その2
玄関の扉を開けて自宅の外に出ると、湿り気を含んだ暑い大気が全身をわっと包んだ。八月の夕暮れは、まだまだ昼間の光と暑さを残したままだ。わずかに夕暮れの気配を含んだ空を、数羽のカラスが飛び去り山の向こうに消えていく。僕は家族の駐車場に停めてある自転車にまたがって家を出た。
住宅街をしばらく走ると橋が現れる。町を分断する大きな川だ。僕の家は町の東側にあって、昔は、西側に家のある三人よりも秘密基地や小学校に行くまで時間がかかったものだ。
緩やかに流れる水の音を耳にしながら、橋の上を渡っていく。涼しげなせせらぎと、川面を吹きわたってくる風が心地いい。僕は自転車をこぐ足に力を込めた。耳元の風切り音が大きくなり、体全体に大気の塊がぶつかってくる。シャツの隙間や髪の間に風が入り込み、全身から熱を奪って通り過ぎていく。それでも、自分の体温はぐんぐん上がる。人間はそれ自体が内燃機関なのだ、と、ヒロトが言っていたのを僕は思い出した。
橋を渡り切り、西側の住宅街を走り抜ける。僕らの通っていた小学校の古い校舎を通り過ぎたところで、広めの道路に突き当たる。僕は横断歩道の直前で立ち止まった。と、僕の目の前を珍しく大型のトラックが走ってきて、ものすごい風圧とエンジン音を後に残して走り去った。大きな荷台の壁が目の前から消え去って、後には何もない景色だけが残った。灰色の路面と、等間隔に描かれた白線。道路の向こうはうっそうとした木々が生い茂る山道の入り口だ。横断歩道を渡り切った傍らには、木の板で作られた大きな看板が立っている。看板には、
「死亡事故現場」
と書かれている。白地に描かれた赤文字は砂埃で汚れ、風雨に溶け出して板の表面を伝っていた。ここから見ると、まるで誰かの血で書かれたみたいだ。
看板と横断歩道は、マコトが死んでから初めて設置されたものだ。
ふと思う。マコトは、今みたいなトラックに撥ねられたんだろうか。想像したくないイメージほど、まるで自分が経験した記憶みたいに、生々しい質量で脳裏に現れる。
道を慌てて渡るマコトの黒い影を、トラックのヘッドライトが眩しく照らし出す。マコトの体は巨大な重量に軽々と吹き飛ばされ、折れた木の枝みたいに宙を舞ってコンクリートの地面に叩きつけられる。暗い夜道、人も車も滅多に通らないその場所で、マコトはひとり横たわったままでいた。発見されたのは翌朝、散歩に出た近所の老人の通報がきっかけだった。
見通しの悪い道でもない。よほど慌ててさえいなければ、車が近づいてきていることには簡単に気づけたはずだ。マコトは、夜道に飛び出した猫でも助けようとしたんだろうか。冗談のつもりでそう考えてみても、本当そうかもしれない気がしてくるのがマコトの凄いところだ。
僕は頭の中でどんどん大きくなる空想を断ち切って一歩を踏み出した。左右を見回しても、高い木の上から落ちてきた葉っぱが宙を舞っているばかりで、車も人の姿もない。自転車を押して道路の向こうに渡る。ギアとチェーンがかみ合い、ききき、と音を立てて回転する。夏の風がどこからか緩く吹いてきて、頭上を覆う木々をさわさわと揺らした。
僕は、山道の入り口脇の茂みに自転車を停めた。足元の柔らかい土の感触を確かめながら、木々の間にぽっかりと空いた空間に足を踏み入れる。倉庫の場所まではそんなに遠くない。ただし、途中で道から外れて森の中を通り抜けないといけないから、初めて足を踏み入れる時にはちょっとだけ怖い。だからこそ、秘密基地として機能していたんだけれど。僕らがこの場所を知ったのは、ミツヤの兄に教えてもらったからだった。僕らの前には、ミツヤの兄とその友人がこの倉庫を根城にしていたらしい。
木々の間から差し込む光は濃い赤色を含んでいた。緩やかな傾斜を登り切ったところで木々が途切れ、ぱっと開けた空間が現れる。足元の草木の密度がそこだけぐっと減り、小さな子どもなら走り回れるくらいの地面が広がる。そこにぽつんと立つ小さな建物が、僕らの秘密基地だった場所だ。
僕が今になってもう一度この場所に足を運んでみようと思ったのは、もしかしたらマコトの魂がこのあたりに帰ってきているんじゃないか、なんて非科学的な妄想を信じたくなったからだった。
