2-7
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「起きたか」
気がつくと民宿『パスタイム』の一室にあるベッドの上に仰向けになっていた。少し動くだけでギーギーと軋む音がする。
刺されたはずの箇所に触るがかすり傷程度で済んでいた。
足元にはうつ伏せで眠っているえなかがいた。
「風呂でも入ろうかと思ったらすごい勢いで扉を開ける音がしてな、何事かと思ったらこの子がこの世の終わりみたいな顔してたんだ。外を覗くとおまえが横たわってたからびっくりしたよ」
カズさんが言うには、俺がナイフで刺されたあとすぐにフェリーに船が着いて奥湊に戻ってきた。
船員たちにも助けを求めてここまで連れてきてくれたそうだ。
「彼女、おまえのことが心配でずっとここにいたよ」
犯人も慣れていなかったのか、うまく刺すことができず脇腹をかすめる程度だったため、大事には至らなかった。
近くにいた人たちが警察を呼んでくれていたおかげで、すぐにパトカーがやってきてその男は捕まった。
「じゃ、俺は明日も忙しいから寝るわ」
どうせ暇じゃねぇかってカズさんにツッコもうかと思ったが、今回ばかりは何も言えなかった。
気持ちよさそうにすやすやと眠る彼女を起こさないよう俺もゆっくりと目を閉じた。
ー翌朝、目が覚めるとえなかはすでに起きていた。
「友遼くん、大丈夫?怪我は?」
「大丈夫」
そう言ったあと、うーんと背伸びして身体を起こす。
「ごめんなさい!」
俺に深々と頭を下げてそう言ってきたが、えなかは何も悪くない。
「私が誘ったばかりに危険な目に遭わせちゃって……」
俯きがちな彼女の目尻には少し泪が浮かんでいた。
一人でいたらそれこそどうなっていたかわからない。
それに、行くと決めたのは俺だ。
彼女が責任を感じる必要なんて一つもない。
「俺の身体、超合金でできてるみたい」
そう言って無傷であることを証明してみせた。
柔らかな笑顔を見せた彼女が俺のことを見ながら、「どうしてあんな挑発するようなこと言ったの?」と訊いてきた。
「ああいう思い込みの強いタイプは力ずくで連れていこうとするから感情の矛先を俺に向ければ少しは時間稼ぎになると思ったんだ」
あえて挑発することでえなかへの恨みの感情から俺への怒りの感情にベクトルを変えることができると考えた。
意図的に売り言葉に買い言葉をしてえなかに対する感情を俺に向けようとした。
「そんなことをしたら友遼くんの身に危険が及んじゃうじゃん」
「俺、頭悪いからさ。先を読んだりとか駆け引きとかできないんだ」
だからそのとき思いついた最善のことをする。
心配そうな表情を浮かべていた彼女は、「もう」と言って少し笑った。
その後に「ありがとう」と少し照れながら言った。
あの場面どうするのが正解だったのかはわからない。
足が震えてちびりそうになるかと思っていたが、案外冷静な自分がいて言葉がすらすらと出てきた。
それでもえなかが傷つくことはなかったし結果オーライだ。
「フェリーに乗っているときずっと考えてたんだけど、撮影、一旦中止しようと思うの」
依頼を受けた撮影はまだ残っているが、毎回危険な目に遭っている。それにまた今回のように何をしでかすかわからないやつも出てくればそれこそ命に関わってくることを懸念しているのだろう。
でもそれじゃあせっかく安全な奥湊に越してきた意味がなくなってしまう。
何より今回はプライベートだ。
紐づける必要も責任を感じる必要もない。
「えなかはインフルエンサーの仕事楽しいか?」
一瞬唇を噛み締めたあと、「うん」と答えた。
「なら奥湊でやればいい」
彼女が続けたいと少しでも思っているのならやめないでほしい。
有名になればなるほど賛否両論はあるし、リスクも大きくなる。
それでも自分のやりたいことができるっていうのは幸せなことだ。
それをやめてしまうのはすごくもったいない。
できることはかなり限られる。それでもここなら安心して撮影ができるし、工夫していけばなんとかなる。ここに住む人はみんな家族だから。
「昨日一緒にいろんなとこ行けて楽しかった。また行こう」
下心とかではなく普通に楽しかった。
星司や飾音とはまた違う感覚で楽しめた。
えなかは依頼を受けていた企業に今回の事情を説明して撮影期間を延期してもらった。
ラグーナに着き、部屋に戻ろうとすると飾音がいた。
「訊いたよ、襲われたんだって」
「まぁそんなとこだ」
「危ない真似しないでよ」
珍しく眉根を下げて切ない表情をしている。
「安心しろ、俺は丈夫だから」
「バカは死なないって言うものね」
「そんなことわざねぇだろ」
「さすがのハルも知ってたか」
ったく、とことんバカにしやがって。
いつか総理大臣にでもなって見返してやろうかな。
「でも、本当に無理しないでほしい」
さっきとは違う真面目なトーンに飾音の真剣さが伝わってきた。
「これ以上危険な真似しないで。綾子さんも芽乃ちゃんも悲しむから」
「お、おう」
どうしてそんなに元気がないんだ?
