その1
火花には二つ意味がある。
小学一年生の夏休み。そのことを初めて僕に教えてくれたのはマコトだった。マコトはどこかぼんやりしている女の子だったけれど、意外にも勉強ができて、僕ら四人の中では二番目に頭がよかった。一番はミツヤ、二番目がマコト、三番目が僕、四番目がヒロトだ。もし、今でもマコトに勉強を教えてもらえていたら、僕とヒロトはテストで赤点なんて取らなかっただろう。ミツヤは頭がいいくせに、人に教えることをとても面倒くさがるのだ。何より、僕らはあれ以来あまり一緒に遊ばなくなった。
当時の僕らは、いつも小学校の裏山を少し登った所にある倉庫に集まっていた。ずいぶん古い木の倉庫で、もう何年も使われた形跡がない。その中には、工具やロープ、いろいろながらくたがあちこちに放置してあった。僕らは、片隅に置いてあったテーブルとイスを倉庫の真ん中まで運んだり、ボードゲームを持ち込んだりして自分たちに居心地のいいように倉庫の中を改造していた。つまり、そこは僕らの、いわゆる秘密基地だったのだ。
その日、僕らはいつも通り四人で秘密基地に集まっていた。マコトは、狭い空間の真ん中に置かれたテーブルに、小学校で使っている筆箱と自由帳を置いていた。表紙は、何かの花が映った写真が印刷されたもので、下部の名前を書くところには、一年三組、玉来真琴、とあった。
マコトの白い小さな手がページをめくる。さまざまな落書きのされたページを数枚送りで通り過ぎて白紙のページに行き当たると、今度は筆箱から鉛筆を取り出し、白紙のページの上側に丁寧な字で、
火花
と書いた。
「火花には二つ意味があるんだよ」
この時の僕らは、まだその漢字を習っていなかったと思う。僕とミツヤとヒロトは、椅子から身を乗り出して三人でノートを覗き込んだ。テーブルはちょうど四人掛けだったけれど、小学一年生が使うにはかなり大きかった。マコトは、えへん、とちょっとだけ胸を張った。
「いっこは、火が燃えるときにパチパチ飛び散る方で、もうひとつが、空に咲く方」
マコトがゆっくりした口調でそう説明する。それから顔をあげて、僕ら三人を見た。ミツヤ、ヒロトと視線を移動させるけれど、二人ともじっとノートに目を落としたままだ。ちょうど僕のほうを向いたところで、僕らの視線がぶつかった。マコトはへへ、と口をへの字にして笑い、困った風に首を傾げる。耳が隠れるくらいのところで切ったつややかな黒い髪が揺れて、柔らかそうな白い頬にその先端が触れた。僕は、二つの大きな瞳に吸い込まれてしまいそうな妙な気分になって、思わず目をそらした。それでも、視界の片隅からその姿を離さなかった。マコトはまるで、遠くの国で作られた美しい人形が、魂を持って動いているように見えたのだ。マコトは僕の視界の端で、口を「い」の形に、それから「お」に、それからもう一度「い」にした。呟きにもならない小さな声は、
「ひどい」
と言っていたのだ。マコトは、いろいろな男の子からからかわれたり、それと反対によくしてもらうことも多かった。……要するに可愛いからちやほやされていたのだ。
「マコト頭いいなあ」
と、自由帳に書かれた幼い文字を見てマコトを褒めたのはヒロトだった。
「向こうの山に入っちゃいけないのはそのせいなんだろ」
自分が一つでもたくさんのことを知っているぞ、ということをどうしても示したくなってしまうのはミツヤだ。ミツヤは目が悪くて、小学一年生の時点でもう眼鏡をかけていた。ミツヤはきっと、自分の目を犠牲にして頭のよさを手に入れたのだろう。確か、ミツヤの兄も目が悪かった。
うん、とマコトが頷く。白く細い手はまだ鉛筆を握っていて、僕らと話をしながら、白紙面の真ん中にイラストを描いていた。ろうそくの先端で燃えるような、オレンジ色の芯を赤色で包んだ炎、ただし、鉛筆で描いたから白黒だ。その炎は激しい風であおられているみたいに左右に暴れ回り、小さな炎の粒を周囲にまき散らしている。マコトは、細かい粒の部分を曲線で囲み、引き出し線を書いてその先に「これ」とメモをつけた。馬鹿と天才は紙一重、というけれど、これはマコトのために作られた言葉なんだと今でも僕は信じている。つまりもう、この言葉は僕にとって不要になってしまったのだ。
