社畜が異世界な中華で奮闘してみた
はじめまして、仕事にお疲れな主人公が異世界に行き、やる気とほんのりラブで、自分を見つめて行動する、そんなお話です。楽しく読んでくださると嬉しいです。
真夜中も過ぎた頃、泥のように重い身体で布団に倒れ込んだ。久しぶりの布団だ。
明日の予定は何だったろう。
そうだ、外部へ虐待防止イベント依頼、その草案提出と。あれ?草案提出は終わってたんだったか?ん?予定参加人数は書いたか?そう言えば収容可能な会場は?第2会議室?第3会場?ああ前回の参加人数は書き込んでたか?
もうダメだ、頭が回らない。部屋の明かりを消さないと。
意識が途切れる、闇に包まれたような感覚だけがあった。
閉じた目に明かりを感じる、朝だろうか?そうだ電気を消したろうか?ゆっくり目を開けると見覚えのない天井だった。窓の外が明るい、朝のようだ、身を起こし周囲を見る、簡素な部屋、窓は中華風な朱塗りの各格子、黒塗りの机の上には何かの束がある。
立ち上がると体が軽いのがわかった、手を眺めると見慣れない手、見慣れない服装、見慣れない周囲。
ここは?
第13房室、職務は民省令、官位は下士官。私の名は李生スラスラと頭に浮かぶ。
房室は私の寝室。民省令は民事を管理する職場であり、下士官は公務員のようなもの、らしい。
はたと気づく、そろそろ朝議に行かねばならぬ。習慣のように顔を洗い、服を着替え、必要であろう机の竹簡を抱え部屋を出た。
頭の中にスラスラ浮かぶ情報に戸惑いながら、今一番の急務であろう朝議へと向かった。
庭を横切り廊下を進むと似たような部屋が横並びに見える、今の私と同じような下士官が多くいるはずだ。遅めに出たせいか人が見えない、急ごう。足を早めたが、ふと甘い香りがする、花は見えないが庭に植えられているのだろうか?その時、目の前に人がいる事に気がついた。
慌てて後ろに下がり、頭を下げて横を過ぎようとする、だが黒い大きな影に遮られた。私に何か用だろうか?急いでいるんだが。
顔を上げると、朱を塗ったような赤い唇が三日月型に笑っていた。美麗というのか、切れ長の涼やかな目元、陶器のような白い肌、紅い唇。そしてそれらが私の目線より上にある。驚きで喉の奥からひゅっと音が出そうになったが飲み込む。
唇がゆっくり動いた
「君、どこから来たの?」
男性とわかる声だった。
「あちらの房から民省令へと参ります」
またも情報が浮かぶ、彼は宮廷お抱えの巫夫であり占術師。名は怜。我々は怜様と呼んでいる。
巫夫?占術師?なんだそれ?思わず突っ込みを入れた。
確か、かなり自由なご身分で、帝と直接対面もでき、今の私よりもかなりの高官扱い。めったに人前に出てこない方で、これまでは帝の側で控えている姿しか見た事がなかったが。
なぜ今、こんな下士官の宿房に?
「わかっているくせに、僕はそんな意味で聞いてないよね。」
ふっふっふっと妖しく笑い、私をジッと見つめる。濡れたような目に見つめられ緊張する。
私の額を優雅に指差すと
「二人いるね」
ふっふっふっ紅い三日月が動く、笑い声だけ残し風のように去ってしまった。
省令内に入ってからは慌ただしく、職務に忙殺された、山と積まれた書簡にため息が漏れる。なんだってこんなに仕事が多いんだ?
まず上官が捕まらない、上官を探しても見つからず確認待ちの竹簡ばかりが増える。酷い時は竹簡ごと紛失される事もあった。
どうも一つの確認にやたらと時間がかかり過ぎている。竹簡を手に取り眺める、よくよく見るとまとめられ方がそれぞれ違う事に気がついた。
パターン化されてないんだ!
どんな仕様でもパターンがあるはず、無いなら作ればいいんじゃないか?
確認の流れも作ってしまえば?
毎回の竹簡の手渡しも、まとめてから渡してー
背筋にゾクゾクと興奮が走る。
もっと効率化できる!もっと早く帰れる!