今日は乙女デーか?
「なんかあったのか?」
「ハルが心配なだけ」
「気をつける」
「約束して」
「約束する」
いつもならここでいつもの飾音に戻るのに今日はそうじゃない。
やはり今日は乙女デーのようだ。
「どした?今日調子悪いのか?」
「ううん、別に」
「平気か?」
「平気だよ」
平気って言うときに平気だった試しがない。
明らかに表情がこわばっている。
「ちゃんと言わないとわかんねぇよ。気持ち悪いからはっきり言えって」
「……もなちゃんに何かあげたの?」
「あのしろくまのことか?欲しいって言ってから取っただけだ」
「……そっか」
「それがどしかしたのか?」
「べつに」
飾音の『べつに』は不機嫌なときに出る決まり文句だ。
「何怒ってんだよ」
「べつに怒ってないし」
めっちゃ怒ってんじゃん。
いつもみたいにドSな飾音じゃないと気持ち悪いんだが。
「ねぇ覚えてる?」
「なにが?」
「ボディーガードのこと」
♪
あれは五歳くらいだったかな。
ハルと二人で毎週観ていたアニメがあった。
そのアニメは、お城に住むお姫様と貧困層に住む少年の恋の物語で、その少年いつもお城から金品や食料品を盗んでばかりで目をつけられていたけれど、捕まることなくうまく掻い潜ってきた。
ある日、城内で鉢合わせをした二人はお姫様を連れ去ってしまう。
連れていかれたお家に行くとそこには小さな子供たちがいた。
この子たちは親に捨てられ食べるものもなくこのボロボロのお家に住んでいて、ごはんを食べるのがやっとの状態。
この家は最初にその少年を拾ってくれた老夫婦の家だったが他界してしまい、その見窄らしさから仕事にも就けない状態のため、城に潜り込み、その盗んだもので小さな子供たちを食べさせていた。
それからお姫様は彼の家に行って余ったパンや着なくなった服をあげていたが、それが王族にバレて追放されてしまう。
父親である国王になんとかお願いするも野蛮だと言って関係を拒絶され、隣国に追放される。
そこでしばらく平穏な日々をすごすが、隣国の姫であることを知った野盗たちに狙われ命の危険に晒される。
彼はボディーガードとしてお姫様を守りながら貧しくも幸せな日々をすごす。
私たちはよくこのアニメの真似をしていた。
「僕が飾音のボディーガードになる!」と言ってお姫様役の私を守ってくれる役になっていた。
でもハルはきっと覚えていないだろうな、あのときはまだ小さかったし、半ば強引に付き合ってもらっていたから。
このときのことを私だけ鮮明に覚えていて、ハルは私のボディーガードだと思っていた。
なのにもなちゃんが来てからというもの、私との時間がすごく減った気がする。
私には見せない表情を見せる度に胸の奥が締めつけられる。
正直ぬいぐるみなんて取ってほしくなかった。
そんなことしたらもなちゃんの気持ちが強くなっちゃうから。
これ以上もなちゃんとの距離を縮めてなんかほしくないよ。
☆
嫌な時間がやってくる。
今週は俺と友遼が掃除当番で風呂とトイレをしなきゃいけない。
とくにこの時期は汗と湿気で身体中の活力を奪われるため、みんなが嫌がる当番の一つだ。
億劫とはまさにこのことを言うのだろう。早く終わらせてゲームをしたい。
浴槽は結構大きめに作られていて二人で終わらせるには結構な時間がかかるため、できるだけサボろうと駆け引きし合っていたが、公平を期すために一発勝負のじゃんけんで勝った。
