勘違いで婚約破棄されたけど、私はあなたの誤解を解くつもりはありません
「リディア、お前、そんなに浮気を繰り返していたのか?」
そう言った彼――エドガーの顔には、嫌悪と失望が混ざっていた。私の知る中で、彼が一番感情をあらわにした瞬間かもしれない。
私は、彼の目をじっと見返した。言葉が喉の奥まで上がってきて、それでも一言も出てこなかった。ただ、心の中で思ってしまう。
よくそんな顔ができたわね。
エドガーが他の女性と逢っていた現場を、私は三度、直接目にしている。一度目は彼の書斎で。二度目は舞踏会の控室。三度目は馬車の中。女の子が泣いて出てくるのを見て、さすがに笑えなかった。
問い詰めたことはない。問い詰めるだけ無駄だと、早いうちに悟ってしまったから。
「何か言い訳でもあるのか?」
胸を張って問いかけてきたエドガーは、まるで自分が裁く側の正義だと信じて疑っていない様子だ。
「……いいえ」
私は静かに答えた。
「私は浮気などしていません」
本当のことだけを淡々と。だが、それ以上の言葉はもう必要なかった。
「――嘘をつけ!」
エドガーの声が怒鳴りに変わる。私の沈黙が、彼の中で都合よく“図星”になったのだろう。何の確証もないのに。
「俺の目を見て言えるのか?あんなに男と親しげにしておいて、今さら潔白だとでも?もう、お前とは婚約破棄をするしかないな!」
よく通る声だった。きっと廊下にまで響いている。けれど私は視線を逸らさず、まっすぐ彼を見ていた。
あんな男――きっと街の孤児院に出入りしている医師のことだろう。何度か支援の相談で会っただけ。人目もある場だったのに、それすら“浮気”に見えるのなら、もはや手遅れだ。
「……どうせ、何を言っても貴方は信じないのでしょう?」
声色に感情は乗せなかった。ただの事実として、淡々と突きつける。
「さようなら、エドガー」
それだけを残して、私は静かに背を向けた。怒鳴られても、罵られても、何一つ響かない。終わったのだ、この人とのすべてが。
「おい、待てよ!」
背後から怒りに満ちた声が追ってくる。けれど足音はない。自分が怒鳴れば、私が立ち止まると思っているのだろうか。
――最後まで、自分のことしか見ていないのね。
そう思いながら、私は扉に手をかけた。
おめでとう、婚約破棄よ。お望み通りね。
静かに扉が閉まり、硬い音がひとつ、部屋に残された。
―・―・―
数年後 ― 王都
「……リディア様、お気をつけて」
年老いた御者がそう言って馬車の扉を開けてくれた。王都の石畳に、磨き上げられた革靴が降り立つ。
懐かしい街並み。けれど、胸が騒ぐことはない。戻ってきたのは、私の選んだ道の果てにこの地があっただけ。
「ただいま」
誰に言うでもなく、私はそう小さく呟いた。
かつて王都を去ったあの日、私はただ“捨てられた女”として後ろ指をさされながら出て行った。
けれど今は違う。
辺境で立ち上げた医療と教育の支援組織は、小さな村々を救い多くの命をつないできた。
“灰色の鳩”と呼ばれた私は、貴族の間でも噂になっているらしい。面白いものね、名前を伏せて活動していたはずなのに。
そして今日――
王都の広場で開かれる慈善会合に、代表者として招かれたのが、他でもないこの私、リディア・アルヴェン。
「お変わりありませんでしたか、リディア様。王都の空気は、辺境と比べていかがでしょう?」
秘書官の女がにこやかに問う。
「埃っぽさは、相変わらずね」
私は微笑みながら答えた。まるで昔の私とは別人のように、落ち着いた声で。
人々の視線が集まる。ドレスの裾が静かに揺れるたび、そこには“可哀そうな元婚約者”ではなく、“高潔な支援者”としての私が立っていた。
そして、会場の隅――
ひとり、私を見つめている男の姿に私は気づく。
エドガー・ローレンツ。
かつての婚約者。裏切りを繰り返し、挙句の果てに自分の誤解で私を断罪した男。その目に浮かんでいたのは、かつて見せたことのない苦しみと後悔の色。
私は目をそらさずに、彼の方へ歩いていく。
彼は、何か言おうとして口を開く――だが、声が出ない。
代わりに、私が静かに言った。
「お気になさらず」
たったそれだけ。微笑と共に、私は彼の横を通り過ぎた。
彼の時間は、あの日の部屋に閉じ込められたまま。
でも私は、もう前に進んでいる。
王都・中央議事堂 大広間
「――本年度、最も顕著な功績を残された民間活動団体の代表として、リディア・アルヴェン様をここに表彰いたします」
議事堂の壇上に立った高官の声が、厳かな静寂の中に響いた。貴族、役人、学者、そして王家の代理までもが見守る中、拍手が沸き起こる。
壇上に上がった私は、深く一礼をした。控えめながらも優雅に、誰にも媚びず、堂々と。
「身に余る光栄です。ですが、支援を受け入れてくれた人々がいたからこそここまで来られました」
その一言に、さらに大きな拍手が続く。
王都で、私は“功績を挙げた人物”として歓迎されている。かつてこの場所で“浮気女”の烙印を押されていたなど、もう誰の記憶にもない。
――少なくとも、表面上は。
その裏で、確かに聞こえた。
「……でも、あの人って前に婚約破棄されたんでしょう?」
「たしか浮気が理由だったとか……」
「貴族なのに、あんな噂があった人を表彰するなんて……」
耳障りな囁きは、わざと届くように低くそして鋭く。