僕たちの集合場所はいつでもこの場所だった。学校が終わると人目を避けるようにして校舎を出て、こっそり森の中に分け入ってここに集まる。どれだけ早く教室を出ても、一番最初にここに来て僕らを待っているのはいつもマコトだった。
倉庫の扉は、ぎしぎしと音を立てて今にも外れてしまいそうだったけれど、なんとか壊れずに開いた。木々の間から差し込んだ光が、室内に光と影のコントラストを作り出す。土煙とほこりが舞い上がり、僕は口をふさいで咳をした。扉を開け放ったままあたりを見回す。部屋の真ん中には、僕らが使っていたテーブルがそのままの形で置かれていた。と、僕は、室内に一歩踏み入れたところで足を止めた。
僕と向き合う形で、誰かが椅子に座っている。
「マコト?」
頭の中で考えていた言葉は、背中を思い切り叩かれた時みたいにぽろりと口からこぼれ落ちた。
「そうだよ、って答えたいのは山々なんだけどな」
細長い体躯が立ち上がる。その時、顔にかけた眼鏡のレンズが光を反射してきらりと光った。
「ミツヤだ、何しに来たんだ?」
僕らはテーブルを挟んで向かい合った。ミツヤは頬を緩める。薄い唇の隙間から歯が覗いて、皮肉交じりの笑みを形作った。
「俺は今日が命日だったから、なんとなく、な」
「僕も。マコトのお墓参りに行って来たから」
僕らはそれぞれの椅子に腰かけた。ぼろぼろになった椅子が壊れないようにゆっくりと座ると、ぎぎ、と不安な音を立てながらも僕の体重を支えてくれる。今の僕が座るにはぴったりの大きさだった。テーブル越しに見回す室内は、以前よりもずっと狭い。
「マコトが帰ってくるならここかな、って」
「お盆だから、ってことか? 非科学的だな」
ミツヤは皮肉っぽい笑みを浮かべて、
「ま、俺もそうなんだけどな」
肩の力が抜ける。ミツヤもヒロトも僕も、今年は別々のクラスになった。同じ学年でも、機会がなければ話すことがない人はたくさんいる。僕らはお互いに、ほとんど話をすることのない仲になりかけていたから、ちょっとだけ安心したのだ。
「ミツヤは勉強してる?」
「してる。お前に心配されるなんて心外だ」
そして、僕らは今年受験生だった。来年からは皆離れ離れになる。ミツヤは、県内で一番難関とされる高校を志望していると言った。僕は……考え中だ。
「帰って勉強すっかな」
そう言いつつも、ミツヤは立ち上がる様子を見せない。僕も、しばらくこの場所にいたい気持ちになっていた。一緒にいても、何も話すことができない瞬間がある。マコトが永遠に子どものままでいるのと代わるように、その死は僕たちを少しだけ大人にした。
「あのさ」
僕はゆっくりと口を開いた。宙にぼんやりとさまよっていたミツヤの両目が僕を捉えたところで、僕の背後に誰かが立った。ミツヤが僕の肩越しに入口を見やるのにつられて、僕も後ろを振り向く。夕方の赤い光を背景にして、横幅の大きな黒い影が入口にぬっと立ち尽くしていた。
「お前ら、なんでここに」
黒い影が、馴染みのある太い声で僕らに問いかけた。僕の後ろで、ミツヤが声をあげて笑った。
「皆、考えることは同じなんだな。マコトも、そのへんにいるかもしれないぜ」
大きな黒い影は、丸い頭を傾げて僕らを見た。ゆったりとした動作と大柄な体を見れば、どれだけ離れていたってヒロトだとわかる。
「ヒロトも座りなよ」
ヒロトはのしのしと歩いてきて僕とミツヤの間に座った。入口の一番近くに僕、僕の真正面にミツヤ、左側にヒロトが座る。僕の右手の椅子はもう埋まることがない。
「ヒロトは何しに来たんだ?」
ミツヤが聞く。ヒロトは、細い目をちょっとだけミツヤのほうに向けたけれど、目は合わせない。少しだけ俯き黙ったままだ。
「ヒロト?」
僕が問いかけると、ヒロトはゆっくりと顔をあげた。そして、大きな口を開いて、決意を込めた口調でこう言った。
「今夜、火花を見に行かないか?」
僕とミツヤは、間にヒロトを挟んで顔を見合わせた。
「どうしたの? 急に」
「もともと、火花を見に行こうと思ってたんだ、その前に、ちょっとここにも寄ったらお前らがいた」
僕とミツヤは二人してヒロトの方を向いた。
「今夜だっけ?」
僕が聞くと、ヒロトが頷いた。ミツヤもそれに同意する。知らなかったのは僕だけらしい。
