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金木犀の香り

作者: 夢咲 真夕



僕の運命は金木犀が運んでくれたんだ。何十年経っても忘れないよ。だって君はーーーーー






木々が色づき始める景色が流れていく。外は秋の風が吹いて気持ちがいいだろう。あぁ、そろそろ秋刀魚の美味しい季節だ。今年は食べられるだろうか。


そんな清々しい気分とは裏腹に、状況は最悪だ。大勢の人がひしめき合い、もみくちゃにされながら揺られる。1日の始まりからとんだ試練だと思う。


朝の通勤電車は都心へ向かうにつれて人口密度が増し、あまりの光景についつい現実逃避がしたくなったって仕方ない。


「やっと着いた。」


満員電車に耐えること数十分。目的の駅にやっと辿り着いた。以前住んでいた町より何倍も都会な様子のここは、今日から僕の勤務地となる。


転勤初日から遅刻するわけにはいかないと思い早めに着いた駅のホームは、まだ人もまばらでさっきまでと比べて開放感を感じる。


思わずぐっと伸びると、ふわっと懐かしい香りがした。


「金木犀?」


匂いの先を探してみると、時刻表の反対側のベンチに人影があった。女の人だと思うけど、なんか変だな。


「えっ!?だ、大丈夫ですか!?」


なんだかぐったりした様子だったので正面に回ってみると、顔面蒼白の女の人がベンチに座っていた。待て待て、顔色悪すぎるだろ。


「あ、だい、じょうぶで、す。」

「そんなわけないでしょ!えっと、そうだ駅長室!駅長室行きましょう!」


明らかに大丈夫じゃない様子だが、このまま付き添ってあげるわけにもいかない。こういう時は駅員さんに任せるべきだろ。


軽く腕を引いて立たせて、心の中で謝罪してから腰に手を回して支えながら駅長室に向かう。そこにいた駅員さんに軽く事情を説明していると、ふと時計が目に入った。


「あ、やばい。すみません、会社に遅れてしまうので失礼します!お姉さん、お大事に!」

「あの、お名前…は…」


少しだけ顔色の良くなった彼女に声をかけ、少し急ぎめで駅を出た。最後に何か言ってた気がするけど、聞きそびれてしまった。



◇◇◇◇◇



駅での出来事から数日後。ここに引っ越してきて初めての休みなので、少し近所を散策することにした。高卒で営業職について6年、初めての転勤で焦ったけどなんとかなりそうだな。


「あ、金木犀だ。そういえばあの子も金木犀の香りが…。」


大きな金木犀の木が目を引くお家の前で、つい足を止めて深呼吸をする。この香りが昔から好きなんだよなぁ。


「え…?」


目を開けて歩き出そうとした時、その家から出てきた女の人がこちらを凝視していた。やばい、変な人だと思われたかも。


「あ、すみませ「こないだの!駅の人ですよね!?」


軽く謝りながら通り過ぎようとした僕の腕を掴んで、目を輝かせながらこちらを見る女の人。え、駅のってもしかして?


「具合悪そうだったお姉さん?」

「そうです!あ、あの時はありがとうございました!ほんとに助かりました!」

「あ、いえ…。」

「私、明奈っていいます!木田明奈です!」


あの時とは比べものにならないぐらい元気だな。言われなければ同一人物だって思えないぐらい。


「お名前を聞かせてもらえませんか!」

「あ、あぁ。瀬戸那月です。」

「なつきさん!お名前まで太陽みたいですね!」

「いやむしろ月なんですけどね…。」


パワフルすぎてどうしたらいいか分からない。それに彼女の声がよく通るから、歩いてる人の注目を集めている気がする。


「あの、木田さん?お礼は大丈夫なんで、そろそろ手を…。」

「そうだお礼したいんだった!良かったらうちでお昼ご飯食べませんか?ね?ね?」

「いや、えーっと、その…。」

「なにか用事とかありましたか?」


相変わらず掴まれたままの腕をさらに引かれ、まるで子犬のような目で見てくる彼女を見ると、なんだか断ろうとしている僕の方が悪いことをしている気分だ。まぁ、お礼がしたいって言ってるんだし、いいか。


「分かりました。ご馳走になります。」

「ほんとですか!?どうぞどうぞ、すぐ用意しますね!」


とても嬉しそうにぴょんぴょん呼び跳ねる彼女は、やっぱりこないだの女の人と同一人物とは思えないなぁ。




お家に入ると、すぐにまた金木犀の香りがした。そういや金木犀って芳香剤にできるって昔ばあちゃんが言ってたっけ。だから彼女からは金木犀の香りがしたのか。


「こちらにどうぞ。ちょっと待っててくださいね。」


リビングには4人用のテーブルと椅子が真ん中にあり、北側にキッチンが、南側にはTVと大きな窓がある。4人家族かな?うちの実家と似てるなぁ。


「那月さん、嫌いなものとかあります?」

「特に無いですよ。」

「分かりました!」


キッチンからひょこっと顔を出した彼女は、僕の答えを聞くと満面の笑みでまた準備に取り掛かる。和食の匂いがしてきた。


「お待たせしました!」

「うわ、美味そう!」


運ばれてきたのは、白米に味噌汁に肉じゃがとハンバーグ。どれも定番だけど、高校を卒業してから1人暮らしだったから、こういう手作り料理は久しぶりだ。


「いただきます。」


並べられた料理を前に、どれから手をつけようか少し悩む。うーん、1番好きな肉じゃがにしよう。僕が肉じゃがに箸を伸ばしている間に、彼女はお茶を2つ持って僕の前に座った。


