アレを回避す
屋敷には、ブラックストン公爵家の馬車で送ってもらった。
至れり尽くせりである。
ブラックストン公爵家とわたしたちの仮の住まいは、そう遠くはない。上流階級が住む地域なので、ゴタゴタしていない。つまり、何度か曲がる程度で単純な経路だった。
この世界で生きていくには、記憶力のよさが必須である。しかも、一度覚えるとその記憶を維持しなければならない。
忘れていいのは、自分に都合の悪いことだけである。
それはともかく、わざわざ送ってもらわなくてもいいけれど、この辺りで歩いて移動する人はいないだろう。健康の為、歩いたり走ったりすることはあっても、それは自分の家の庭で充分こと足りる。
というわけで、遠慮なく送ってもらった。
今夜の送り迎えだけではない。明日のお茶会の送迎もしてくれるらしい。
古めかしい屋敷とはいえ無償で貸してくれるということも含め、デリクには借りばかり作っている。
(あまりいい感じじゃないわね。デリクは、わたしたちになにを求めているのかしら? あるいは、わたしたちからなにを得ようとしているのかしら?)
なにかしらの下心があって然るべき、である。
そうでないと、これだけの親切心の説明がつかない。
(イヤね。すっかりひねくれてしまっているわ)
他人の好意をそんなふうに受け止めてしまうのもまた、職業病のようなものなのかもしれない。
ブラックストン公爵邸の長い長い馬車道を走り抜け、立派な門をくぐって公道に出たタイミングで、真向かいに座る大佐と視線を合わせた。
馬車内には、月光が満ち溢れている。人口の灯りとは違い、自然の光にはやわらかさがある。
現役時代は夜間に多く活動していたわたしにとって、夜はかえって安心感がある。心がやすまっていた。
が、それもひとりぼっちになってからは、「寂しさ」や「もの悲しさ」に襲われるようになった。
夫の死をきいてからは、よりいっそうそれらに襲われることが多くなった。
自分では認めたくないけれど、最後の方には夜の訪れが怖かった。夫さえ側にいてくれれば、彼がわたしといっしょにすごしていてくれれば、そんなものに襲われることはなかった。夜の訪れに怯えることもなかった。
彼さえ生きて戻ってきてくれれば、夜の訪れを楽しみにしたはずだ。
夜になれば、夫と寝台上でエクササイズができる。そこでは、レディになれる。心身ともに彼に愛され、彼を愛することができる。
大佐の蒼い瞳を見ながら、ついついそんなことを思い出してしまった。
思い出してから「いまは女々しいことを考えている場合ではない」と、自分を叱咤した。
「あなた、帰宅してから話し合う必要がありますね」
大佐にそう切り出した。
「いろいろなことを、です。なんなら、寝台の上で夜通し話し合いましょう。いまのわたしたちには、話し合いこそベストだと……」
「今夜は、疲れている」
大佐は、最後まで言わせてくれなかった。
「わたしだけではない。おまえも疲れきっている。明日のお茶会のこともある。だから、今夜はそれぞれの寝台でゆっくり休むことにしよう」
「しかし……」
不満だった。
わたしには、大佐にいろいろ問いたいことがある。責めたいことがある。
大佐は、それを察知したのだ。だから、彼は回避行動をとった。
「明日に備えよう。いいな?」
「あなたがそうおっしゃるのなら、仕方がありませんね」
物わかりのいい妻である。
あてつけがましくやわらかい笑みを浮かべつつ答えてから、ふと思い出した。
(ワオ! 大佐が予告していた、『夜のエクササイズ』を回避できたじゃない)
そう。今夜こそ、大佐と寝台でエクササイズをする予定だった。
期せずして回避できたことに気がついたのである。
(ラッキー)
わたしのさらなる笑顔に、大佐は眉をひそめた。
ちょうどそのとき、馬車はわが家に到着した。
(この手は使えるかも。しばらくは、これでやりすごせないかしら?)
月光の中、浮かびあがる古くてヤバそうなわが屋敷を見つつ、本気で考えていた。




