弱小(?)米海軍戦記 そのいち
1864年7月12日、ジュバル-アーリー率いる南軍をアレクサンダー-マクック指揮の北軍が打ち破ったスティーブンス砦の戦いは北軍の勝利に終わった。
彼らの最高司令官エイブラハムリンカーンが戦死した、という一大事を除けば。
それから先の合衆国政界は大きく混乱した。
最も大きな混乱を招いたのはジョン-C-フレモントを中心とした急進民主党だった。彼らは共和党、民主党双方を批判し、特に和平を訴えるハト派民主党員を敗北主義者と罵った。政策としては全ての奴隷の解放と彼らへの土地又は給付金の給与(もちろんその財源は合衆国占領後の旧南部富裕層財産である)などの当時としては過激な人種解放政策を訴えた。
この過激さから急進民主党が政権を握ることはできなかったが、共和党に次いで第2の政党となった。
こうして彼らは第17代大統領となった前副大統領ハンニバル-ハムリンを時に援助し、時に攻撃する事で影響力を高めていった。
一方この結果を受けた南部連合では死に物狂いでの抵抗が行われたが、結局、質、量ともに上回るようになった合衆国軍には抗いきれず、1866年4月9日バージニア州アポマトックスでロバート-E-リー率いる北バージニア軍が降伏した事により組織的な抵抗は事実上終幕を迎えたが南部連合大統領ジェファーソン-デイヴィスはなおも徹底抗戦を呼びかけ、ゲリラ戦での抵抗を呼びかけた。
この呼びかけに応じた民衆により行われたゲリラ戦は北軍の占領政策をさらに苛烈なものとした。
ハムリン大統領も1866年4月15日に南部出身のジョン-ウィルクス-ブースによって暗殺される事になる。
こうした状況もあって戦後の合衆国では南部地域の治安維持とインディアン戦争のために陸軍が優先され、海軍は常にその整備を後回しにされてきた。
特に南北戦争時代のモニター艦を改修するという名目で新しいモニター艦を建造していたという予算の不正流用スキャンダルが発覚したのちはさらにその整備が遅れる事になった。
19世紀後半になるとさすがにこうした現状が問題視されはじめたが、そこで行われたフランスからの青年学派の導入が結果的にアメリカ海軍の整備の遅れにさらなる拍車を掛けることになった。
元々、青年学派は質、量ともに劣るフランス海軍がイギリス海軍に対抗する事など不可能なのだから、沿岸防衛には水雷艇などの小型艦艇を整備して、さらに巡洋艦などによる通商破壊などを行いイギリスの国力を削ぐことによって対抗するべきであるという構想を唱えていたのだが徐々に迷走していき、ついには「戦艦などの大型艦艇は非共和主義的である」とのイデオロギー的な色彩を帯びるようになっていた。
アメリカがフランスとの交流を深めたのはそんな時であり、当然そのイデオロギーも取り入れられたのだった。
さらにアメリカではモニター艦の整備も進められた。これはアメリカが世界初のモニター艦を建造したというプライドからくるもので、他国が前ド級戦艦や準ド級戦艦を建造する中、アメリカ1国だけが航洋モニター艦を整備し続けた。
そうして、アメリカ海軍は本格的に戦艦と呼べるものをついに一隻も保有する事のないまま20世紀の幕開けを迎える事になったのだが、1904年の2つの出来事、日露戦争と南米のアルゼンチン、ブラジル、チリの建艦競争によって変化を強いられた。
日露戦争での戦艦の優位性の証明と自らの裏庭とみなす南米で始まった建艦競争はまさに衝撃だった。
こうしてアメリカ海軍も戦艦の建造に乗り出すものの初めての戦艦建造という事もあって混乱していた、何しろその経験も技術もなかったのだから当然だった。
アルゼンチンからの戦艦建造依頼もあったが自国の戦艦の建造もまともにできていない有様では断わらざるをえなかった。結局、アルゼンチンはイギリスの造船会社レアードキャメル社とその子会社で砲製造を担当していたマリナーズ-リミテッド社に建造を依頼し、奇しくも南米3カ国の戦艦は全てイギリス製となった。
その間にも戦力の空白を埋める為に戦艦の代替としてのモニター艦の整備が行われていった。
そうした苦難を乗り越えて、1914年にはアメリカ初の超ド級戦艦であるメインとニューヨークが就役した。第一次世界大戦の勃発はその年だった。
架空戦記創作大会2018秋に投稿した「大日本帝国遣米艦隊戦記」の没ネタを修正して文章として書き起こしてみたものです。
もはや小説形式ですらなくなってる…