「近くまで行くのは危ないから、って」
マコトが言う。その話は、この町の子どもたち誰もが親や親戚から聞いていることだった。八月の中旬、ちょうどお盆を過ぎたころの数日間、この町には立ち入り禁止になる場所がある。それは、町の反対側にある別の山だ。僕らの町は、北側から流れる川に分断されていて、僕らの基地は西側にある。火花が咲くのは東側の山だ。東側の山をてっぺんまで登り、半分ほど下った山の中腹。お盆を過ぎた頃には、その場所から、空に向けて美しい炎の花が一斉に咲き乱れるのだ。僕らは、その開花に立ち会うことを禁じられている。。
マコトの手は、また別のイラストを描き始めていた。まずは、地面に顔を出した芽のような、二枚で一対の葉っぱを描く。その後は、二つの葉っぱの中心から、上に向けて二本の線を引く。これは茎だ。そして最後に、茎の先端を短い横線で切り取った。花の部分だけカットされてしまった花の絵。奇妙に見えるがこれでいい。火花の花弁は茎の先端ではなくて、暑い夏の夜空に咲くのだ。
「僕の家から見えるよ」
今度は、三人の顔が一斉に僕のほうを向く。人形みたいに小さい顔に、大きな二つの瞳が印象的なマコト。ちょっとだけ頬がふっくらとしていて目が細く、髪を短く刈り込んでいるのがヒロト。優等生っぽいさらさらの髪に、銀縁の眼鏡をかけた細面がミツヤだ。
「行きたい」
マコトが言う。それを聞いたヒロトも、慌てて、俺も、と続く。最後に、ミツヤが二人にあきれるように小さく頷いた。
「いいよ、開花の時期になったら、うちで遊ぼう」
誰からともなく歓声が上がるのを聞いて、思わず口元に笑みが浮かんでしまう。自分の一言に、皆が着いてきてくれるこの感覚が嬉しい。と、マコトは無表情になって、ノートに書かれた二つの漢字に目を落とした。
「見に行きたいな」
「これから、こいつの家で見るんだろ」
間違いを指摘するのが誰よりも早いのはミツヤだ。
「そうじゃなくて……」
マコトはノートに顔を落としたままだ。僕らは四人そろって、マコトの描いた火花のイラストを見下ろした。マコトは、茎の先端から鉛筆の先端をつけないようにノートを上に辿り、火花、の文字の真下で止まり、そこに大きめの丸を描いた。それから円周に沿って、細い線を何本か伸ばす。空に咲いた花弁を描いたらしい。
「それじゃ太陽だよ」
とミツヤ。マコトは、何も言わずに筆箱から消しゴムを取り出して、太陽だ、と言われた絵をごしごしと消した。
「咲くところが近くで見たい」
「その時期は山に入っちゃいけないことになってるだろ」
僕はつい強い口調になってしまった。マコトの細い肩がびくりと震える。
「大人になったら行けるようになるから」
とミツヤが慰め、ヒロトがうんうんと頷く。最初はミツヤだったのに。こういう時は、僕ばっかりが悪者だ。
「その時はみんなで見に行こうね」
けれど、頷いたマコトが嬉しそうに笑うところを見ると、そんなことはどうでもよくなってしまうのだ。
「そうそう、それとね」
と、マコトが付け足す。僕らは、三人そろってもう一度マコトのほうを向いた。
「火花が咲くところを見に行くのを禁止されてるのには、危ない以外の秘密があるんだ。商店街のおじさんが、話しているところを聞いたんだけど……」
僕らはぐいと身を乗り出した。マコトは小さな口を開いたけれど、僕の記憶はそこでふっと途絶える。その声を、僕はもう思い出すことができない。
この時、マコトは何と言っていただろう? あれから話を聞く機会はいくらでもあった。マコトはたびたび火花の話を持ち出したけれど、それ以外のことがあまりにも楽しすぎて、僕らはそんなことが全然気にならなかったのだ。
火花の話を初めて聞いたのは小学校一年生の時、マコトが死んでしまったのが中学一年生の時、そしてマコトの死をきっかけに疎遠になったまま、僕らは中学三年生の夏休みを迎えていた。