第50話 侵入者
トトが乗る馬車を降りた男、ゼロは長いため息をつくと、中年の男の存在に気付いた。
彼は、相棒の魔女だ。自分の祖国では不思議な力を持つ者を男女問わず魔女と呼び、その存在は限られたものしか知らない。
魔女は酷くやせ細っており、骸のように顔の骨格が浮き上がっている。ぎょろりとした両眼は死んだ魚のように濁っていた。
「ゼロ様、ご令嬢は?」
「ご機嫌は相変わらず斜めですが、落ち着いています。このまま大人しいといいですが」
「相手の機嫌なんて気にする必要はございません。抵抗するなら力で分からせてやればいいでしょう?」
魔女の言葉にゼロはぴくりと眉が動いた。
「彼女は令嬢だ。彼女の自尊心を傷つけるようなことをして、舌を噛み切って死ぬようなことがあれば、どう責任を取るつもりだ?」
普段は魔女相手でも丁寧に接しているゼロも口調が荒くなる。
「今回の命は、彼女の移送だが、今後のためを考えれば、彼女が心身ともに健康であることが重要だ。それに彼女は我が国の我儘に巻き込まれた被害者だ」
トゥール王宮では騎士は名誉ある称号だったが、実態はただの汚れ仕事。
トトの誘拐も国のためとはいえ、やっていることはただの犯罪だ。ゼロだって心が痛まないわけではない。罵倒の一つや二つくらい甘んじて受けるべきだ。
初めは顔ナシ伯の存在を利用し、認識を歪めつつ、彼女が自発的にゼロの手を取るように促すつもりだった。しかし、魔法の耐性が強すぎたのだ。
「ラピスティア侯爵令嬢がどんな態度を取ろうと、手を出すようなことがあれば、魔女だろうと容赦はしないぞ?」
語気を強めてそう口にすれば、魔女は押し黙って、ゼロから距離を取る。
「失礼いたしました」
「…………まだイェルマ国内だ。警戒は怠らないでください」
「はい」
魔女が深々と頭を下げたのを見て、内心で舌打ちしながら魔女に背を向けた。
(本当に、この仕事は気分が悪いな)
騎士は王族からの命があれば、暗躍も誘拐もする。
特に今回のような誘拐は良くあることだった。魔女は血族で力を受け継いでいくが、血が近すぎるのも良くない。血を薄めるため、魔女の素質がある者を誘拐し、魔女の血筋に加えるのだ。トゥールには秘密裏に魔女の素質がある者を探す部隊が存在する。
トトが見つけられたのは、この国に商人として身分を偽っていたその部隊のおかげだった。
雫の中でも特殊な力を持つ彼女を王弟は血眼になって探していた。その理由は下っ端であるゼロは知らされていない。ただし、国王の御心とは違う思惑で動いていることは確かだった。
でなければ、他国の貴族令嬢を誘拐なんてしない。本来、魔女を増やすための誘拐は平民と決まっている。
(これを機に王弟派を見限ってもいいかもな……ん?)
村の入り口で警戒に当たっていた兵士達が騒がしい。一体何かあったのだろうか。
「様子がおかしい。貴方は馬車の警護を」
「御意」
ゼロは兵士達の下へ向かうと、兵士の一人が暗がりから転がり出た。その兵士の顎は真っ赤に腫れあがり、白目を剥いて完全に伸びている。
(追手か!)
ワーウッド家の次男をスケープゴートに使い、いもしないワーウッド家の関係者を探させたつもりだったが、もう足がついたらしい。
ゼロは暗闇を睨みつけると、奥から一人の男が現れた。
それは異様な存在だった。
背はそれほど高くなく、着ている衣装から貴族の男だと分かる。しかし、相手の顔が認識できなかった。髪色も、瞳の色も、顔立ちも分からない。ただ男であること、相手が無表情でゼロを見つめていることだけが分かる。
(顔ナシ伯……? いや、ただの貴族の嫡男だった男が、たった一人で鍛えられた兵士を倒せるわけがない)
これだけ早く自分達の足取りを掴めたのだ。国王の影に関係する人物の可能性が高い。雫の力で顔を分かりにくくする能力を持つ者がいないとも言い切れない。
(それにこの男、グローブ以外は丸腰じゃないか)
目の前の男は距離を詰めると、鋭い拳を突き出す。ゼロは咄嗟によけ、剣を抜こうとしたが、剣を抜く間もなく次の拳が繰り出された。
「くっ!」
男の拳を受けると、ゼロはすぐさま距離を取る。
入り口を警備していた兵士達もあの男の拳で殴り倒されたのだろう。しかし、男の呼吸は乱れておらず、変わらず姿勢を正している。
(なんだ、この男……)
得体の知らない男だが、この男が扱う体術には見覚えがあった。
「ずいぶん、お行儀がいい体術ですね。イェルマ宮廷式体術ですか?」
ゼロの問いかけに反応せず、再び男が距離を詰め、ゼロの顔面に目掛けて拳が飛ぶ。腕で拳を受けると、ズシリと重い一撃がゼロの肝を冷やした。
(こんなの連続で食らったら、溜まったものじゃないな!)
