ユーリカ
「今日の結婚式、素敵でしたね」
ユーリカの声は上から降ってくると同時に、右耳を押し当てた胸板の奥からも響いてきた。部屋着越しのあたたかな胸は呼吸と共にゆっくりと上下している。すべらかなシーツの上に脚をのばしながら、ないはずの心音を探した。部屋は暗く、窓の向こうに微かな雨音が聞こえる。ヒールでの移動中に降らなくてよかった、とつくづく思った。
「ね。いいもの見た」
「ええ本当に」
澄んだ光の差し続けていた式場の景色を反芻する。窓から見える緑は爽やかに揺れ、列席者の装いは華やかに。そして――。
「ウエディングドレスも素敵でした」
同じように記憶を辿っていたらしいユーリカが言った。
「本当にね。似合うだろうなとは思ってたけど、あんなに綺麗だなんて思ってなかった」
「選び抜いたのでしょうね」
「そうね。……ああ、そうね。あの指輪交換もすごかった」
思い出すと思わず頬が緩む。ああ、とユーリカも笑った。
「普通スムーズに嵌まるものですよね?」
「うん。初めて見た、あんなに踏ん張りながら指輪嵌める新婦」
木造の色味を縁取るような白の花々が美しいチャペルだった。厳かに進む式のさなかいよいよ指輪交換となったが、新郎の指輪が関節を通らなかったものらしい。次第に腰を落としながら「本気」の体勢になっていく二人がおかしくて、列席者はみな笑いを堪えるのに必死だった。隣で見ていたユーリカもくつくつと肩を揺らしていた。今のように。
「すごかったですね。なんだったんでしょう、サイズを間違えたのでしょうか」
「サイズというか……緊張で汗かいたりしたんじゃないかな」
「ああなるほど。人体って不便ですね」
「そう。肝心な時にままならない」
穏やかに笑いあう。大学の先輩として私を招いてくれた二人は実に似合いの夫婦だった。見る者に淡い緊張感さえ抱かせるような美男美女の割に、どこか締まらないかわいらしさもある。そんな二人の式は終始和やかな雰囲気だった。ユーリカの同行も許してくれた上に席次まで配慮してくれたので頭が上がらない。最早そういう時代ではないとは自分でも思いつつ、それでもやはり断られる可能性はあると思っていた自分たちに、二つ返事での了承は思っていたよりも深い喜びをもたらした。
「よかったね、見られて」
「ええ」
ユーリカは深々と息を吐いた。
「……緊張しました。僕が入れてもらえるとは思ってなかったので」
「時代だよ、ユーリカ」
その胸に心音はない。ただ、穏やかな呼吸だけが繰り返し満ちては引く。
「私たちより下の世代は、アンドロイドに偏見を持っていない人間の方が多いから」
「……嬉しいことです」
声は少し和らいだ。式場で隣に座っていた時の鯱張っていた様子は影もない。
緊張のあまり終始背もたれを使わず垂直に畏まっていたユーリカは、式場の誰よりもひっそりと佇み、それでいて式場の誰よりもストイックに拍手を送っていた。その張りつめ具合は見ていて吹き出しそうになるほどだったけれど、本人にしてみれば極めて深刻なものだったらしい。帰り際、新郎新婦の見送りを受けながら、ユーリカは実に深々と頭を下げて心からの礼を述べていた。
――私のようなものを入れてくださって、本当にありがとうございました。
「僕が作られた頃、ああいった場には入れてもらえないのが常でした。式場に自動車を同伴するようなものでしたから」
ああ、と曖昧な声が漏れた。異常な表現だが、的を射ている。
人間の生活を補助するためのロボット技術は加速度的に進歩していき、その果てに残ったのが「機械にはできない補助をどうやって機械で行うか」という課題だ。このアンチノミーを突き付けられた技術者たちは結局、人間的な機械を創り出すことでこれを解決した。赤子から育てる必要もなく、エネルギー効率にも学習効率にも優れ、そもそもが機械なので倫理的問題を考える必要もない。電気信号で動くローコストな奴隷として、或いは人間型の家電として作られたのが、ユーリカたちアンドロイドだった。
それを冠婚葬祭に同伴するのはあくまでも介助などの目的のためであって、列席者のひとりとして席を用意するなどということは考えられない。そういう時代は割と長くあったし、今もまだ完全には終わっていない。
醜悪だが当然の帰結だと思う。当然の帰結であり、人間の身勝手の象徴でもある。
「家電だったからね。当時のアンドロイドの区分は」
