第25話 ヴェール
(かわいい……)
ルークを待っている間、トトは先ほどの鳥籠のストラップを見つめていた。
中には小さな白い石が入っていて、籠の中でころころと転がる。それが鳥の卵のように見えて愛らしかった。
じっとストラップを眺めているうちに卵が孵り、鳥になって飛び立つようなイメージが浮かんできた。
(なんかいい図案が書けそう……)
トトは手帳を開いて、ペンを走らせた。
(鳥の図案ってたくさんあるけど、物語調にしてみる? いや、それより……)
「ねぇ」
突然声をかけられ、弾かれたように顔を上げる。するとそこには、見知った顔の少女が立っていた。
「シンディ様……?」
シンディ・ルビア。彼女は前にメアリーの店で鉢合わせした時と同じ衣装を身に纏っており、前よりも幾分か汚れているように見えた。
トトを冷たく見下ろしていた瞳が、ぱっと明るいものに変わる。
「やっぱり! 貴女、シャルロット様の妹よね? こんなところでまた会えて嬉しいわ!」
「え……あ、その……」
親し気に手を握って来た彼女にトトが戸惑っているのを無視して、シンディは話し続けた。
「実はあなたに頼みたいことがあるの」
「た、頼みたいことですか……?」
たしか、彼女はルークの元お見合い相手だ。それも駆け落ちして婚約式をすっぽかすという、とんでもない裏切りをしている。
できれば関わりたくない気持ちも大きいが、このまま話をしていたらルークが戻ってきてしまう。
「そうなの! あなたにしかできないことなの!」
「え、えーっと場所を移しませんか? ここではちょっとあれなので……橋の方とか」
「ええ、いいわ」
トトは手帳を一枚破り、書置きをベンチに残して立ち上がった。
「行きましょう」
トトが先導し、橋の方へ向かう。池の対岸を繋ぐ大きな橋は石造りだ。この場所ならトトがいたベンチが見えるので、戻って来たルークの姿に気付くだろう。
「それで私に何の御用でしょうか?」
「そんな堅苦しく言わないで。私、お姉さんのお友達でしょ?」
(姉の口からあなたのお名前なんて聞いていませんが……)
トトは姉を慕っているため、交友関係はそれなりに把握している。少なくとも顔見知り程度の関係値だ。
姉の名を使って近づく人間は危ないとトトが一番よく分かっている。
「実はあなたのお姉さんに、花嫁衣裳のヴェールを貸して欲しいって頼んで欲しいの」
「ヴェ、ヴェールですか?」
姉のヴェールを借りたい、デザインを売って欲しいと頼む人は少なくない。しかし、姉はあのヴェールを大事にしており、トトも姉以外には身に付けて欲しくないという思いだった。
「そうなの。近々好きな人と結婚する予定なの。それでちょっとした理由あって、花嫁衣裳を自分で用意しなくちゃいけなくて、ドレスは無理でもヴェールだけでもって」
その好きな人とは、ルークを裏切って選んだ相手のことだろう。トトは思わず、ショルダーについた人形を掴んだ。
「そ、その……大変言いにくいのですが、姉はヴェールを絶対に貸し出さないと決めているので無理だと思います」
「そこをなんとか! お願い! シャルロット様はあなたにはとても弱いと思うの!」
そう言われても無理なものは無理だ。何より、ルークを裏切った彼女の為に力になりたくない。
「それでも無理です。色んな方からお願いされていますが、姉は頑として譲りません。姉の大事なものですし、私にとっても大事なものなので。他のお友達にご相談されてはいかがでしょう? お茶会に滅多に参加しない私より、交友関係が広いですし……」
すでに結婚した友人の一人や二人いてもおかしくないだろう。花嫁衣裳の着回しは下級貴族でもしていることがある。
「無理よ……」
ぼそりと呟かれた言葉に、さきほどまでの明るさなかった。
「あなたは知らないのかもしれないけど。私、幼馴染と駆け落ちしたの」
「そ、そうなんですか……」
知っていますなんて言えないトトは、ただ知らないふりをして頷く。
「顔ナシ伯って知ってる? 隣国の王女に不貞を働いたって噂の男と無理やり婚約させられそうになって……それで逃げたの」
その言葉を聞いて、トトは一瞬息が詰まったような感覚がした。
「一度は連れ戻されて婚約は潰れたんだけど、私も相手も家に戻ることを許してくれなくて……ひどいと思わない? お父様も、大事な娘を変な男に嫁がせようとしたくせに。お友達だってそう。駆け落ちに応援してくれたくせに、戻ってきたら笑われるし。『平民に貸すドレスなんてありませんわ』って……ひどいわよね?」
どこがひどいのだろうか。家も彼も裏切ったのはそちらの方だ。本当に相手を愛しているのなら、どこへなりと行ってしまえばいいのに。
彼女の身勝手さにふつふつを怒りが湧いてくる。さっさと話を切り上げて、彼の下へ戻らないと。
「全部、あの顔ナシ伯のせいよ! ねえ、トト様もそう思うでしょう?」
「勝手なことを言わないでください!」
気づけばそんなことを口にしていた。
トトが言い返してくるとは思っていなかったのだろう。彼女は目を大きく見開いていた。
「ルーク様はとても優しくて紳士的で、素敵な男性です! あなたがちゃんとお断りをしていれば、きっとお見合いを破断にしてくれました! それなのに、駆け落ちして婚約式をすっぽかして、それで本当に勘当されたからって、悲劇のヒロインぶるのも大概にしてください!」
