第34話 心の形
ルークからのプロポーズにトトの心臓は早鐘を打っていた。
表向きは保護を名目にした結婚だとしても、ルークと結婚できることに喜びしかなかった。
正直、隣国との間にそのようなことが起きていたことには驚いたが、彼の顔の機密性を考えれば納得した。
今回の婚姻に母は苦い顔を浮かべるかもしれないが、他の家族は反対しないだろう。
(隣の国との関係にはちょっと不安が残るけど、嬉しい!)
心の中で両手を上げて喜んでいると、トトの目の前にふわりと白いものが舞い降りた。
「あれ……?」
それは、ルークを覆う真っ白なヴェールだ。以前、見た通り緻密な作りをしており、思わずため息が出るほどの美しさだ。
「トト嬢、もしかして……?」
ルークもトトの目の異変に気付いたのだろう。心配そうな表情をする彼にトトは頷く。
「はい、おそらく魔眼が使えているのかと……」
また知らず知らずに発動したのだろう。あの時のヴェールがトトの目にはっきりと映っていた。
彼が言うには、トトが思い浮かぶイメージは魔女が操る言霊に相当するものだと聞いている。
しかし、今目に映っているそれは、ルークの顔を認識させなくするような恐ろしいものにはとても見えない。
「とても魔法には見えませんね……」
トトがそう呟くと、ルークが「そういえば」と口を開いた。
「先日、『恋するヴェール』を見せてもらうためにアーロイ様の奥様にお会いしました。彼女が言うには、トト嬢の目には人の心やその人の軌跡が形になって見えているのではないのかと」
「心や人の軌跡……?」
どういうことだろうと内心で首を傾げていると、ルークは言った。
「なんでも『恋するヴェール』はアーロイ様に恋をした自分の心の形なんだそうです。魅了の力があるのも恋は人を美しくし、女性が憧れるのも不思議じゃないとか」
「それなら納得です。ルーク様のイメージはとても綺麗ですから」
今、目に見えているルークのイメージは様々な意匠が織り込まれており、まるで彼を守っているようにも見えた。
もしこれが彼の心や歩んできた軌跡というのであれば、彼は色んな人に出会い、愛され、守られていたのだろう。
(他にはどんな意匠があるのかしら……)
まだ魔眼の効果が続いている。もっと間近で見てみたい欲が沸いた。
「トト嬢?」
「ルーク様、その……魔眼が使えているうちに、もっと近くでルーク様のイメージを確認してもいいでしょうか?」
前は一瞬で見えなくなってしまったのだ。池に落ちた手帳はまだ買い替えていないので、この場では描き残せないが、せめて目に焼き付けておきたい。
ルークはきょとんとした後、少し照れた様子で頷いた。
「はい、よければこちらにどうぞ」
ぽんぽんとルークが隣を叩き、トトの心が華やいだ。
「し、失礼します!」
トトはルークの隣に腰を下ろすと、彼のヴェールに釘付けになった。
(見れば見るほど繊細だわ……リリーベル家の百合に、王家の薔薇、マイルズ家の鳥に……こっちの意匠は何の意味が込められているのかしら)
ヴェールを縁どる丸い額縁状のレースの中には、百合と薔薇、鳥の意匠が描かれ、一つ一つ絵柄が変わり、物語調の絵画を見ている気分だ。頭頂部に描かれている葉は月桂樹だろうか。小さく散りばめられた星の意匠や見たことがない花の形はなんだろう。
「ト、トト嬢」
「はい?」
顔を上げると彼は少し顔を赤らめてトトを見下ろしていた。
「その、恥ずかしいので、目を瞑っててもいいですか?」
「あ、すみません! じろじろと!」
トトの目にはヴェール越しに彼が映っているが、彼にとっては直接見つめているように見えるだろう。夢中になっていたばかりにトトは、そのことを失念していた。
「もう少し眺めたいので、目を閉じていただいて大丈夫です!」
「それでは……」
彼は一度ソファを座り直すと目を閉じた。
(ルーク様、本当に綺麗……)
ヴェールを被って目を瞑る彼は、顔立ちが整っているのも相まって、一枚の宗教画のようだ。
つややかな銀髪、長いまつ毛、形のいい唇。特に目尻に縦に並んだ2つのほくろが、ただならぬ色香を醸し出していた。
(この人が私の夫になるの? 正気?)