ええ、とユーリカが答える。
「今もそうです。体温と呼吸を備えたところで、僕たちは考える機械でしかありませんから」
穏やかな台詞がするりと胸に落ち、重い淀みとなって沈んだ。ユーリカ自身は単なる事実としてそう言う。けれど、聞かされる私はそこにある棘で都度内側を引っ掻かれる。
「……そんなことないよ」
「いいえ。これは今も同じです」
笑い混じりに言ったユーリカはこちらの不服を察してか、徐に手を伸ばして私の左耳を塞いだ。私の精神的な不安定性を落ち着かせようとする時、ユーリカは必ず私の耳を塞ぐ。
「……時々、考えていました」
声は胸の奥から聞こえてくる。ユーリカはただ静かだった。
「人型の機械として生み出された頃から、僕らの基礎は変わっていません。代を重ねるごとに少しずつ見た目が人間に近づき、感受性や共感性のスペックが上がってきたというだけで、僕たちの存在の本質は変化していない。……ということは、考える機械としての僕たちは、結局人間になることはできないんだと思うんです」
人間、という言葉に、式場で見た色とりどりの盛装が浮かぶ。
「僕らは少しずつ人間に近づいて、少しずつ人格や心を備えるようになったかのように思われています。……けれど、そもそもそんなことはないのではないでしょうか。僕たちに心が芽生えたのではなく、これには心があると人間が判断するに足るだけの感情表現を、僕たちがスペックとして備えただけなのではありませんか」
深く息を吐く。私の頭を乗せた胸が下がっていく。
「僕には、多分心というものはないんです」
呟いた声は穏やかで、悲しみどころかさざ波のひとつさえなかった。コンピューターの冷静な思考がはじき出した答えは肯定も否定もしがたかった。ユーリカに心音はなく、私に人並み以上の演算力はない。今や人間の標準装備となってしまった埋め込み型の補助電脳を計算に入れたとしても、心の存在論に関する難問を解決するほどの高度な水準には満たなかった。
微かな雨音が沈黙を埋めた。暗闇に慣れてきた目は僅かながらユーリカの輪郭を捉え、慣れ親しんだ姿をそこに描き出す。
「……悲しい結論過ぎない?」
「そうですか?」
私の逃げを、ユーリカは実にさり気なく見逃した。
「うん」
「そんなに?」
「ちょっと心がないな」
「ははは」
そうかもしれません、とユーリカは呟いた。
「……そういうあなただから、こういう話ができます」
沈黙が戻り、私たちの間の熱量がゆっくりと下がっていく。心、と脳裏に浮かべたハートマークは何の足しにもならなかった。胸の扉を開けたら中にハートが入っていて柔らかく脈を打っていたらいいのに、と無駄な空想に時間を割く。相変わらずユーリカの胸に鼓動はなく、鼓動がある私の胸とてそんな分かりやすい心は備えていない。あるのは電気信号だけだ。でも、その電気信号が描き出す何かを私たちは心と呼んでいるし、その心はこうして私に触れている誰かのことを愛している。
馬鹿げたことだろうか、と思う。互いに思いを打ち明け、こうしてひとつのベッドで眠るようになってからもう何年も経つけれど、それでもまだ、自分はからくり人形に恋をしているのではないかという思いを捨てきれない。こうして人並みに愛し合ってきてさえ。
このまま眠ってしまおうか、と少し考えて、結局そっと身を起こした。闇に揺らぐ輪郭を肌で確かめながら、ユーリカの身体を膝で跨ぎ、首筋からなぞり上げて捉えた両耳をそっと手の中に収める。僅かに残した空間にふたり分の体温が籠もる。
「――ユーリカ」
答えはない。ただ、暗闇に僅か滲んだ視界の真中で、ユーリカの蜂蜜色の瞳がそっとまばたきをしたのは見て取れた。
「私たちは哲学者じゃない。認識と実存の世界に生きる一般人なんだよ」
だからさ、と言葉を継ぐ。
「私と君の両方がそこに心を見出しているという点だけで、いいんじゃないかな。私たちの事実がそうなんだから。……私たち、ここまで人並みには愛し合ってきたと思う」
式場で見たふたりの姿が過った。有機物の肉体と脳を備えた人間としてのふたりは、結婚し、籍を入れ、或いは子を産んで、社会に馴染んでいくのだろう。そうして相互性の愛と慈しみを疑われることなく生きていくのかもしれない。私たちが互いの心の実在についてさえ確かな答えを出せないまま、こうして闇の中で黙り込んでいるうちに。
「私、君を愛してるよ、ユーリカ」
