act.12 おとなのはなし
琴羽ちゃん達が病室に戻ったのを確認してから、
ウチは改めて今いる大人達を一瞥する。
すると、先生が手ぬぐいで冷や汗を拭きながら声を掛けてきた。
「桐絵さん、お久しぶりです。いつぞやはお世話になりました・・・。あのお店、継がれてたんですね」
改めて思い出す、 そういえば、楽しそうに教員免許を取ったことを話していた客が昔居たな……
「あぁ、誰かと思えば、”新人”教師の高橋先生かい?」
高橋は目を泳がせながら、そうですと頷く。
「はは・・・相変わらず手厳しい。もう、何年前になりますかね……。」
「少なくとも、ウチがまだオヤジの見習いだった頃だね。かれこれ10年くらいか。」
そんな話をしていると、視界の端に苛立ちの表情を浮かべながらスマホの操作をする琴羽母の姿が見えた。
そうだ、こんな話をしている場合じゃない。
高橋に目配せをし、意図を伝える。
高橋は一瞬の間を置いて頷いた。
改めて母親達に向き直り、ゆっくりと口を開く。
「お母さん方、一旦、場所を移しませんか。先程は少し、騒がしくしてしまったのでね。ここからそう遠くはない場所にウチの店があります。そこで、二人の今後についてご相談させていただきたいのですが。」
騒がしくしてしまった、という部分に梨佳母はピクリと肩を震わせ、申し訳無さそうに頷いた。
琴羽母は、スマホから目を離すことなく。
「手短にお願いしたいわ」
そう呟いた。
「……ここから数分で着きます。ついて来てください。」
あまりの無関心さに、ウチは苛立ちを覚えた。そこまで琴羽ちゃんの事が憎いのか……?
苛立ちを隠すように頭を振り、病院を後にする。
外に出ると、すっかり陽も落ち、街並みをネオンライトが煌々と照らしていた。
静かなドアベルの音が、店内に柔らかく響く。
落ち着いた色合いの木製の壁。天井から吊るされた温かなランプの光が、珈琲の香りとともに空間を満たしている。テーブルの上には、季節の花を挿した一輪挿しが静かに揺れていた。
「どうぞ、おかけください」
全員を奥のテーブルに案内する。 教師の高橋は素直に椅子を引き、梨佳母はやや落ち着かない様子で隣に座る。 琴羽母は表情を変えぬまま、スマホを操作しながら一拍遅れて椅子に腰を下ろした。
カウンターに立ち、一人一人に珈琲と、軽くトーストしたサンドイッチの皿を配っていく。
カップから立ち上る湯気が、しばしの緊張を和らげるようにも思えた。
「一息ついてからでも構いませんが、手短に話を進めましょうか」
不思議と気持ちは落ち着いていた。
「まずは……梨佳ちゃんのお母さん」
呼ばれた梨佳母は、驚いたように目を瞬かせ、軽く頷いた。
「……正直、あの子は昔から少し普通じゃなかったのよ。友達の話をしても、それがどうも現実味がないというか。『お陽さまが友達』だなんて、幼稚園の頃からずっと言ってたの。小学校に上がってからは、物を壊してしまったり、琴羽ちゃんの事になると、私にも反抗的になって・・・」
少しずつ、言葉が強くなっていく。
「私は、母親として向き合ってきたつもりよ。でも、思春期に入ってからも何も変わらないどころか、学校で人を殴るようにまでなった。……もう、どうすればよかったの?」
黙って相槌を打ちながら、そっとカップに口をつける。 やがて、柔らかく問いかけるような口調で口を開いた。
「……では、梨佳ちゃんが家を出て行ったとき、あなたはどう対応しました?」
「……学校に通ってるのは確認できてたし、捜索願いなんて出す必要はないと思ったのよ。ほら、若い子って、外に出てすぐ帰ってくることもあるでしょ? 時間が経てば気づくと思ってたの。私の元に、帰ってきてくれるって」