トトの怒涛の叱責にシンディは固まってしまっていた。しかし、トトの勢いは止まらなかった。
「それで理不尽だと感じているのなら、あなたは所詮、駆け落ちの意味もよく知らないでごっこ遊びしてた子どもです!」
そうはっきりと言い切ってやると、我に返ったシンディの顔に怒気が帯びていく。
「人の気も知らないで!」
「きゃっ!」
シンディに突き飛ばされ、肩に掛けていた手帳が落ちる。
落ちた衝撃で手帳が開き、今まで描いてきたレースのデザインが見えてしまう。
慌てて拾おうとしたが、シンディがトトの手からかすめ取るように手帳を拾い上げた。
中を見た彼女は「これ……」と驚いたように呟くと、突然踵を返す。
「待って! 返して!」
慌ててシンディを追いかけて、彼女の腕を掴まえる。
「返して! それは大事なものなの!」
「いいじゃない。ちょっと貸してくれたって!」
「ダメです! それは……」
「トト……あれ?」
聞き慣れた声がし、二人が同じ方へ顔を向ける。
ルークだ。おそらく、ベンチに残した書置きを見てこちらに来たのだろう。彼は少し驚いた様子で声を出した。
「シンディ嬢? それにその手帳……」
彼女が手に持っているトトの手帳に、ルークの視線が向けられたのが分かった。
「シンディ嬢、それは彼女の大事な手帳です。返してあげてください」
ただ事じゃないと雰囲気で察したのだろう。ルークがいつになく責めるような口調でそう言うと、シンディが口元を歪ませた。
「こんなもの!」
「あっ!」
池に向かってシンディの手から手帳が離れた。弧を描いて飛んでいく手帳にトトは青ざめた。
自分が一生懸命書き溜めた手帳。姉が喜んでくれたデザイン。そしてその手帳を大事にしていると分かってルークがプレゼントしてくれたカバー。
その大事な思い出か詰まった手帳が、今池の中へ落ちようとしている。
(ダメ!)
トトが欄干に身を乗り出そうとした時、ぐいっと後ろに引っ張られる。
「え……」
そして代わりに視界に飛び出していったのは、ルークだった。
「えっ⁉」
ざばーーーーーーーーーーーーんっ!
大きな水飛沫を上げてルークが池の中に落ち、周囲が騒然とする。
「池に人が飛び込んだぞ!」
「誰か! 人を呼んで来い!」
「る、ルーク様⁉」
悲鳴に近い声が出た。こうなってはもうシンディのことなど頭に残っておらず、トトは慌てふためいて池に落ちたルークの姿を探す。
幸いすぐにルークの姿は見つかり、彼がゆっくりと岸に上がってきたのを見て、トトは大急ぎで駆け寄る。
「ルーク様! 大丈夫ですか⁉」
「あ、はい。私は平気です。池が深いっていうのは事前に分かっていましたし」
ずぶ濡れで上がって来た彼の顔には、あの面布がない。きっと落ちた拍子に取れてしまったのだろう。
「それと……これ」
ルークが差し出してきたのは、トトの手帳だった。彼は困ったように眉を下げて笑うと、小さく俯いた。
「トト嬢の大事な物だと思ったら、居ても立っても居られなくて。キャッチできたまでは良かったんですけど、すっかり濡らしてしまって……」
ルークから手帳を受け取って手帳を開くと、中はすっかり水分を含んでしまって文字は滲んで読めなくなってしまっていた。デザインすら何が書いてあるのか分からない。
「すみません。トト嬢の大事なものを守れなくて」
申し訳なさそうに口にするルークに、トトは小さく首を横に振った。
「いえ……いいえっ!」
手帳が宙を舞った時、頭に浮かんだのは、暖炉の中で燃えたルークの手紙だった。自分の大事なものが、また失くなってしまう。ずっと自分が大事にしていた思い出が詰まった手帳。あの時、母に燃やされた手紙のように失ってしまったらと思うと、トトは悲しくて仕方がなかった。
しかし、その大事なものを彼がちゃんと守ってくれた。中身は読めなくなってしまっても、まだ手帳はここにある。
目から熱いものが頬を伝って零れていくのを感じた。
「ルーク様……私の大事なものを守ってくれてありがとうございます」
濡れることもかまわず、トトが手帳を抱きしめると、ルークは再び困ったように笑った。
その時、ルークの目の前に薄い布が降りたように見え、トトははっと目を見開く。
彼を守るように覆い隠すのは、繊細なヴェールだった。彼の家紋を表す白百合や王家の薔薇。そしてマイルズ家の鳥。他にもいくつかの意匠と小さく瞬く星が散らばり、思わず息を呑んでしまう程の美しさだった。
(綺麗……)
これが彼から浮かんだイメージ。トトは彼から目を離せなくなっていた。
しかし、そのヴェールに突如、滲むように真っ赤な色が浮かぶ。
「⁉」
まるで彼を縛り付けるように現れた真っ赤なレースのリボン。その色はとても綺麗で繊細な作りをしているが、今にも彼のヴェールを食い破ろうしている。
(何、このレース……)
「トト嬢?」
彼に名前を呼ばれ、はっと我に返った時、目に映っていた光景は煙のように消えていった。
「もしかして、今……」
「いたぞ!」
ルークの言葉を遮るようにして、運営者らしい者がこちらに駆け寄ってくる。
「お前かーっ! お祭り気分で池に飛び込んだバカはー! 立派な迷惑行為だぞ!」
「ひぃいいっ!」
「ち、違います! 誤解ですーーーーーーーーーーっ!」
ルークはすくみ上り、トトが庇うために前に出た。
それから千里眼でデートを盗み見していたグレンが駆けつけるまでの小一時間ほど、ルークとトトは事情聴取されることとなった。




