その3
ミツヤの兄の名前を出せば、両親を説得することは簡単だった。ミツヤは兄弟二人とも頭がよくて、周囲の大人たちから尊敬の信頼を集めているのだ。僕の知る人の中でミツヤの兄貴ほど滅茶苦茶な人はいなかったけれど、本人は大人の前ではそんな様子を全然見せない。僕の両親すら、僕よりもミツヤの兄貴を信頼している節があるくらいだ。
夕食を終えて家の外に出る。明るい夜だった。大気はまだまだ昼間の熱気を含んで蒸し暑い。空には細長い雲がほんの薄くかかっているだけで、大きな満月はその光を余すことなく地上に投げかけている。今夜の火花はきっときれいに見えるだろう。
住宅街の角を折れて、さらにもう一度折れて五分ほど歩くと、小さな空き地がある。もとは公園だったのだけれど、安全上の問題から遊具が撤去されて誰も利用しなくなってしまった場所だ。空き地のベンチにはすでに、ミツヤの痩身とヒロトの大柄な体が並んで座っていた。最初に僕に気づいて手を振ったのはミツヤだった。
「遅いぞ」
「ごめん、親を説得するのに時間がかかってさ」
「さっさと行こう。間に合わないだろ」
ヒロトは、ベンチに広げてあった地図を丸めて立ち上がった。
「お前が待ってる間に偵察まで終わったから」
住宅街を東に向けて三人で歩く。あたりには外に出ている大人はいなさそうだった。
「山道の入り口には、見張りが二人いる。山道を通っていくのは無理だろう。だから、入口から離れたところから、森の中を突っ切っていくしかないだろう」
「迷わないかな」
「大丈夫だろ、そんなに深い森じゃないし、ヒロトの地図だってある、俺も方位磁石を持ってきた」
ミツヤはポケットからサイズの方位磁石を取り出して僕に見せた。二人とも準備がいい。
住宅街を抜けると、周囲には田んぼと畑しかない。遠くまで見渡せる広い土地だ。僕らは、周りに注意を払いながら山のふもとを目指した。
「ねえ、ミツヤは将来の夢とかある?」
「はあ? なんだよ急に」
僕の一歩前を歩いていたミツヤは、怪訝な表情をして僕を振り返った。
「いや、まあ、受験生だしさ」
「科学者」
ミツヤの答えは迷いがなかった。
「だから一番偏差値が高い高校行くんだよ。ヒロトは実家継ぐんだっけ」
おう、とヒロトが答える。
「高校くらい出とけ、って親父から言われてるから、その後。もう勉強はしたくないんだけどな」
ふわ、とヒロトは歩きながら大きくあくびをする。将来への不安なんて一ミリもないといった感じだ。
「そういうお前はどうなんだよ」
最初の問いかけが回り回ってこちらに返ってくる。僕は答えに困った。だからこそ、二人の話を聞きたかったんだけれど。
「そうだなあ」
二人が僕のほうをじっと見つめてくる。僕の頭の中には、具体的なイメージなんて何もなかった。
「公務員かな」
ヒロトがふっと噴き出した。
「公務員になったら工場の税金減らしてくれよ。親父がいっつも文句言ってるんだ」
滅茶苦茶なことを言ってくる。
僕らは田んぼの畝を抜け、山の縁に沿った道を北上していた。僕は二人を無視して半歩だけ前に出た。
「このあたりじゃないか」
ミツヤの声に、僕は立ち止まって後ろを振り向いた。ヒロトは丸めた地図を広げている。月は明るく、地図を見るのに光源は必要なさそうだ。ミツヤは、ポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出していた。
「兄貴からだ」
「まさかもうバレたんじゃないだろうな」
「『頑張れってくれ』ってさ」
「なにを?」
「開花の瞬間をビデオで撮ってくるよう頼まれてるんだよ。アリバイ作りの協力代わりに」