今でもにわかに信じられない。
顔も性格も悪くない。そして心の形らしいこのヴェールもとても繊細で綺麗だ。こんな素敵な人と結婚できるなんて自分は幸せ過ぎる。むしろ、一生分の運を今ここで使い果たしたのではなかろうか。
(これ……触れるかしら……)
さすがに無理だろうと思いながらも、トトはヴェールに恐る恐る手を伸ばす。
ふわりとした柔らかな手触りが手の平に乗り、わっと心が弾んだ
。
(すごい、触れる! 柔らかいけど、ヴェールにしてはちょっと重いような気も……ん?)
トトがヴェールに触れていると、じわりと赤く滲むように赤いレースが現れた。
(何かしら、このレース……)
初めてこのヴェールを見た時にも現れた真っ赤なレース。血で染められたかのように鮮やかな赤色は、不気味にも情熱的な印象がある。
(この意匠はアイビーよね? こっちはスカビオサに似ているわ。もう一つはイキシア?)
トトの目に見えるのは人の心や軌跡だと姉は言い、魔女は言霊の塊だと言う。
姉の言う通りなのであれば、これもルークの心や軌跡の一部となる。しかし、この鮮やか過ぎる色も、レースに施された意匠も、ルークには似つかわしくない。
以前はルークを縛り付けているようにも見えたレースが、まるでトトを拒むように現れたようにも思える。
(私が作ったヴェールをトゥールの魔女様は言霊のようだと言っていたと、ルーク様から聞いたわ。もしかして、これは王女様の言霊?)
ルークに恋をしていたというトゥールの王女、クレア。彼女の一方的な願いは、今もルークを苦しめている。
(ルーク様を大変な目に遭わせておいて、王女様はルーク様を忘れてしまっているのよね? それなのに、今もこうしてルーク様を縛り付けているなんて……)
出会う前の出来事とはいえ、複雑な思いだ。記憶が消えたのは不可抗力だとしても、彼女はルークと心中するつもりで魔法薬を飲んだのである。
トトの胸の内に、もやもやとした感情が浮かび上がった。
これは嫉妬だろうか。いや、違う。
純粋な怒りだ。
(取れないかしら……これ)
赤いレースに触れると、ぱちんと静電気のような音が鳴った。
そのまま摘まみ上げようとすれば、指先にピリピリと痺れるような感覚が現れる。
それは次第に熱を帯びていき、痛みに変わっていった。
レースは糸で縫い付けられているのかと思いきや、ヴェールの上に貼り付けられているようだった。
ぶちぶちと音を立てて、レースが徐々に剝がれていく。
(熱い、痛い……でも、もうちょっとで剥がれる)
指先の痛みが限界を迎え、トトはぎゅっと力を込めた。
「えいっ!」
気合を込めて発した一言と、ぶちんっという千切れた音が聞こえたのは同時だった。
「あっ……」
赤いレースがほつれていき、空気に溶けて消えていく。跡形もなく消えてしまった頃には、指先の痛みもなくなっていた。
(ルーク様のヴェールは⁉ あ、良かった。傷ついてない……)
力任せに剥したので心配になったが、見る限り撚れもほつれもない。
ほっと胸を撫で下ろした時、すっとヴェールが見えなくなってしまった。
「トト嬢?」
ふと、彼の琥珀色の瞳と目が合う。ヴェールで隔たれていたはずの彼との距離は、意外にも近かった。
さっきルークが恥ずかしいと言っていたのも頷ける。
「は、はいっ⁉」
思わず上ずった声で返事をすると、彼はきょとんとした顔のまま首を傾げた。
「あの、今の掛け声とぶちんっていう音は?」
「え、えーっと……」
掛け声はともかく、レースを引き剥した音も彼に聞こえていたようだ。しかし、なんて説明すればいいのだろうか。赤いレースをはぎ取ったと言っても彼には伝わらないだろう。
「そ、その、ちょっと糸くずを払っただけです……ルーク様、ヴェールを見せてくださり、ありがとうございます。とても眼福でした」
トトがそう言うと、彼ははにかんだように笑う。
「心の内を見せたみたいで少し恥ずかしかったですが、お目汚しにならずに済んで良かったです」
徐々にルークの頬が赤くなっていくのが見て分かり、トトは急激に顔が熱くなったのだった。