剣術を得意としているが、体術も一通り習得している。守りに徹していたゼロが反撃すると男は受け流すように拳を躱す。蹴りも同様だった。
相手は確実に少ないダメージで済ませるようにし、ゼロの拳を手の甲で弾くように逸らした時、袖の下に隠した暗器が当たる。
その瞬間、相手がにやりと口端を持ち上げる。
「⁉」
男は隙をついてゼロの暗器を盗み取り、鋭利な刃がゼロの頬をかすめた。
(コイツ!)
男の笑みにうすら寒さを覚え、距離を取ったゼロは魔装を解放する。
騎士は魔法の力を帯びた装備と相棒である魔女が裏切った場合に備え、魔女の言霊を可視化する目を与えられる。その目で魔女の魔法を捉え、無力化するためだ。この目はイェルマの雫の力にも対応する。ゼロの魔装はグローブ型。力を解放したその手で、魔女の言霊に触れれば、魔法は発動しなくなる。
ゼロはその目で男を睨みつけた。
(一体、コイツは何者だ? せめて顔だけでも……っ!)
男の顔は血塗られたように真っ赤だった。
彼の顔の周りには何重にも言霊が巻き付いており、まるで赤い包帯を巻いているようだった。
(なんだ、コイツの魔法は!)
男に纏わりつく言霊は鼓動のように脈打ち、男の顔を締め付けている。
隙間から覗く琥珀色の瞳が冷たくゼロを睨みつけ、盗み取った暗器を構えた。
(大丈夫だ。コイツの不気味さが魔女の魔法によるものなら、問題はない)
魔装で身体能力を上げて距離を縮めれば、男はゼロが瞬間移動したと錯覚し、隙を生むだろう。
(あの男に巻き付いた言霊に少しだけでも触れればいい。そうすれば、魔法は解ける)
男の顔に向かって拳を突き出した時、受け流すだけだった男が、ゼロの拳を受け止めた。
「…………ない」
男がぼそりと呟いた瞬間、突如魔装が解除される。
「なっ⁉」
不意に働いた魔装の反動に、身体のバランスが失われる。ゼロが咄嗟に力を入れて顔を上げた時と、男が拳を振り下ろしたのは同時だった。
「がっ!」
強烈な痛みに襲われ、ゼロの意識はそこで途絶えた。
◇
「外が騒がしい……何かあったのかしら」
外の騒がしさに身を起こしたトトは、カーテンの隙間から外の様子を覗うと、騎士と名乗っていた男の姿はない。その代わりに魔女の男が馬車の前に立っている。
魔女の男は厳しい目を正面へ向けており、トトはその視線の先を追って、言葉を失った。
(ル、ルーク様⁉)
それは面布を外したルークだった。
普段の衣装とは違い、軽装に身を包んでおり、手にグローブが嵌められている以外に装備はない。
(ルーク様が私を助けに……⁉ まさか一人でってわけじゃないはず!)
周囲を見渡すが、彼以外の姿はない。それどころか、騎士の男も、他の兵士達の姿も見当たらない。他の仲間が対応しているのだろうか。
魔女が呪文を唱えると、手の上に巨大な炎が宙に浮かんだ。
しかし、トトの目にはその光景が、男の口から無数の糸が放たれ、男の手に集まっていくように見えた。そして、編み込まれた糸は炎へと姿を変える。
(これが魔女の魔法⁉)
殺意に満ちた黒い糸がルークに向かって延び、男がにやりと笑う。
「死ね! 顔ナシ伯!」
男の手から放たれた火球がルークを飲み込もうとし、トトは思わず声を上げた。
「ルーク様!」
巨大な火球がルークの姿を飲み込もうとした時、それは火の粉を散らして霧散した。
あっという間の出来事に、魔女が目を見開いて見つめている。
「な……なんで……」
何食わぬ顔で立っていたルークは、目の前で狼狽している魔女を冷たく見つめていた。