その言葉に、高橋がわずかに眉を寄せた。
そして、色々と言葉選びをしているのか、数拍置いてからゆっくりと口を開いた。
「つまり、“何もしなかった”と?」
「――っ」
梨佳母は言葉に詰まり、軽く視線を逸らす。
高橋が少し感情的になっている事を察し、待って、と目で合図する。
高橋はこちらに気づくと、少し目を開いたあと口をつぐんだ。
そしてウチは、一拍置いて言葉を続けた。
「お母さん。あなたの考えが間違っているとは言いません。でも、梨佳ちゃんはずっと、“見てほしかった”んじゃないですか? 話す機会も、逃げずに向き合ってくれる誰かも、ずっと求めていたように思います」
「子どもは親に従うものよ!」
声の温度が、急激に上がる。
「親にだって限界はあるの! 話すべきなのは、あの子のほうよ! 私に、謝るべきなのは――」
「……落ち着いてください」
高橋が穏やかに制止する。
梨佳母は、はっとして、深く息を吐いた。そして珈琲を一口だけ飲み、目を伏せる。
しばしの静寂を置いて、再び口を開いた。
「では、次に。琴羽ちゃんのお母さん。……あなたは、娘さんと、これからどう向き合っていくおつもりですか?」
その問いに、琴羽母はようやくスマホを操作する手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……それは、あなたたちには関係のないことよ」
冷たい声。まるで、この場にいることすら時間の無駄だと言わんばかりの空気だった。
ピシ、と静寂が軋む音がしたような気がした。
何も言わずに煙草を取り出した。火をつけ、ゆっくりと一度、煙を吐く。
まあ、こんな言葉が出てくるのは想像に難くなかった。
――少し、揺さぶりを掛けてみるか。
そして、鋭い眼差しのまま、琴羽母に言い放った。
「――じゃあ、関係のある人間が、誰もいなかったら、この子は誰に縋れば良かったんでしょうね?」
琴羽母は、その言葉を聞いても表情を変えなかった。
ただ一度、煙が漂う空気を鼻先で払いのけるようにして、小さくため息をついた。
「……何が、縋る、ですって?」
皮肉気な声。
「貴方たちは、琴羽の何を知っている? ほんの一部を見ただけで、私を“冷たい母親”に仕立て上げるつもり?」
――釣れた。
煙草を唇から外し、静かに灰皿へと叩いた。
「だったら、教えてもらえますか。琴羽ちゃんがあそこまで壊れるほど、あなたは彼女に何をしたのか、しなかったのか」
しばしの沈黙。そして
「縋りたいのは私の方よ」
やがて、琴羽母は笑った。乾いた、感情のこもらない笑いだった。
「……小学校に入ったばかりの頃……だったかしらね。あの子の父親が死んだのは。交通事故・・・。急だったわ。あの人は本当に、優しかった。私よりも、あの子を大事にしていたぐらい」
その口調は、回顧というよりも、疲れ切った吐露に近い。
「だから私は、彼がいなくなったあと、怖くなった。――支えてくれる人がいないと、生きていけないって思ったのよ。女手一つで育てるなんて、現実的じゃなかった。すぐに誰かに縋らなければって思った」
――身勝手だ。
気持ちが全く分からない訳ではないが、それでも最悪の選択肢を取り続けていた眼の前の存在に、酷く嫌悪感を抱く。
口を開こうとしたその瞬間、それまで聞き手に回っていた高橋が、静かに言葉を発した。
「そして琴羽さんを……置き去りに?」
高橋の声は抑えていたが、確実に棘があった。
「ええ。あの子を見るたびに思い出すのよ。死んだ人の面影を。寂しさとか、虚しさとか。だからって、虐待したわけでもないわ。ただ……近づきたくなかっただけ」
――手を下さなくても、それは虐待に近しい行為じゃないか。
胸の中に、黒い感情論が渦巻く。