自然と口が緩む。それからの仕事は業務よりも改善点を探すようになっていた、隠れた楽しみだ。明日まとめて出してみよう。暗かった気持ちが晴れ、心が軽くなる。
明るい光が見える気がする。
その日の職務は夜更けに終えた。自分の部屋に戻ると机に向う。ロウソクを灯して、改善できるであろう要項をまとめる。いくつかのパターンの草案も作ってみた。ウキウキした気分でまとめ上げ、久しぶりに健やかな眠りについた。
次の日、なんとか見つけた上官に、はやる気持ちを抑えて草案を見せ説明する。やっと捕まえた上官は随分と細かった、忙しいのか食事もろくに取れてないようだ。そして草案を見つめる顔は随分と曇っていた。
「これまでの慣例を破る事にならないか?実例がない事ばかりだ。」
どうやら上官は消極的なようだ。
「もし、今よりも遅れが出たら、誰の責任になるんだ?」
「それは、確かにそうですがー」
軽やかだった心が沈み始める。そうだ、前もそうだった。いくら提案を出しても「慣例に無い」「誰が責任を取るのか」で終わったっけ。しょっぱい気持ちが込み上げてくる。自信はあったんだがな。私はまた何も出来なかったのか。
上官は私に草案を書いた竹簡を返し、立ち去ろうとしていた。私も部屋に戻るため竹簡を抱え直す。
そういえば私は何のためにココにいるんだろうか?もしかして今は夢の中だろうか?起きれば元に戻れるんだろうか?どうしてこんな変な夢を見ているんだろう?ぼんやりと現実逃避のように考え出す。
ふわりと、甘い花の香りがした。
「やらせてみたら?」
聞き覚えのある声で、背後からのそっと影が覆い被さった。怜様だった。怜様に上から乗りかかられ身動き出来ない。怜様に気がついた上官はあんぐりと口が開いている。
「責任を取るための上官でしょう?」
どうやら紅い三日月の笑顔で言ってるようだ。和かな声に聞こえる。
「貴方も忙しさであまりご飯食べれてないでしょ?食事の時間ゆっくり取れるようになるかもよ。僕の見立てだと、この子は見所あるから。」
頭上が軽くなる。
私の顔の真横に怜様の顔が来た。紅い三日月が開く。
「君、自信あるんだよね?出来ると思ったから言ったんだもんね?」
今にも食べられそうな気持ちになりながら言葉を絞り出す
「はい、結果は、お見せできる、と思っております」
ふっふっふっ昨日と同じように笑い、怜様は何事も無かったように歩き出して去ってしまった。
「はぁーーーー」
上官と私は息を吐き出した。お互い緊張していたのだとわかる。思わず口に出してしまった。
「怜様って帝のお手付きとかですか?」
上官が顔色を変える
「バカモノ!滅多な事を言うな!あの方は帝の政に携わっておられる。不興を買えばお前どころか儂の首も飛ぶ!」
上官は大きなため息をついた。見ると眉間のシワが減り、口元のシワが増えていた。
「仕方あるまい、やるだけやってみろ。」
まさに渋々と言った。逆に私は頬が熱くなるのがわかった。
「はい!絶対に悪化だけはさせません!」
上官はまた大きくため息ついた。
あれからすぐに民省令の部屋に戻り、同僚達に声を掛ける。
皆な顔色が悪い、きっとこれまでの私と同じように、職務に忙殺されてきたに違いない。思わず鼻の奥がツンとする。
机にわかりやすいように草案を広げ、説明する。
じわりじわりとだが空気が変わっていた、目に光が戻った者が出てきた。
「これなら不備も減って、上官と連絡しやすくなるんじゃないか?我々の手間も減るのでは?」
私は大きく頷いた。
しかし、不安を口に出す者もいた。
「これまでと異なるようにして、大丈夫なのか?」
当然の疑問に周囲も同調しはじめる。
その会話を断ち切るように、勢い込んで話し出す者が出た。
「俺は見ていたぞ、お前は上官に許可を得ていたな!」
不安そうだった者達の目が見開かれる、ざわざわと騒ぎ出す。本当に?あの事なかれ主義だぞ?長い物に巻かれてばかりだったじゃないか?よく許可が降りたな?何かあったのか?
