act.13 はじまりのよる
穏やかな風と温かい光を感じて、私はゆっくりと瞼を開いた。
陽の光に反射する白い壁が、私の脳を揺り起こす。
――いつから、寝ていたんだっけ。
眠る前の記憶がよみがえる。
想いを言葉にして、お互いに気持ちを伝えあったあの時間は
今でも顔が熱く感じるほど、私の心を加熱させている。
恥ずかしいという気持ち以上に、嬉しい気持ちがこみ上げる。
気持ちを噛みしめていると、側からほんのり甘い香りが漏れてきた。
そっと視線を右下に落とすと、そこには猫のように丸まって眠る梨佳の姿。
あまりにも小動物のようなその様子に、
「――くふっ……」
思わず笑みが溢れた。
自分でもびっくりするくらい、自然な笑顔だった。
こんなふうに笑ったのは、いつぶりだっけ。
そんなことを考えていると、その猫がもぞもぞと動き始め、
ゆっくり伸びをするように張り始めた。
「おはよ、梨佳」
そっと髪を撫でる。
梨佳はぴくんと背中を震わせ、ゆっくりこちらを見つめてきた。
「んっ…んぅ〜…おはよぉ〜…」
まだ眠たそうな、ふわふわな声色で声を漏らしたあと、
くしくしと目をこする。
気のせいか、目を開くにつれて顔が紅く染まっていく。
きっと、夜のことを思い出しているのだろう。
しばらくシーツに顔を埋めてあたまをぶんぶん振ったあと、
キラキラの笑顔をこちらに向けてきた。
やわらかな光を受けて、梨佳の目に私の笑顔が反射する。
二人分の小さな笑い声が、
無機質な部屋をやさしく染め上げていった。
ふと、梨佳の肩に見慣れないブランケットがかかっていることに気がついた。
昨日はこんなもの、なかったはずだ。
素材はふわふわで、端の方には可愛らしいポケットがついている。
「あれ、それ……」
私が言いかけると、梨佳も自分の肩を見て、小さく首を傾げた。
「……うん? あれれ、なんだろこれ。寝てる間に……?」
そのポケットに、何かが入っている。
梨佳が手を伸ばして中を探ると、小さく折り畳まれた便箋が一枚。
宛名も、送り主の名前も書かれていない。
でも――読み進めるうちに、梨佳の表情が少しずつ変わっていくのが分かった。
最初はぽかんとしていたその顔が、みるみるうちに歪んでいく。
――ぽた。
一滴、雫が紙に落ちる。
そしてまた、一滴。
「……っ、ひぐっ……うぅぅ……」
声にならない嗚咽とともに、梨佳の手が小さく震えた。
目元からは次々と涙があふれ、頬をつたって落ちていく。
「梨佳……?」
私はそっと身を起こし、梨佳の手元を覗き込もうとした。
けれど、梨佳はそっとその手紙を胸元に仕舞い、笑った。
ずぶ濡れの笑顔で、でも確かに、しっかりとした声で――
「だいじょーぶ!」
その声があまりにまぶしくて、私は言葉を飲んだ。
「……お母さんからだった。でもね。いつか、あたしもちゃんと“ただいま”って言いたいの。ほんとの気持ちで、心から……言えるようになってから」
涙でぐしゃぐしゃのままの顔で、それでもしっかり前を見て、梨佳は言った。
私はその手をそっと取って、やさしく引き寄せた。
「……いっしょに、がんばろうね」
そう呟くと、梨佳はまた涙を零しながら、こくんと頷いた。
今度は、私が手を引いて歩いていこう。
これから先の道を、一緒に――
梨佳の涙が引いた頃、病室のドアが、ゆっくりと開いた。
「お邪魔するよ~。ふたりとも、起きてるかい?」
顔をのぞかせたのは、見慣れた柔らかなショートヘアと、気のいい笑顔の――店長、桐絵さん。
「……店長!」
「お、おはようございます……」
「ふたりとも、落ち着いたみたいで何よりだよ。ゆっくり休めたかい?」
ベッドのそばに腰を下ろした店長は、手に持った紙袋をことはに差し出す。
「はい、これ。退院の時に使う着替えと、お見舞い用のスコーン。ウチで焼いたやつ」
「……ありがとうございます」
「それとね、今日はもう一つ、大事な話をしに来たんだ」
そう言って、店長はちょっとだけ真面目な顔になる。
「……あんたたち、これからどこに帰るつもり?」
質問の意味を理解した瞬間、梨佳と私は目を見合わせた。
「……実はまだ、ちゃんと決めてなくて」
「そうだと思ったよ。だからね――ウチの二階、空いてるの。前の住人が出てからずっと空室でね。狭いけど住めるよ」
「えっ……!」
「もちろん、バイトも継続してOK。家賃なんて取らないよ。そのかわり、店のことは今よりちょっぴり手伝ってもらうけどね」
思わず、息を飲む。
あたたかな香りに包まれた場所。
大人として、でも時には親みたいに、距離感を守りながら寄り添ってくれる人がいる場所。
――ここが、新しい“居場所”になるのかもしれない。
「……いいのかな、私たち」
「いいに決まってるだろ。ウチとしても助かるんだから」
