act.10 こごえるおもい
静寂が支配する病室。カーテンが風に揺れ、白い布がゆっくりと波打っている。
重い瞼を開けると、天井の蛍光灯がぼんやりと視界に入った。異物感のある左腕に視線を移す。点滴の管が繋がれ、腕には包帯が巻かれている。その包帯の上には、小さな絆創膏が貼られていた。見覚えのある、かわいらしいうさぎ柄。
――梨佳。
隣を見ると、ベッドの脇にうずくまるようにして眠る梨佳がいた。頭には包帯が巻かれ、制服は皺だらけで、所々に小さな血の痕が付いている。右手には自分の手をしっかりと握ったまま、かすかに寝息 を立てていた。
右手をそっと動かし、梨佳の髪を撫でる。
「……んっ……?」
微かな動きに反応し、梨佳がゆっくりと顔を上げる。その目が開かれた瞬間、瞳が大きく揺れ、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「ことは……っ!」
手の力が強くなる。
「よかった……ほんとによかった……」
震える声と、頬を伝う涙。梨佳はそっと琴羽の手に指を添え、何度も何度も撫でるようにさする。
琴羽はそんな梨佳の顔を見つめた。
怪我をしているのに、無理をしてここに付き添ってくれていたのが分かる。
「……梨佳、大丈夫?」
声を絞り出すように尋ねると、梨佳は慌てて首を振った。
「それよりことはだよ。痛い? どこか苦しい?」
優しく問いかける梨佳に、琴羽はかすかに首を振る。
「大丈夫……それより、梨佳……」
言いかけた言葉を飲み込み、代わりに小さく微笑んだ。
「……ありがと。」
梨佳もまた、涙に濡れた顔のまま笑った。
少し落ち着いてから、私は夢の話をした。
「……梨佳に、話したことなかったけど……。最近、夢を見るの。昔のこととか、よく分からないこととか……」
「……どんな夢?」
私は少し迷いながらも、ぽつりぽつりと語り始める。
「・・・幼い頃、梨佳に言われたんだ。私のこと、お陽さまだって」
「あー、そんなこと言ったかも!」
梨佳がくすりと笑う。
「でも、その時思ったんだ。梨佳のほうが……その……お陽さまみたいだって」
梨佳の目が少し見開かれる。
「だって……いつも、私のそばで笑ってくれて……私が暗い場所にいても、明るく照らしてくれるから」
「ことは…………」
優しく名前を呼ぶ声。琴羽はゆっくりと息を吸い込んだ。
今なら言える。
この気持ちを。
「梨佳……あたし……」
――その時だった。
病室の外から怒鳴り声が響く。
「……っ!」
梨佳がびくりと体を震わせ、顔が一気に青ざめる。
「梨佳?」
何か様子がおかしい。戸惑う間に、梨佳は突然ベッドから立ち上がり、病室のドアへと駆け出した。
「ま、待って!」
点滴の管を引きずりながら立ち上がる。
病室の外では、教師と梨佳の母親が言い争っていた。
「――暴力なんて、許されることじゃありません!」
「だからって、うちの子だけ責めるなんておかしいでしょう! それに、あの子がここにいること自体、親として恥ずかしいのよ!」
「梨佳……」
梨佳の横顔を覗くと、唇をきつく噛みしめていた。震える手で、ぎゅっと拳を握りしめる。
その瞬間だった。
「何してんのよ!」
梨佳母が突然、梨佳の頬を全力で叩いた。
「っ……!」
鈍い音と共に、梨佳が床に倒れる。
「自分が何をしたのか分かってるの!? 学校で暴力を振るったって、あんた……!」
梨佳は反論しようと口を開く。しかし、その声は母親の怒声にかき消された。
「ふざけないで! みっともない真似して……!」
「うるさい!」
俯きながら梨佳が叫ぶ。床には涙が滴る。
「お母さんがそんなだから!周りばっか見て、あたしのこと見てくれないから!
だから家を出ていったって、まだ気付かないの!? あたしを探したりすら、しなかった癖に!!」
梨佳母は口を震わせたあと、梨佳の髪を掴んで大きく掌を振りかざした。
教師が慌てて梨佳母を止めに入る。
一瞬の静寂が訪れた。
梨佳は俯いたまま、わなわなと震えている。
梨佳母は声のトーンを落としながら、教師と口論を続けている。
そしてその時、琴羽は病院の受付に立つ一人の女性の姿を見つける。
その後姿を見た途端、脳が理解を拒んだ。
「あ……」
心臓が握り潰されるような感覚がした。
体がガタガタと震え始める。
傷口は包帯でケアされているにも関わらず、全身の血が失われてしまったかのように冷えが広がっていく。後退りすることさえ出来ない。
「お母さ――」
母親の目がこちらを一瞥する。しかし、その視線はすぐに逸れ、受付との会話を続ける。
――無視。
やがて話が終わると、母親は表情一つ変えずにこちらへ歩み寄る。
「……病院費用は自分で払いなさい」
それだけを淡々と言い放つ。
「甘えるな。」
その冷たい言葉が胸に突き刺さる。
足の震えが限界を迎え、私はその場にしゃがみ込んだ。
「――失礼、少しよろしいですか」
低く、しかしはっきりとした声が響く。
顔を上げると、少し身長の高い細身の女性が立っていた。
「て……店長…………?」
店長と呼ばれた女性は、やぁ、と軽く笑顔で挨拶した。
しかしその笑顔はすぐに消え、真っ直ぐな視線を私の母親に向けていた。
「急にすみません。わたくし、6番通りのしがない珈琲店を経営しております、
高田 桐絵と申します。琴羽ちゃんはウチでバイトをしていましてね、いつも琴羽ちゃんにはお世話になっております。」
姿勢良くお辞儀をし、名刺を差し出すが、私の母親は受け取らなかった。
「琴羽がいつもご迷惑をおかけしてすみません。……それで、そのような方が私達に何の用ですか?」
言葉の温度は冷たいままだった。
「いやぁ、すみませんね。盗み聞きをするつもりは無かったんですが。聞こえてしまったもので。先生、梨佳ちゃんのお母さん、琴羽ちゃんのお母さん……まずは、この子達をもう一度休ませませんか。傷ついた子達の前で話す事ではありませんし」
凍えた手を取り、店長がそっと微笑む。梨佳も、噛み締めていた唇の力が抜け、涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「琴羽」
冷たい声が響く。
「お前はまだ、人に迷惑を掛けて生きていくのか」
全身の毛が逆立つような嫌な感覚が襲う。
その瞬間、温かなものが私に触れた。
梨佳が私の肩に寄り添い、包み込むように抱きしめてくれていた。
店長も、私の手を握り続けてくれている。
喉の凍えが、少しずつ、少しずつ溶けていく。
気付けば、私は声を出していた。
「ごめん……なさい。でも、もう、放っておいて……これ以上……私の気持ちを壊さないで……」
涙が溢れてくる。
「ことは……」
私の肩をきゅっと掴む梨佳。
「よく頑張ったよ、琴羽ちゃん。……後は、大人に任せてくれるかい?――梨佳ちゃん、琴羽ちゃんを頼んだよ」
店長は、ぽんぽんと頭を撫でた後、梨佳に私を預け、大人達に向き合う。
私は梨佳に連れられ、病室へと歩みを進めた。
途中、ふと後ろを振り返る。
店長の背中は、その場に居たどんな大人達よりも、頼もしかった。