第49話 誘拐
(どうしてこうなったのかしら……)
トトはニコニコ顔で目の前に座る男性の存在に困惑していた。
姉に婚約式の招待状を手渡そうとマイルズ家へ向かっていたはずだった。しかし、なぜか馬車は別方向へ走っていき、気づけば御者も護衛もまったく知らない人間にすり替わっていたのだ。
その事態に気付いた時、馬車に乗り込んできたのがこの男である。黒髪に細目の男は、以前にも何度か見たことがある。
「そんな顔なさらないでください。私は貴女に危害を加えるつもりはありません」
「そんなことを言われても信用できません。貴方は確か、カフェや公爵家のガーデンパーティーで話しかけてきた人ですよね? 一体、貴方は何者なんですか?」
カフェでルークのことを貶し、その後ガーデンパーティーでは何食わぬ顔でトトの前に現れた不審人物。ルークもこの男の不信感に気付いていないようだった。
彼は細い目を驚いたように見開くと、愉快そうに手を叩いた。
「あははははっ! そうでした。貴女はあの顔ナシ伯の素顔すら見透かす目を持っているんでしたね。私の顔にかかった魔法も通用しなかったわけですか」
彼はそう言って、恭しく頭を下げた。
「申し遅れました。私はトゥールで騎士の称号を持つ者です。実はラピスティア侯爵令嬢に折り入って頼みたいことがありまして」
「いやです」
たしかトゥールはトトの能力を利用して悪いことを企んでいると聞いている。そんな相手が自分に頼み事だなんて絶対にいい話なわけがない。
「おや、なぜです?」
「淑女が乗る馬車を乗っ取った人の話を聞く理由はありません! それに、ルーク様を顔ナシ伯だって貶したことも怒っているんですからね!」
おまけに自分が望まれない婚姻を押し付けられたとか好き勝手なことを言ってきたのだ。勘違いにも甚だしい。
自分は望んでルークと婚約するのだ。
男は困った子どもを見るような目をトトに向け、眉を下げた。
「それはそれは。大変失礼いたしました。謝罪いたします。しかし、お話だけでも聞いてくださると助かります」
「…………聞くだけなら」
そう言って頷くと、男はにっこりと笑う。
「私と駆け落ちしてください」
脳内で警鐘が打ち鳴らされたトトは、無言でドアノブを回した。それはもう車内に音が響くほどの勢いである。しかし、いくら回してもドアが開くことはない。
後ろではトトの必死な様子を見て、男が声を押さえて笑っている。
「ちょっと。せめて返事くらいはしてくださいよ。さすがに傷つきます」
「返事をするまでもありません! 私にはもう心に決めた人がいるんです!」
トトが必死にドアノブを回し続けると、トトの手に男が自分の手を重ねた。
「そうですか……それはとても残念です」
耳元で男がそう呟き、トトは身を固くする。
この車内にはトトとこの男しかいない。男の力で組み敷かれたら、非力なトトに抵抗する術はない。
沈黙が落ちた車内に男の長いため息が響く。
トトが男に目を向けた時、男は口元を持ち上げた。
「では、駆け落ちは止めて、トゥール観光に変更しましょうか! トゥールはいい国ですよ~!」
(ひぃいいいいいいいいい! 助けて! ルーク様―――――――っ!)
◇
すっかり陽が落ちて、外はもう真っ暗だ。
トトを誘拐したトゥールの者達は、どこかの街で宿を取るわけでもなく、廃村で野宿することにしたらしい。
「ラピスティア侯爵令嬢、居心地はどうですか?」
「これで居心地がいいとでも……?」
トトはラピスティア家の馬車から寝台付きの馬車に移された。ドアは二重に鍵を掛けられ、片足に付けられた足枷は、細い鎖で寝台に繋がれている。車内を動けるだけの長さは十分にあるが、足が重くて仕方がない。
トトが嫌味を込めて足枷の鎖を鳴らすと、男は大袈裟に肩を竦めた。
「あなたが馬車を乗り換える時に脱走を図らなければ、付ける予定はなかったんですよ? 不便をかけますが、しばらく大人しくしてくださいね」
男はそう言うと馬車のドアを閉め、外から鍵をかけた。
「はぁ……」
車窓についたカーテンはトトのプライバシーを守るためだろう。トトはカーテンを閉め切ると寝台に横になった。
(私、本当にトゥールに連れて行かれるのね……)
トトの持ち物は全て没収された。姉に渡すはずだった招待状も、ルークが貸してくれたお守りの人形もだ。
自分がいなくなってきっと家族は心配している。もぬけの殻になった家の馬車が見つかったら、母親は驚いて心臓が止まってしまうかもしれない。
(もう屋敷には帰れないのかしら……)
ふと思い出したのは、ルークに結婚を申し込まれた時の言葉だった。
『私と結婚してください。そして、貴女も、貴女の大切なものも守らせて欲しい』
「………………婚約式、楽しみだったのにな」
トトはそっと目を閉じた。