「それだけじゃない、李生はあの怜様の後ろ盾もあったのだ。みんなにも見せたかった、上官も李生も息を飲んでいたぞ!」
楽しくて堪らないとばかりに自慢げに話す。
見られていたのか、なんとも居た堪れない。怜様の助言があったのは確かだが、あの人はどうにも苦手だ。やたらと距離が近いし、掴み所がなく得体が知れず、怖い。
不安を口にしていた同僚達が一斉に静まった。少しの沈黙の後に小声でざわざわと話し出す、怜様が?あの怜様か?怜様は霊験あらたかな逸話が多くあるらしい、怜様のお墨付きとあるならばーーきっと。みんなの顔が明るくなり出した。きっと悪い事にはならないはずだ。
机の草案を我先と覗き込み、期待に満ちて私の話を聞いてくれるようになった。
あの一件から同僚達も一斉に動き出してくれた、元々優秀な人材だったんだろう。伝令を別部署にも飛ばし、連携して形式化、すぐに見れる、すぐにわかる。そんな省令へと変化して行ったのだ。否定的だった上官も今となれば上機嫌で帰路へ着いている。
これまで本当に多くの瑣末な事に煩わされていたのだとわかる。皆も効率が上がり業務時間が減った。省令内で帰りに一献でも、と誘われる事も増えた。
誘われた先は居酒屋のような場所らしい。酒の席では同僚達と仕事以外の話も出来るようになった。中華圏内の過去の世界だと思っていたが、どうやら私の知っている国の過去というのでもないらしい。聞いた事もない国名だった。あまり話すとボロが出そうで、いつも聞き役に回っていた。
騒がしい一階から静かな二階にあがる、同僚達は先についていた。ゆったりとくつろぎ、つまみを食べる。見た事の無い食べ物ばかりだったが、すぐに慣れた。同僚達は口々に私を褒めそやしだした。
「お前のおかげだ、昔であれば考えられぬ」
「今のように家路につけなければ、私の妻は里に戻る所だった。」
「娘や息子と話をするようになった」
「両親が喜んでくれている」
笑顔で話しかけてくる。
そう言えば、私の前の職場は今と同じく役所だった、新人歓迎会や親睦会もあったはずだが、忙しさに振り回されて、参加した記憶がない。当時の上司達も私と同じく遅くまで残っていたな。目の前の事だけに囚われていたと深く思う。あの場所は息が詰まった。
酒の肴は噂話と決まっているのか、コソコソと話し出す者がいた。
「まだ決まってはないらしいが、民省令から大省令へ異動者が出るらしい。」栄転ではないか!誰が行くんだ?ヒソヒソと声が漏れる。その中の一人が私を見た
「李生ではないか?」
ほろ酔いで気の抜けていた私はぼんやりと顔を向けた。そうだそうだ、お前だろう!皆が興奮しながら話し出す。お前の働きのおかげだ、きっと怜様の後ろ盾もあったに違いない。
怜様の噂の一つに、見込まれた官吏は宮廷内に召し上げられる事があるという。エリート出世街道というより裏道ルートらしい。噂によれば見込まれた官吏は適材適所に置かれ、帝の覚えめでたく職務に邁進できる、らしい。
「ふむ」なんとも乗り気になれなかった。あの怜様に関わりたくなかったからである。見透かすような目線も、浮世離れした美しさも、人でないようで落ち着かない。
はっきりしない私の話より、みんなの興味を引く怜様の噂話へと話題は移った。私は酔いが回ってきていたのか、話はほぼ耳に入って来なかった。今の内に戻ろう。
「私は酔ったから先に帰るよ」
同僚達に声を掛け一人で店を出た。
ずいぶんと夜道が明るい。満月だったろうか?夜空を見上げれば、丸い月が二つ、ぽっかりと浮かんでいた。
ここは私がいた場所と、本当に違う場所なんだなぁ、夜風に当たりながら考える。私は夢を見ているのだろうか?あの夜から何日経っている、長い夢なのか?それとも、本当に私はどうにかなってしまっているのか?怜様に触られた額を撫でる。「二人いるね」と言われた、あの方は何かを見えているらしい。私以外の声というか、ここでの生活に不便が無いのは、これまでの李生がいるからだろう。気になって(おい、李生、聞こえるか?)自分の中に問いかけてみた。何度も試してきた事である、やはり応えは無かった。
いつものように竹簡を抱え歩いていると、上官に呼び止められた。
「李生、儂と共に宮廷に行くぞ」
「何の御用でございましょう?」
行けばわかる。と竹簡を同僚へ渡し、二人で歩き出した。