半分以上を友遼が掃除することになり小さな優越感に浸りながら口を開く。
「お前、飾音ちゃんに何かしたのか?」
「俺はいつも何かされてる側だぞ」
「やけに元気なかったぞ」
「乙女デーだったんじゃね?」
「女の子の日ってことか?」
友遼曰く、女子特有のホルモンバランスが崩れる定期的にやってくる月経のことを勝手に『乙女デー』と呼称しているが、残念ながら誰一人浸透していない。
「それだけじゃないと思うけどな」
「どういうことだよ?」
「まぁあんま掻き乱すなよ」
「何のことだ?わけわかんねぇって」
「飾音ちゃんと元宮のこと」
「あの二人仲良くなるの早いよな」
「そうじゃなくて」
相変わらず鈍感なやつだ。
飾音ちゃんに好意を持たれていることなんて見ていたらわかる。
ってか友遼以外全員気づいているぞ。
元宮についてもだ。
俺と話すときと表情がまったく違う。
瞳の奥をキラキラさせているし、友遼の行動に敏感に反応している。
「俺なんかしたか?」
「しまくりだよ」
ここまで鈍感だと逆に尊敬する。
恋愛経験とかいう以前に男女というものが別の思考を持っていることから理解したほうがいい。
「このままじゃ、きまぐれオレンジロードみたいになっちまうぞ」
「なんだそのみかんがたくさん食べられそうな夢のような道は」
「知らねぇのか?1980年代にヒットした恋愛漫画で、特殊能力を持った主人公の恭介と同い年のまどか、年下のひかるの三角関係がめちゃくちゃ面白いんだ」
その後、面白さを伝えようと熱弁したがきっと一割も理解していないだろうな。
アメリカ人の母親は大の日本好きで、とくに昭和や平成のアニメや漫画を見て日本語を勉強していた。その影響でたくさんの本が置いてある。
これが二次元女子だったら最高のシチュエーションなのに。
美人というよりはかわいい系の飾音ちゃんは出会ったころからよくモテていた。
愛嬌もあり面倒見も良いから後輩からの人気が高く、中学のときなんて毎年のように告白されていて、どれくらいの人をフったのかわからない。
一時期校内では変な噂が流れていて、俺とも友遼とも付き合っていて二股をかけているとか、実は街に本命がいて俺たちは単なる遊びだなんて噂まで流れたため俺たちで一蹴したが、真面目で繊細な彼女はひどく傷つきしばらく元気がなかったことがある。
そのとき俺たちは飾音ちゃんの実家に行って慰めていたことをよく覚えている。
そんな飾音ちゃんは昔から変わらず友遼一筋なことを本人はまったく気づいていない。
「話は変わるんだけどさ」
さっきとは違うトーンで話しかけたことでテキトーにブラッシングをしていた友遼の手が止まる。
いまだ手がかりすらつかめていない失踪した二人について元宮にも協力してもらうか飾音ちゃんから相談を受けていたことを伝える。
彼女ほどの拡散力があれば有力な情報が集まる可能性が高いが、俺と飾音ちゃんだけで決めてしまうのはなんとなく違うと思ったので、一応親友の意見も訊いておこうと思った。
友遼の答えはノーだった。
リア凸され、刃傷事件が起き、精神的に傷ついている状態で、その二人の情報もいまだに進展なく捜索範囲もあまりに曖昧だから。
彼女のためにもここは俺たち三人とキルケアで捜すのが良いと判断した。