川さん!」
突然の大声を上げる私に、黒川さんがたじろいだ。
「先生だ!」
私の声に、一瞬、訝しそうにしていた黒川さんが「あっ」と言って職員室の方を眺める。
「松島先生だ!!」
私は、確信した。
あの禍神は、呪われた姿の松島先生だ。
「たすけなきゃ!」
短い沈黙。
解っている。
今更どうにもならない事。
でも、あのままではあまりに哀れだ、酷すぎる。
「アンタがやってあげな」
そう言って黒川さんが、口元から紅い飴玉を取り出した。
「その方が先生も喜ぶ――」
私が頷くと、黒川さんは指で摘まんだ紅い飴玉を私の唇に近づける。
「やり方――解るね?」
紅い飴玉を咥えた生き物の様に迫ってくる、黒川さんの白く透明感のある指を、私の唇はゆっくりと向かい入れ、その指先と一緒に飴玉を含んだ。
飴玉を口の中で転がすと、ほんのりとした梅の香りと酸っぱさが広がり、かろりと鳴った。
私は独りで、ゆっくりと職員室へと戻る。
入り口から中を覗くと、さっきと同じ場所に禍神がいた。
「先生――」
呼びかけてみる。
禍神――いいや、松島先生は反応しなかった。
一歩、職員室に踏み入れる。
「松島先生ですよね?」
先生は、ゆっくりと首だけをこちらに向けた。
「イ・ロム・オ・ノ・チィ・ア・フ・コブ」
先生の裂けた口から言葉の様な物が聞こえた――。
言葉だとすれば、なんと言っているのだろう?
「先生、私――明神です。解りますか?解りますよね?」
「イ・ロム・オ・ノ・チィ・ア・フ・コブ」
再び、何事か言葉を発した後、先生はもの凄い早さで、迫ってきた。
怖い!
「松島先生!」
恐怖を蹴散らす様に、私は大声で叫んでいた。
すると、松島先生は私の手前で止まり、光の無い眼孔だけの視線を向ける。
「……ミ」
先生が何事かを呟いた。
それは――。
「……ケ……ミ」
それは、確かに――。
「あ……ケ、ガミ」
先生が私を呼ぶ声。
「アケガみ!」
「先生!」
子供の様に小さい先生を、私は覆い被さるようにして抱きしめていた。
やがて身体を離し、頭を両手で支えると、そのまま唇を重ねる。
私から逃れようとする先生を押さえ込み、口の中に飴玉を舌で押し込んだ。
眼孔から流れ出るように溢れる光の粒が、まるで滝のような涙に見えた。
無数の糸のような光が湯気のように立ち上る。
先生の身体が、少しずつ透明になって行くのが解る。
やがて白石さんがそうであったように、蜃気楼のように揺れながら消えて行くのだろう。
「アケガミ――」
先生が私の名前を呼んだ。
「さようなら――先生」
私の腕の中で、松島先生は光に変わり溶けていった。