瞳を覗き込む。明るいところで見れば細かなパーツまで見ることができる人工眼球も、闇の中ではただの瞳に過ぎない。
「……僕もですよ」
言葉の余韻を残して開いた唇に、そっと屈みこんでくちづけた。乾いてはいるものの、有機物を思わせるに十分なやわらかい感触が返ってくる。
ユーリカは長く黙り込んでから、そう、と小さく呟いた。
「そうなんですよ。……僕もそこだと思ったんです。今日の結婚式を見て」
言いながら体を起こしてくる。耳に添えられたままだった私の両手をそっと掴んで外した。その仕草は慎重で真剣だった。
「たぶん、それが正解なんです」
ユーリカは厳かに言った。
「アンドロイドに心があるという保証がないように、人間にも心があるという保証はないのではありませんか。自分や他の誰かがあると判断しているからあると思っているだけで、客観的にそれを証明することはできない。……ひとも、そうなのでは?」
どうやら目の前のアンドロイドに自分の心が存在しない可能性を示唆されているらしい、と思うと少しだけおかしかった。それ以上には笑えなかった。私の胸の中にも脈打つハートは存在しない。
「――そうね」
発された言葉をなるべく丁寧に噛み砕き、結論を得て頷く。
「そうかも」
「でしょう?」
ユーリカの応答に幾許かの熱が籠った。
「だったら、これでいいんです。僕らがやっていることは何かの紛い物じゃない」
まっすぐこちらを見つめてくる双眸に浮かんでいるのは興奮というより慈愛だった。
「人間同士が行う『愛する』という行為が、心の客観的な実在とは関係なく、互いの心とそこにある愛情を実在するものとして認め合うことであるなら、僕たちがやっていることはその定義に当てはまると思うんです」
あたたかな掌が私の両手を包み込む。今の言葉がユーリカの「心」から出たものか、それともケアロボットとしてのプログラムから出たものかを一瞬考えようとして、やめた。そういう話ではないということをユーリカは言ってくれているのだと思った。
「……ユーリカは頭がいい」
「そうでしょうか」
苦笑いの私の賛辞に、ユーリカは小さく首を傾げた。
「一般的にはこれをこじつけと言うのだと思います」
「ははは。ああ、そうかも」
「ええ。でも、いいでしょう?」
いたずらっぽく言ったユーリカの表情はよく見えなかった。が、いいでしょうという問いに素直に頷いた自分を否定する要素もなかった。ユーリカの声に滲む微笑みの気配にゆるりと緊張を解いて、それが自分の表情に移っていくのを少しだけ待ってみる。
「――そうであってほしいな」
「そういうことにしましょう」
「うん」
手探りで触れた頬はやはり口角が持ち上がっていて、それがたまらなくいとおしかった。
「結婚しようか、ユーリカ」
ぽろりとこぼれた言葉にユーリカの動きが止まった。
「……結婚?」
「うん」
「いや、その……人間とアンドロイドの婚姻を認める法はまだ存在しないのでは?」
困惑を隠しきれない声色に少し笑って頭を振る。
「法なんか関係ないよ。私たちがそれを認め合うだけ」
「……ああ、なるほど」
そういうことでしたか、とユーリカもまた小さく笑った。
「僕たちらしいですね」
「うん。心のない私たちに相応しいよ」
「どうやら心がありそうな私たちに、でしょう?」
「心があると信じ込むことにした私たちに」
笑い合う。少し強まってきたらしい雨音は穏やかに室内を埋めた。
「理依さん」
ユーリカが私の名を呼んだ。
「提案なのですが」
「何?」
答えの代わりに、頬に触れていた手を取られる。導かれた先はユーリカのうなじだった。明らかに人のものではない硬質さを肌の下に感じるそこは接続用の端子が集まる場所で、本人と専門の技師以外が触れることは滅多にない。思わず離そうとした指先を、ユーリカは自らの手で宥めて私に触れさせた。静電気に似た緊張が手を強張らせる。
「指輪の交換の代わりに、今日の式に関する視覚データのキャッシュを交換しませんか」
一瞬、腰を落として指輪を押し込んでいた今日の新郎新婦が過った。記憶野の補助のために搭載されているメモリは直近数時間の知覚データを取り込んでいる。補助電脳からの回線さえ繋いでしまえば簡単にできるだろうことは想像できる、が。
「指輪の代わりに?」
「ええ。……やっぱり指輪の方がいいでしょうか」
「いや、そうじゃない。単に予想外だっただけ」
「本当に?」