だが、これを言葉にした所で、何にもならない。
静かに煙を吐いた。
その沈黙が、逆に場の緊張を煽っていく。
「それで?琴羽ちゃんが黙って姿を消した時……あなたはどう思ったんです?」
琴羽母は眉を動かすことなく、言った。
「“都合がいい”と思ったわよ」
高橋が目を見開いた。
「……ええ、本当に。だって、うちにはもう、あの子を受け止められる余裕なんてなかったもの。だから正直、あの子が梨佳さんと一緒に暮らしてるって聞いて、安心したの。誰かに拾われて、良かったわねって」
灰皿のふちを叩く音が、妙に鋭く響いた。
無意識に、灰を落とす指に力が入る。
ズキンとこめかみに鋭い痛みが走る。
痛みを振り払うように、カウンターを叩きつける。
そして、あまりの嫌悪感に震える声を、ぶつけた。
「拾われて、って……良かったって……それが親の言葉なのか!?」
微かに舞った煙草の火種が、指をかすめる。
小さな痛みが走り、ハッとする。
――ウチとしたことが、少し熱くなりすぎたか。
視線を琴羽母に戻すと、顔色一つ変えずにこちらを見据える双眸が鈍く光を反射しているのが見えた。
「現実よ。――私は、今さら母親面するつもりもない。さっさと縁が切れるなら、それが一番いいって、今でも思ってる」
その言葉には、取り繕うそぶりすらなかった。
どこまでも冷たく、どこまでも“本音”だった。
――話にならない。
静かに煙草を揉み消し、再び視線を真っ直ぐに琴羽母へと向けた。
「……なるほど。じゃあ、ひとつ、はっきりさせておきましょう」
テーブルの下で足を組み替え、肘をついて身を乗り出す。
「この先、琴羽ちゃんの件で急な連絡が必要になった時、ウチに連絡が来るようにします。――貴女ではなく。」
眼の前の存在は、身動ぎ一つ見せずに
「そう」
たった一言、呟くだけだった。
「琴羽ちゃんの“保護者”としての責務。あなたが放棄するなら、ウチが代わりをやる。病院の連絡も、緊急連絡先も、今後一切、ウチが引き受けます。問題ありますか?」
琴羽母は視線を逸らしたまま、鼻で笑った。
「……勝手にすればいいわ。そもそも、私は関わりたいとも思っていない。貴女が好きにすればいい」
「そうさせてもらいます」
琴羽母は、再びスマホに視線を落とすと、舌打ちを零す。
そして、忌々しさを感じさせる声色でゆっくりと立ち上がりながら呟く
「――話は済んだかしら。」
――この人は、一体どこまで……
頭に渦巻く黒い思考を振り払い、口調を崩さぬよう気をつけながら声を重ねる。
「――ええ。以上です。本日はお付き合い頂きありがとうございました。」
それ以上、琴羽母からの返答は無く、ドアベルの音が冷たく店内に響いた。
深いため息をつく。
身を切るような静けさが支配する中、真っ先に沈黙を破ったのは、梨佳母だった。
「――私、梨佳にはああいう風な人に見えていたのかな……?」
自分の震える両手のひらを見下ろし、両目からは小さな雫が浮かぶ。
きっと、この人なりに思うところがあったのだろう。
その姿を見て、高橋は少し表情を和らげて言った。
「……確かに、方法は間違っていたかもしれませんね。ですがお母さんの気持ちには、確かに梨佳さんの成長を望む想いが確かにあった。……今からでも遅くはないはずです。ゆっくり、方法を考えていきましょう」
小さな雫はどんどん膨らみ、筋を作る。
高橋は、何かを噛みしめるように静かに息を吐いた。
「……教師って職業、無力ですね。こうして、家庭の中に何があるかなんて、教室じゃ見えない」
「……そうかもな。でも、出来る限りのことは出来たハズさ。ありがとな、先生」
声は静かだったが、重く響いた。
その場に流れる沈黙は、もはや言葉よりも雄弁だった。