ベンの匂い
(ニックが愛人の子どもとか、よけいに虚しいしみじめになるだけだわ)
と落ち込みかけたとき、すぐ顔の側にその夫ベンの顔が近づいてきたので驚いた。
「おやすみ、愛するわが子よ」
彼は、そうささやくと息子の頬に口づけをした。
その彼のやさしい表情に「ドキリ」とした。心臓がおおきく飛び跳ねた。それこそ、口から飛び出して彼の横顔にぶちあたるかとヒヤヒヤするほどに。
もちろん、そんな非常識なことが起こるはずもない。
「シヅ、ありがとう。行こうか」
彼の横顔がこちらへ向いた。しかも、その距離はかなり近い。舌を伸ばせば、彼の鼻の頭に届くほど近い。
「シヅ?」
やさしい笑顔。それから匂い。
匂いもまた、ベンの匂い。これまで匂いにまでは気がまわらなかった。だけど、たったいまそれに気がついた。いや、感じた。
(やっぱりベンよ。すべてがベンよ)
心も体も震えている。頭の中も心の中も震えている。
「シヅ?」
彼の手がわたしのそれに触れた。ベンは寝台の横で両膝を床につけているわたしを立たせ、あらためてわたしの名を呼んだ。
「ベン」
無意識だった。まったく意図していなかった。そんな余裕はなかった。
とにかく、勝手にその名が口から飛び出していた。
本能だったのか? それとも、反射的に出てしまったのか?
自分でもわからない。とにかく、自分の声を自分の耳で聞き、はじめて気がついたのである。
カイルのことを、「ベン」と呼んでしまったことに。
とにかく、口から飛び出したその名前。
わずかに開いたカーテンの隙間から射し込む月光。真っ暗にならないよう、いつもカーテンをすこしだけ開けているらしい。
そのわずかな月の光の中、ベンとわたしは向き合っている。
ふたりきりで。すぐ近くで。
いま、わたしたちは昔のような状態に戻っている。そう。昔に戻ったのかもしれない。
しかし、そんな想いは、いや、期待はすぐに打ち砕かれた。
ベンの反応が、まったくなかったのである。
それこそ、眉毛の一本もそよぐことはなかった。あるいは、瞳の収縮さえもなかった。
もちろん、ベンはわたしよりはるかに優秀で腕の立つ諜報員。なにかしらの事情があり、まだ記憶喪失の振りをしているのかもしれない。それならば、たとえわたしが彼のことを「ベン」と呼ぼうと色気で迫ろうと、彼はそのふりを続けるだろう。
ベンは、それだけの演技力は充分ある。そして、彼は実際のところそれに長けている。わたしでさえ彼の演技力、というか「ふり」に何度も騙された。
しかし、いまは……。