ミツヤは携帯を操作しながら、リュックの中にカメラ持ってきてるんだよ、と言った。ミツヤとミツヤの兄貴は、兄弟というよりギブアンドテイクで成り立っている仲間という感じがする。
「ミツヤの兄貴ならそれくらいのことやってそうだけどね」
「昔見に行ったんだけど、ビデオ忘れちゃったんだってさ。あ、下にもう一文ある」
僕とヒロトはミツヤのほうを振り向いた。
「『生きて帰ってこいよ』って」
湿った夏の風が周囲を吹き抜ける。目の前の木々の群れがさわさわと音を立てて揺れた。森の奥には光が届かず、大きな暗闇がぽっかりと口を開けて僕らを待っているように見えた。
「大げさだよなあ」
ミツヤは携帯電話をポケットにしまいながら苦笑した。
「行こう」
見た目と裏腹に一番臆病なのに、森の中への最初の一歩を踏み出したのはヒロトだった。ミツヤはヒロトの背中を見送ってから、僕のほうを向いて首を傾げた。僕も同じくちょっと首を傾げてみせてから、森の中に足を踏み入れた。
濃い緑が僕らの周りを囲む。一歩踏み出すごとに月明りが陰っていき、代わりに土と森のにおいが濃くなっていく。ざくざくと、落ち葉混じりの土を踏みしめながら歩く。ミツヤはリュックから懐中電灯を取り出して電源をつけた。
「ずっと昔にマコトが言ってた、火花を見に行っちゃいけない理由ってなんだったんだろうね」
「何の話だ?」
ミツヤは覚えていないようだった。ヒロトも思い当たらないようで首を傾げている。
「行けばわかるだろ」
短くそう言ったのはヒロトだった。木々をの合間を抜けてどんどん歩いていく。なんだか、小学生くらいずっと昔に戻ってしまっような妙な気分だった。
「なあ、二人とも、一個、聞いてもいいか。マコトが、事故にあった日なんだけど」
ミツヤが言う。隣を歩くヒロトと僕は、それを聞いてびくりと肩をこわばらせた。
「あいつはあの時、何をしにあそこに行ったんだろうな」
それを疑問に思っていたのは僕だけではないらしい。
「わかんない、僕も不思議に思ってた」
と、隣のヒロトを横目で見る、ヒロトは、前を向いたまま黙々と歩を進めるばかりで、何も言ってくれない。
「なんとなく、なんだけどさ」
「なんだよ」
「あそこに行った理由はわかんないけど、マコトは道路に飛び出してきた猫か何かを助けようとしたんじゃないかな」
ミツヤが小さく噴き出した。笑ってはいけないと思うんだけれど、なんとなく肩の力が抜けてしまう。
「あいつなら、やりそうだ」
「僕も二人に聞きたいことがあるんだ」
ミツヤに、それとヒロトも、今度はそろって僕のほうを向いた。
「これ、何だと思う」
僕は秘密基地で見つけた箱をポケットから取り出して二人に見せた。ミツヤは首を傾げる。ヒロトは箱を見つめたまま黙ったままだった。
「わからん、俺は知らないぞ。……ヒロト? 急に静かになったな」
「俺にもわからない」
ヒロトは独り言をつぶやくようにそう言った。
「マコトのかもな。だとしたら、開けないほうがいいだろう」
そうだね、と返事をしたものの、僕は中身にすごく興味があった。けれどヒロトも、ミツヤの意見に賛同して小さく頷いていたから、無理にこの場で開けることはできなさそうだ。
「ヒロト? どうしたの」
ヒロトは、僕の手のひらの上の小さな箱をじっと見つめたまま目を離さずにいた。
「なんでもない、急ごうぜ」
と、すぐに話を打ち切ろうとする。ミツヤは、そんなヒロトの様子をしばらくじっと見つめていたけれど、やがて興味を失ったように前を向いて、お、と小さく声をあげた。
「見えたぞ、頂上だ」