宮廷まではわずかに距離がある、道中で重ねて聞けば、上官も知らないらしい。李生を連れて来いとだけ「悪い知らせでは無いだろうが」歯切れも悪そうに上官が顔をしかめている。
宮廷内の士大夫の部屋へと入る。
士大夫は高官で、下士官の私が謁見する事はまずない。上官と私は緊張の面持ちのまま立礼し、士大夫の言葉を待つ。許しを得て士大夫を見ると、大きな机を前に立派な椅子に腰掛け、豪華な服を着ていた、口ひげを蓄え如何にも権力者に見える。
「お前が李生か、話は聞いておる」
士大夫が言うには私の働きはめざましく、その手腕を発揮するためにも宮廷内に勤めるように。との話だった。
大省令どころでは無い大出世である。怜様の噂は本当だったのか、必ず怜様も噛んでいるに違いない。救いを求めるように上官を見ると、キラキラとした目で私を見つめている。そうか、私が出世すれば宮廷にあがる天井人となる。私との縁がそのまま天井人との縁になるのだ。
士大夫も上官も私の言葉を待っていた。この空気の中で断る選択肢は無いようだ。腹を決めると恭しく頭を下げ
「恐悦至極にございます」
昇進を受け入れる事となった。
宮廷内に自分の執務室があるというのは妙な気分になる物だ。それまで暮らしていた狭い宿房を引っ越しし、宮廷から少し離れた邸も賜った。元々身寄りもなく宿房とて寝に帰る程度の生活であったので、邸を賜ったからと何をすれば良いのか見当も付かない。唯一、専属の庭師に薫り高い花木を植えてもらうようにだけ頼んだ。
驚いたのは執務室の隣に立派な寝室があった事、宮廷内で生活できそうである。天井人ともなれば、夜更けまで仕事なぞしないと想像していたが、立て込んだ場合はここに泊まるのか。至れり尽くせりなのだろうか?どうなるのかわからないが、せっかくなら貰った邸に帰る生活をしたいと思う。
仕事始めの初日、不安と期待を胸に執務室の扉を開けた。士大夫の部屋にも負けない調度品が置かれている。
真正面の立派な机に寄りかかり、和かに手をヒラヒラと振る人物がいた。怜様だ。
私は驚いて、初めて会った時のようにひゅっと喉の奥に空気が入る。会うとは思っていたがこんなに早くからとは思わなかった。怜様がゆっくりと私に近づくと、私の冠を直し、両手で私の両頬を押さえられた。
ふわりと花の香り、紅い唇が動く。
「馬子にも衣装」
機嫌良さげにつぶやいた。距離が近い。
「君と話をしたくてね待ってたんだよ」
怜様の顔が近づいてくる、何が起こるのか身構え過ぎて目もつぶれない。逃げようにも力強く押さえ込まれている、涙目になっていると、お互いの額を合わせられた。
「少し見せてね」
恐ろしさに我慢できなくなって強く目を閉じた。
いつまで待てばいいのか?薄く目を開ける、怜様の目は閉じられていた。こんなにそばで人の顔を見た事がない、近すぎてボヤけている。額から熱が離れ、顔全体が見えた。濡れた瞳に秀麗な鼻筋、紅い唇は薄い半円を描き三日月のようだ。紅い唇が動く。
「君達、色々あったんだね。ここで思うままにしてみればいい。僕が許可してあげる。」
私の何を見たのか?李生の何を見たのか?問いかけたいが、気が引けた。怜様の人なりを振り返って考えると、言葉がかなり少ない人なのだろう。しかし恐ろしく的を得ていた。
頬から手が離れて安心していると、今度は体を抱き寄せられた。
「君は君のしたいことをするんだよ、それがここにいる意味だ」
「ど、どこまで・・・」
言葉にならなかった。
この人はどこまでわかって言っているのか?
言いようの無かった怜様への恐れは、妖しい怜様への不信もあったが、それよりも私自身を見透かされる恐怖からだったとわかった。
どこともわからない世界で、なぜ居るのかもわからず、誰にも言えず。脳裏に浮かぶ情報と、思い出せる経験を頼りに動いてきた。例えようの無かった心細さは日々募っていた。
疑問に思っていた一つをあっさりと言い当てされ、怜様へ感じていた得体の知れない不気味さは、理解者への安堵に変わった。
視界が滲んだ。
私はずっと疲れていたのだと、やっと理解した。
私が落ち着くのを待って、改めて執務室を見回した。机に書簡も無ければ何も無かった、部屋付きの使用人すら居なかった。
怜様からは、私はここで本当の意味で自由に好きに動けばいい、と言われた。
これまでと違いすぎる、何をすればいいのか?