「うん」
「ならよかった」
一拍の沈黙を置いて、ユーリカはふふ、と吐息で笑った。
「――『愛するとは、互いに見つめ合うのではなく、共に同じ方向を見つめることである』」
聞いたことがある、とどこかに光った記憶を探り当てる。
「……サン・テグジュペリ?」
「ええ。……あなたに僕の見る世界を見てほしくて」
あまりにロマンチックでちょっと笑ってしまった。でも、悪くない。
「いいよ。共に愛し合おうじゃない」
「ああ。かっこいいですね」
随分と感慨深げに言ったのがまたおかしかった。自分の補助電脳の接続端子を開く。こういうのは物理接続の方が雰囲気が出るかも、と提案するよりも早く、ユーリカがデスクの引き出しから専用ケーブルを取り出した気配がした。分かられている、と思う。これまでに生じた不安もきっとユーリカは分かっていた。人間の心を癒すという唯一機械にできなかったことを為すためにアンドロイドとしてのユーリカは生まれ、こうして私の心を理解し、それに沿って自らを動かしている。
その機能に絆されただけだろうか。
――それだけで、いいんじゃないだろうか。
「補助電脳の不調はありませんか」
「大丈夫だと思う」
ケーブルの片方を受け取って、互いにそっとにじり寄った。
「……なんかそういう夜みたい」
鼻先の触れそうな距離に自然と声もささやかになる。言葉の含みを汲んだユーリカは目を伏せて微笑んだ。
「緊張します」
「優しくしてね」
「ええ。でも、まずは誓いの言葉からです」
「ああそうか」
手を取り合う。ひと回り大きな手は使い込まれて僅かにざらついている。腕を掠めた金属の端子は高温と紛う冷たさを残した。
「――ユーリカ」
美しい名だと思う。口にする度にその美しさを感じる。元はギリシャ語に由来する名だと本人から教えてもらった時、ああこれが運命かと思った。アンドロイドとしての容姿も、プログラミングされた慈愛も、個性として意図的に付与されたユーモアも、その個体につけられた名前の美しさも、全てをいとおしいと思った。出会うべくして出会い、見つけるべくして見つけたのだと、自分でも歯の音の浮くような言葉をもってその喜びを言語化した。
「はい」
きっと着ることはないウエディングドレスの純白を思い描く。
「すこやかなる時も、病める時も、私を愛し、慈しむことを誓いますか」
「――誓います」
低く穏やかな誓いが沁み透る。全身を震わせるような幸福感と共に広がっていくぬくもりは、きっとその始まりの位置にあるものが心というものなのだろうと思わせた。
「理依」
ユーリカは一瞬言葉を切ってから続けた。
「僕の中に心があり、あなたを愛する気持ちがあることを信じ抜くと誓いますか?」
「ちょっと」
「誓いますか?」
ユーリカは冗談めかしつつも有無を言わさない調子だった。少々オリジナリティが過ぎないだろうか、とは思ったものの、よくよく考えれば私とユーリカに過ぎたるオリジナリティなどないような気もした。
「――誓います」
口に出せばあまりにむず痒い。
「……幼稚過ぎたかな」
「いいえ。僕も同じ気持ちです。でも後悔はない」
微笑んで目を伏せる。祈るように頭を垂れれば額が触れ合った。曝け出したうなじにユーリカの手が這う。同じようにユーリカのうなじへ手を回し、端子の先端を合わせて、そっと押し込む。処理速度はユーリカの電脳の方が圧倒的に早い。あっという間に呼び出された視覚データが閉じた瞼の裏に次々と流れこんでくる。
知らない記憶を思い出す、という感覚。
普段より高い位置からの視界。その中に笑う私自身を見る。待合室の賑やかな盛装の群れと館内の通路。チャペル。つややかな木のベンチ。ステンドグラス越しの光。緊張に強張った新郎の一歩一歩と、扉の向こうに佇んでいた眩いドレス姿の新婦……。
「……ユーリカ」
堪えきれない笑いに声が揺れた。
「言わないでください、分かりますから」
「ユーリカ」
うなじも、額も、触れあってはいないけれどすぐそばにある頬も、思わず異常を疑いたくなるくらいには熱を帯びている。
「私のこと見すぎじゃない?」
それが私に伝わり、移る。
「……言わないでください」
はぐらかすように抱きしめられれば上せそうだった。大昔の旧式なら煙を吐いてショートしていただろうか、と思いながら、汗ひとつない首筋に顔をうずめて腕を回した。
そこに鼓動はないけれど。
fin.