「親父が親戚の集まりで話してるのを聞いたんだ。たぶん、今日の夜には開花するだろうって」
「行こう」
ミツヤの声は弾んでいる。
「開花の時間は知ってるか? その時間に合わせてここを出よう」
僕は、ヒートアップしていきそうな二人の間に割り込んだ。
「待ってよ、そこに行くのは禁止されてるだろ」
ミツヤとヒロトがそろって僕のほうを向く。目を丸くして、僕の言うことが全然理解できない、といった表情だ。
「うちに泊まったことにすればいい。親は出かけて今日は帰ってこない。兄貴に口裏を合わせてもらえば完璧だ」
「そういう問題じゃなくてさ」
僕はどう二人を説得しようか考える。
「無理にとは言わない、俺は行くから」
ヒロトが重々しい調子で告げた。
「……なんでそこまで」
「マコトが見たがってたからだ」
ヒロトは、ここではないどこかを見るような遠い目をしていた。
「せめて、摘んできた火花をあいつの前で見せてやりたいんだ」
さっきとは違う、質量を持った重い沈黙。ミツヤは、われ関せずと言った様子で壁のシミでも眺めているようだった。僕は、これ見よがしなため息と一緒に、
「開花の時間は、去年が十一時、一昨年が十時、三年前も同じだった」
ヒロトの細い目がさらに細くなり、太い眉がハの字になる。体が大きくて威圧感のあるヒロトだけれど、笑うとまるで温厚なクマをモチーフにしたアニメキャラクターみたいだ。
「お前はいざってときにやってくれる奴だよ」
「決まりだな」
ミツヤが身を乗り出してくる。二人とも調子のいいやつだ。
「夕飯が終わった後に集まろう。町の東側の空き地でいいよな」
ミツヤの提案に、僕とヒロトはそろって大きく頷いた。
僕らは持ち物と集合時間を確認して、一度解散することにした。椅子から立ち上がる二人を前に、僕はその場に座ったままでいることにした。
「帰らないのか?」
「しばらくここにいるよ」
「相変わらず不思議なやつだな」
僕は、二人が連れ立って外に出て行くのを見送った。狭い倉庫の中に一人残る。なんとなく、もう少しあちこちを見てみたくなったのだ。
部屋の四隅にごちゃごちゃと押しのけられガたラクタを見ながら、テーブルの周りをぐるりと一周する。と、木製の柱の一本に、刃物か何かで傷をつけた跡があった。十センチくらいの横向きの線が四本。上から順番に、赤、黄色、緑、青のマーカで色も付けてある。確か、赤がヒロト、黄色がミツヤ、緑が僕、青がマコトだった。各々の好きな色で、これが自分だ、ということをはっきりさせたのだったと思う。
この傷をつけたのまだ小学校低学年の時だった。誰の身長が一番高いか、みたいなことをはっきりさせるためのものだ。かわるがわる柱に背中をぺたりとくっつけて、印としてカッターで傷をつけたのだ。自分の胸の高さくらいにある傷跡がもとは自分のものだったなんて、なんだか信じられない。
と、柱のすぐ横に、ガラクタに埋もれたタンスがあるのに気が付いた。引き出しが三つ縦に並んでいるものだ。一番上の取っ手に手をかけて引いてみると、鍵がかかっている。下の段は鍵が付いていないが開けてみると空っぽ、一番下の段には、片隅に銀色の小さな鍵が入っていた。何かを隠すにはちょっと考えが甘すぎる。手に取ってタンス上部の鍵穴に差し込むと、カチリと鍵の凹凸が噛み合ってロックが外れた。引き出しを開いて中を見る。
中には何も入っていない、かと思ったけれど、奥のほうに小さな箱が入っているのが見えた。引き出しを目いっぱい手前に引いて、箱を取り出す。
手のひらに乗るくらいの大きさをした、正方形の箱だった。白地に水玉模様の包装紙と深い青色のリボンでラッピングされている。けれど、ここに長い間放置されていたせいで、包装紙のあちこちがうっすらと汚れていた。
僕は、数秒の間、手のひらに乗せたままの箱をじっと見つめた。中身を見てみたかったけれど、なんとなく、勝手に開けてはいけない気がした。僕は誘惑を押しのけて、箱をポケットの中にしまった。この場所に何かを置くのは、僕ら四人のうち誰かだ。僕のものではないから、この箱はマコト、ヒロト、ミツヤの三人のうちだれかのもののはずだった。
火花を見に行く最中、二人に聞いてみる必要がありそうだ。