手持ち無沙汰で、これまでと別の意味で心細い。怜様は紅い三日月を口元に浮かべなら私を見ている。これまでなら何を見られているのかと疑心暗鬼になっていたが、現金な物で理解者だと思えた途端に、見守られているように感じた。
私が本当にしたかった事。
ここに来るまで私は公務員をしていた。安定を求めて勤めた訳じゃなく、青臭いほどの志があった。
私の実家は母子家庭で貧しい団地に住んでいた、近くには放置子や虐待をよく見かけた。一度ご飯をあげたくらいでは彼らの現状は変わらない。子供心に悲しくて、母親にどうすればいいのか、よく聞いた。
「どうしたらいいんだろうね?いっぱいお勉強して考えてみようね。」
真に受けた私は、困った人を助けられるようになりたくて、公務員を目指すようになった。母親も応援してくれた。ところが仕事に入ってみれば雑務に追われ、人を救うどころでは無かった。こんな仕事をしたかったのだろうか?他の仕事だったのか?政治家か?弁護士か?警察官か?悩んだのもつかの間、日々に埋もれていく。
気がつくと、母親の葬式をあげていた。そこから記憶が飛んでいる。益々仕事に逃げ込んだんだろう、身を削るような仕事のやり方ばかりしていた。
本当にしたかった事。
じわじわと思いが湧き上がる、全てが自由なら、私は何をしたいのか。
民省令で数々の竹簡を見た時から気になってた事があった。
近頃、帝都からは不自然に住民が減っている。人の集まる商館の主人に話を聞けば、城壁の外に野盗が出るらしい。治安の不安を感じて住まいを変える民がいるそうだ。
野盗か、討伐してしまえば終わる話ではあるが、少しの違和感を覚えて計画を練ることにした。
外へ行く準備を整え、わずかな護衛を連れて出る。ちょうど門扉の所で怜様が立っていた、相変わらず恐ろしいほどのタイミングの良さだ。紅い三日月の口元のまま
「あまり無茶をしないようにー」
すれ違いざまに一言だけ耳元で囁かれた、甘い花の香りが残った。
「はい、肝に命じます」
聞こえないほどの小声で返事をした。本当にこの人には、どこまでバレているのだろう。話が漏れていない事を念のため確認し、城壁の外に出た。
外は森が繁っていた。昼間でも薄暗い、3日ほど歩きまわり野宿をしていると野盗に襲われた。
商館で聞いたままの野盗達であった。
私が探していた野盗だ。片手を振り上げ叫ぶ
「連隊前へ!」
別動隊が野盗を囲むように立ち上がる。先に潜ませていた兵士たちに敵うはずもなく、わずかな小競り合いのあと、全ての野盗が捕らえられた。
早い話が私は囮だった。
縛りあげられた者達を見ると、商館での話に聞いた通りだ。
得物がおかしい、鍬や鋤なのだ。年齢も大人から子供までのバラバラの集まり、そして全員がやせ細っていた。
「お前達はどこから来たのだ。この帝都のそばで悪事を働く意味、知らぬとは言わせぬ。」
怒りも含め問いただす。
「私どもは農夫でございます。村が干上がり田畑も耕せず。食うに困り仕方なくー」
野盗達は啜り泣き始めた。
商館からの話でも、鋤や鍬で脅され、殺される事も無く荷物だけを奪われる。そう聞いていた。農夫だと言う彼らを調べると、嘘はなく、日照りで田畑が荒れ仕方なく農地を捨てたのだとわかった。彼らの処遇は一時的に地下牢での監禁とした。しかし問題は解決していない、まだ日照りの村では飢えた農夫達がいるという、それがいつ次の野盗となるか、また出てきてもおかしくない。
私は前々からしてみたかった事を書簡にまとめ、士大夫に進言する事にした。
数日後、士大夫へ出した進言について帝に謁見する事になった。怜様のおかげで宮廷への出入りは自由だが帝への謁見は初めての事だ。士大夫の時よりもさらに緊張しながら、謁見用の服装に着替えた。
厳かな空間の中、御簾ごしの謁見が始まった。
「我、問う。なぜ罪を犯した者達に温情を示すのか理由を述べよ。」
やはり来たか。私の進言した書簡には、野盗の彼らに城壁の外で道を整備し、それを償いとさせ、近くに田畑を作らせて定住させる。道路整備と田畑で雇用を作り出そうという案だ。つまる所は行政指導の国家プロジェクト。犯罪者への対応ではない。
「恐れながら申し上げます」
頭を下げたまま話し出す、緊張のあまり声が震えていた。