私は、まるで何も聞こえていないふうを装って、わずかに微笑を深めた。
平気だった。そんな声は、辺境で泥水を啜るように生きてきた人々の声に比べれば、どれほど薄っぺらいことか。
だが、私よりも、我慢できなかった者がいた。
「失礼を承知で申し上げます!」
突然、場内の一角で声が上がる。
声を張り上げたのは、元王都医師団の医師――ルーベンだった。彼は今、辺境支部で私と共に活動している仲間であり、かつて“噂の男”とされた当人でもあった。
「リディア様が王都を離れた件について、誤解されたままになっていることがあります。今こそ、それを正すべきだと私は考えます」
会場がざわめく。
止めようとするスタッフを手で制し、ルーベンは壇の前に歩み出た。
「私は、かつて“リディア様と浮気していた”と噂された者です。ですが、それは全くの事実無根。彼女は公的な支援活動の相談を、常に日中の開かれた場所で、記録の残るかたちで行っていました」
口調は丁寧でありながら、怒りがにじんでいた。
「すべてのやり取りは、王都南部施療院の記録帳にも残っています。当時、私に想いを寄せていた令嬢が嫉妬して流した根も葉もない噂が、いつの間にか『彼女が浮気をしていた』という事実にすり替わっていた――それが真実です」
場内の空気が凍る。
目を伏せる者、目を見開く者、誰もが“本当に語られるべきだった過去”に言葉を失っていた。
私はルーベンの背に向かって、ひとつ小さく頭を下げた。
そして、マイクに口を寄せる。
「私から釈明するつもりはありません。けれど、もしあの頃に戻れるとしても、私はやっぱり何も言わないと思います」
その言葉に、数人が小さく息を呑む。
「誤解されたままでも、生きていけます。信じてくれる人がひとりでもいたなら、それで十分ですから」
その瞬間、先ほどまで私を嘲るように見ていた視線のいくつかが、そっと伏せられた。
壇上から降りると、ルーベンが静かに頭を下げてきた。
「……すみません、勝手に」
「ありがとう。あれは、私じゃなくて貴方の戦いだったわね」
私は微笑む。
けれど、視線の端で、ひとつだけ気にしていたものが映った。
――エドガー・ローレンツ。
彼の顔は蒼白だった。座ったまま、拳を強く握りしめている。まるで、すべてを初めて知ったように、愕然とした表情で。周囲の視線が彼を射抜くように突き刺さる。彼は婚約者としての威厳を完全に失い、ただの哀れな男に成り下がっていた。
「…どうして、こんなことに」
その声はかすれ、震えが混じっていた。
だが、もう誰も同情はしない。
「ご存じでしょうか――エドガー様が婚約中、度重なる浮気を重ねていたことを」
一人の侍従がひそやかに話し始めた。その言葉は、会場の静寂を切り裂くように広まっていく。
「リディア様が王都を去った直後からも、密会は頻繁に続いていたと耳にしました」
「なんと――」
その噂は瞬く間に伝わり、ひそひそ話が走る。
「あの品位のかけらもない男に、よくも婚約者が耐えられたものだわ」
「証拠は、浮気相手の令嬢から匿名で王都高官に届けられたという。具体的な日時や場所まで詳細に記されているらしい」
ざわめきが高まる。
エドガーはその声を聞き、顔を上げた。
「そんな……そんなはずはない」
否定の言葉は震え、意味を成さない。
彼の目に浮かぶのは焦燥と、嘲笑と、深まる孤立。
「信じてくれ、俺は…」
しかし、その言葉は虚しく、誰の耳にも届かない。会場の人々は、冷たい視線で彼を見据え、次第に距離を取った。まるで、氷のように凍りついた空気が彼を包み込む。
そのとき、私は静かに立ち上がり、微笑みながら壇上へ向かった。
「色々と噂が飛び交っておりますが、私には何も関係ありません」
誰一人、視線を曇らせずむしろ凛と輝かせていた。
「私の過去も、私自身も。今ここにいる私を見てくだされば、それで充分です」
拍手が自然と湧き上がる。
その拍手の中で、エドガーはただ俯き声を失った。
彼が踏み外した道の果てにあるのは、孤独と後悔だけだ。
私はゆっくりと階段を下りる。
胸には、かつて抱いた痛みはもうなく静かな満足感が満ちていた。けれど、復讐のような気持ちも赦しのような温情も、もはや私の中にはなかった。
会場の隅で、蒼白な顔で俯いているエドガーが視界の端に映る。誰にも庇われず、ただ事実だけが彼を裁いていく。
私はふとルーベンの方を振り返った。
彼はまだ壇の下で私を見つめていた。真剣な表情で、まるで「言うべきことは言った」という責任を感じているように。
そんな彼に、私は微笑みながらひと言、口を開いた。
「私にとっては、とっくに終わった話よ」
それだけを告げて、私はゆっくりと歩き出した。
顔を伏せたままの元婚約者を横目に通り過ぎながら、足取りは軽やかだった。
この数年で私は多くのものを失い、そして得た。
信じてくれなかった人たちは過去に置いてきたし、信じてくれた人たちと私はこれからを歩いていく。
もう、過去に振り返る理由はどこにもない。
貴方がどんなに後悔しても、私はもうわざわざ振り向いて――その“誤解”を正してあげるほど、親切じゃないの。
だってそれは
――信じなかった貴方が選んだ結末なのだから。
私はただ、静かに背を向ける。
何も言わずに、何も訴えずに。
微笑みだけを残して。
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