優しくウィンクする店長に、私と梨佳はそっと手を取り合った。
それは、迷いのない決意の握手。
「……ありがとうございます」
「よっし、それじゃあ。退院したら引っ越し作業だね」
ふたりで一緒に、頷いた。
それが、“本当のはじまり”の、合図だった。
退院してから数日後。
私たちは最後に一度だけ、小屋へと足を運んだ。
焚き火跡に積まれた黒く焦げた石。
魚を釣っていた川辺には、小さな水音がかすかに響いている。
「……なんか、ずっと前のことみたいに感じるね」
ぽつりと呟いた私の言葉に、梨佳が隣でそっと頷いた。
「ことはったら、いってきますとかなかなか言ってくれなかったもんね。」
いじわるそうに笑う梨佳に無意識に頬が膨らむ。
「起こしたら悪いと思っただけ、だよ・・・」
少し目を逸らすと、温かな両手が私の口の中にある空気を追い出した。
「じょーだんだよ!あの日の湯たんぽ、すっごく嬉しかった!」
「……もう。」
風がそっと、草を揺らす。
夕暮れの光が、ふたりの影を長く伸ばしていく。
斜めの光が、小屋の中を照らした。
お世辞にも快適とは言い難いその空間。それでも私達の生活に目立った不満を感じさせなかった。
それだけ、今隣りで笑う少女の頑張りを感じさせた。
「……ありがと、梨佳」
「ふぇ?」
梨佳はきょとんとした顔で私の顔を覗き込んできた。
「梨佳が居なかったら、こんなとこじゃ暮らせなかったと思う」
暫くの間、目を丸くしていた梨佳は、ふにゃりと笑って、表情をくしゃっと崩した
「あたしも、ことはがいなかったらここまでがんばれなかったよ!」
眼と眼が合う。
その瞬間、お互いに笑みがこぼれた。
ひとしきり感傷に浸った後、梨佳が よし!と頬を叩いて、改めて小屋を見据える
「えへへ。さ、じゃあ~!引っ越し完了、しちゃおっか!」
「うん。」
最後にもう一度、小屋の入り口を振り返って、私は小さくお辞儀をした。
“ありがとう”と“さようなら”を心の中で伝えながら。
そして、私たちは新しい居場所へと歩き出した。
その夜。
引っ越しを終えたばかりの珈琲店の二階。
カーテンを開けると、ネオンの光と夜空が、優しく混ざり合っていた。
「ねえ、ことは」
隣に座る梨佳が、ぽつりと問いかける。
「10年後も、あたしたち一緒にいたら……何してると思う?」
しばらく黙って、私は窓の外に瞬く星を見つめた。
「……隣で、珈琲飲んでる気がする」
梨佳が、小さく笑った。
「なにそれ、地味すぎ~!」
「でも……なんか、それでいい気がするの」
隣を見ると、梨佳も同じように星空を見上げていた。
瞳に反射する星々のきらめきは、まるで私達のこの先を、明るく照らしてくれているかのようだった。
「今日の星、めちゃ綺麗だね~!」
こっちを向く梨佳の顔は、どの星よりもまぶしく見えた。
「うん、そうだね……」
再び視線を空に向ける。
月もまた、明るい光を浴びて綺麗な円を描いていた。
そのとき、梨佳は小さく呟いた
「うちゅうぐみ……」
「えっ?」
思わず聞き返してしまった。
宇宙組。クラスメイトから揶揄された蔑称だ。
私はその呼び名が嫌いだった。
梨佳は続けて言の葉を紡ぐ。
「うちゅうぐみ……あたしは、その呼び方キライじゃなかったんだ」
曇りない笑顔で言う彼女に、私は問いかける。
「どうして?」
「だって――」
これまで以上のきらめきが、私を包みこんだ。
「ず~~っと変わることなく、ことはのこと、照らし続けてるみたいじゃん!」
そんなことを言ってのけるその笑顔が、たまらなく愛おしい。
でも――
「でもね」
言の葉に憧憬したあの日々。
言葉にできなかった想いを、日々飲み込んできた。
深呼吸をして、私も言の葉を紡いだ。
「私も、梨佳のこと、照らせるようになりたいな」
今はまだ、遠い未来。
けれど、“いつか”を信じられるようになった今、
この夜はただの夜じゃない。
――“はじまりのよる”なんだ。
ふたりで並んで見上げる、星空の下。
この灯が、未来まで続いていきますように。
――――――――Fin――――――――
【あとがき】
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
「言の葉の憧憬」は、
うまく言葉にできない“想い”と、それでも誰かと繋がりたい“願い”を、
一つずつ手で掬い上げるように紡いだ物語です。
誰かの「言葉にならない気持ち」に、
ほんの少しでも寄り添えていたなら、それほど嬉しいことはありません。
琴羽と梨佳のこと、好きになってくれたら嬉しいです。 もし感想やレビュー、ブックマークなどいただけたら…励みになります!
またどこかで、お会いできますように。
――九重ゆりか より。