「我が国は帝のご威光が満ち、栄えております。しかし日照りの村があり、飢える民が増えています。罪人として捨てるのではなく、これから増える彼らのような者たちの生活の基盤を今一度作らせたいのです。安寧の今だからこそ、50年100年後を見据え、国作りをしていきたいのです。」
なんとか言い切ると長い沈黙が流れた。
チリリン
鈴が鳴って、人が動く気配と御簾が揺れた音がした。
「頭をあげよ」
顔をあげると真正面にどこか見覚えのある美丈夫が座っていた。金糸銀糸の豪華な服、玉をふんだんに使われた冠、帝だ。こんなにそばで見た事はない。
「ひっ」私の声が思わず漏れた。
「お前が李生だな、怜から話は聞いておる。」
ふっふっふっと笑い、立派なあご髭を片手で撫でつつ話し出す。
「お前の話は面白いな、前例に倣えば野盗は全て斬首よ。それをまだ民草として扱うか。
怜はな、お前が国を思い民を憂う気持ちは本物だと言っておったわ」
「勿体無きお言葉です」
反射的に頭を床に擦りつけた。怜様がそんな風におっしゃってくださってたとは。胸の奥がグッと熱くなる。
「李生、人払いはしてある、そう硬くなるな。」
砕けた調子で帝の言葉が続く。
「怜はな、先帝が妖術師に産ませた俺の兄よ。」
「え?」
私から間の抜けた声が出た。
目の前の帝は、若く見積もっても30代も後半くらいで、怜様は多く見積もっても30代にも見えない。兄?どれだけ若く見えているんだ?
不思議な驚きとともに、だからどことなく見覚えがあったのか。と小さな納得もあった。
「妖術師の母親は身分が低くてな、アレ自身も王族にもなっておらぬ。あの通り自由な男だが俺を気遣い内外ともに立ててくれておる。」
「アレも面妖でな、先の事がわかったり人の心も読めるらしい。それを使ってよく俺を支えてくれる。」
偶然と言うには多すぎる、思い当たる節が色々と蘇って来た。
「それゆえか、人に心を許さぬ。初めてなのだ。喜色をあらわにして、俺に語って聞かせる者が出てくるとは。」
帝の思慮深い色が見えた。
「よろしく頼むぞ」
帝は立ちあがり、私に笏を向けた。
「我、勅許す。進めよ。国と我に尽くせ。」
「御意」
背筋の伸びる想いがした。
二年が経った。
帝からの勅命を受けてから、土木に詳しい官吏を連れ、農夫達に城壁の外の道を整えさせた。道が出来てからは、少し離れた所を開墾している。森を通る薄暗い道はもう無く、すっかり明るく広くなった通りには行商も増えた。
日照りの村には官吏を送った。植林を行い、貯水池を作らせた。
忙しさの中で私は、邸に寝に帰る事もなかった。そのままだと勿体ないと思い、これもまたしたいと思っていた、良家の子弟へ学び舎として一部を解放した。たまに戻ると、邸の中で子供達の声がする。庭木には覚えのある甘い花の香りがしていた。
「あの花は?」
「梔子でございます」
あの方の香は梔子だったのか。紅い三日月が浮かぶ。今では邸でごくたまに怜様と二人で酒を飲む事がある。窓辺から差し込む二つの月に照らされた怜様は、冴え冴えとした光の中で例えようもなく美しかった。
「君は君のしたいことをするんだよ」怜様は教えてくださった。二年の間、私は思いつくまま働いてきた。
目の前の困っている人を助けたい。
私の中でそのため答えは出た。必要なのは希望と安心だ。それを育てる環境を作りたい。まだ芽が出たばかりだが、治安も安定してきた、戻ってくる住民もいる、帝都も村にも明るい笑顔が増えてる。私自身も自分が考えていた事や学んだ事を活かせている。充実した気持ちが深くあった。
時たまに浮かぶ疑問がある。
私の前にいた李生はどうしているのだろう?未だ応えてくれる事は無かった。
今日は祭りで、帝が民の前に立つそうだ。
帝都には大きな市も開かれて、城の前には帝を一目見ようと大勢の民衆が詰めかけていた。私も高官達とともに参賀の列に並ぶ。怜様は帝から少し離れた所に立っていた。
帝が姿を現わすと、大きな歓声が上がった。
いい国だ、素直にそう思えた。帝は国務にも精力的で、民からも人気がある。
私もこの国の一助になっているんだな、誇らしさと喜びが胸に満ちた。
気がつくと滝のような涙が流れていた、なぜ涙が出るのかわからない。
「大丈夫か?」
隣にいた士大夫に心配されて声をかけられた。
「どうぞお気遣いなく。わたくしは、今、満ち足りているのです。」
声を出したのは私だが、私ではない言葉が出てくる。李生だ!
涙が止まる事なく流れ続けて、私はその場に膝を付いた。
目を覚ますと執務室の隣の寝室だった。泣き過ぎて倒れたらしい、少し気恥ずかしい。甘い梔子の香りがする。
「もう起きて大丈夫なの?倒れたと聞いてね、見に来たよ」
怜様が横に座っていた。この方は優しい、嬉しさで胸が暖かくなった。
「色々とお世話をお掛けしました」
私ではない言葉が続く。
「もう怜様はお気づきでございましょうから、わたくしがお話してもよろしいでしょうか?」
「そうだね、僕にも聞かせて」
怜様は優しい声音だった。
「わたくしは李生、ここで下士官をしていた者です。わたくしの話を少しさせていただきます。」
李生の半生を聞く事になった。
李生は子供の時に戦乱に巻き込まれ、一人で遠い親戚を頼って今の国に辿り着いた。この国を見た時、あまりに平和で穏やかで、戦地の事がまるで夢のようだった。
この国を大切にしたい。強くそう思えた。
念願叶って下士官となって、国のために勤めた。
しかし、李生も私と同じように、日々の中で自分が磨り減っていていた。このままで良いのだろうか?この国の助けに少しでもなっているのだろうか?今のままでは足りない、この国をもっと大切にしたい。強く強く思った。
「わたくしは、手段がわからなかったのでございます」
李生が胸に手を当てる。
「今、わたくしの中にいる御仁のおかげで、国が栄えています。わたくしはそれが嬉しくて仕方ないのです。」
強い愛国心は李生の物だったのか。私はその手段を学んでいた、だから彼に呼ばれたのだろうか?少しづつ理解が深まって、絡まった紐が解けていくような感覚があった。
「実はね、二人の命数は尽きているんだよ。」
怜様が静かに語り出した。
怜様によれば、あちらの私は死んでしまっているらしい。死因は過労死だろうか「ま、運命だよね」怜様は軽く続ける。
「李生、君も死んでいるね」
李生が頷いた。私が驚いた。今、ここで動いてるのは誰だ??
「つまりね、二つの幽鬼がここにいるんだよね。二人の強い後悔が結びついて、今のようになったんだろうね」
「払われるのですか?」
李生が恐る恐る聞く
「あはっはっはっはっ」
怜様が声を上げて大笑いした。
「あり得ないよ!こんなに国に尽くしてくれる二人を払うなんて!」
「二人がこれからどうなるのか、実は僕にもわからないんだよ。本当に興味深いよね。」
怜様は少し落ち着くと、優しい顔になって問いかけた。
「払われると思ったから出てこなかったの?」
李生が頷く。
「僕がそんな事をしないの、今ならわかってもらえたかな?」
「はい、国に尽くせる幸せを、今は噛み締めています。」
李生の頬に涙が落ちる。
怜様は李生を抱き寄せた、頬に柔らかく口付け、涙をぬぐった。熱のこもった目で李生を見つめる。
「やっと二人共を口説けるね」
「は?」
李生が低い声を出した。
「君達は50年100年を見据えて国を作っていくんだ、僕は君達二人を長く見据えて、僕の物にするよ。」
紅い三日月が爽やかな声で宣言した。
「ねぇ、今、隠れてる君は、もうかなり僕のことが好きだよね?今度は君の名前を教えてくれるかな?」
(呼ばれてるよ)李生が私に呆れたような声で話しかけてきた。
恥ずかし過ぎる、表に出たくない。
李生から半ば無理やり引きずり出されるように、表に出された。
見た事もないくらい嬉しそうな怜様の顔が見える。
紅い三日月が近づいてきた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
元の李生は怜様に対して塩対応ですが、怜様は気にしていません。
きっとこれから李生の中の二人は、遠慮の無くなった怜様に振り回されると思います。