「美味い!」


最初に口に入れた肉じゃがは、もうなんというか絶品だった。続けてハンバーグにも箸を伸ばす。あぁもう、なんて美味しいんだろう。


しばらく夢中で食べていたが、ふと前を見ると僕が食べるのを眺めていた彼女と目が合った。いい歳してご飯に夢中とか恥ずかしいところを見られたな。


「あの、木田さんのご家族は?」

「今は姉と2人で住んでます。両親は私が高校の頃に亡くなったので。」


恥ずかしさを誤魔化すように話題を探してみたが、地雷だったかもしれない。そんな僕の気持ちを察したのか、木田さんはさっきまでとは違うふんわりした笑みを浮かべた。


「もう4年も前のことですよ。」

「え、てことはまだ20歳ぐらいですか?」

「ちょうど1週間前に20歳になりました。秋産まれだから明奈、姉は春産まれで美晴です。」


漢字は違うんですけどね、と笑う彼女は今日会ったばかりの時の明るさとは少し違う雰囲気で、よく表情の変わる子なんだなーとぼんやり思った。


「じゃあ学生さん?」

「いえ、今は基本的に家で家事をしてます。私、昔から重度の貧血持ちで、高校も通信制でなんとか卒業したんですよ。」

「あ、こないだも貧血だったのか。」

「はい。あの日は月に1度の病院だったんですけど、いつもより早い時間しか予約が取れなくて、満員電車にやられちゃいました。」


確かに、あの時間の電車は僕でも気分が悪くなるんじゃないかってぐらいだった。貧血持ちの彼女があんな中にいたら、具合が悪くなっても仕方ないかもしれない。


「姉が仕事で平日休めないんですけど、それはもう心配してて、むしろ宥めるのが大変だったんですよー。」


なんてことないように話すけど、あの日の彼女の顔色の悪さは相当だった。重度の貧血持ちだって分かってるお姉さんは心配でたまらないだろうなぁ。


「でもほんと、那月さんに声をかけてもらえて助かりました。あの日名前を聞きそびれたこと、すごく後悔してたんです。」

「会社に遅刻しそうになっちゃって、焦ってたからなぁ。」

「あの時間帯ですもんね。むしろそんな時に助けてくれるなんて優しいんですね。」

「いやいや、ほっとけないぐらい顔色悪かったよ?」

「え、なんか恥ずかしい。」


笑って話してたかと思えば、急に顔を赤くして下を向く彼女は、本当にコロコロと表情が変わる。なんだか見ていて飽きないな。


用意してもらった昼食を全て食べ終えると、彼女は手早く食器を片付け、再びお茶を手にしてリビングに戻ってきた。


金木犀の香りに包まれて、美味しいご飯を食べて、なんていい日なんだろう。


「木田さん、ありがとうございました。美味しかったです。」

「いえいえ、急にお誘いしてすみませんでした。どこかへ行かれる途中じゃなかったですか?」

「ただの散歩ですよ。あれ、そういえば木田さんはなんで外に?」

「え?あぁ!夜ご飯のお買い物に行こうとしてたんでした!」


今思い出したという顔をした彼女は、今度は悩み顔に変わる。そして少ししてから閃いたとばかりに立ち上がった。ほんとに面白いな。


「那月さん!よろしければ夕飯も食べていきませんか?姉にも紹介したいので!」

「え、それはさすがにご迷惑なんじゃ…。」

「全然!ただ、代わりにお買い物付き合っていただけませんか?」


あ、またお願いの顔をしている。外で見た子犬のような目が再び僕を捉えると、それを断る術は僕にはなかった。なんでかな、この目にはすごく弱い。


「分かりました。じゃあ行きましょうか?」

「はいっ。へへ、ありがとうございます!」


どうせ1人で散歩する予定しかなかったんだ。彼女に着いていった方がお姉さんも安心だろうし、なにより僕がすごく楽しい。彼女の嬉しそうな笑みにつられて、僕も気がついたら微笑んでいた。




「ただいまー。」

「再びお邪魔します。」


買い物を終え、再び彼女の家に戻る頃には外はすっかり暗くなっていた。少し肌寒くもなってきたし、いよいよ冬が近づいてくるって感じだ。


「おかえりー……え?」

「あ、お姉ちゃん!この人ね、こないだ言ってた太陽さん!でも名前は那月さん!」

「え?太陽?月?」

「明奈ちゃん、その説明じゃ伝わらないって。はじめまして、瀬戸那月です。以前、駅で明奈ちゃんが具合悪くなってたところに偶然居合わせまして。」


僕のことを太陽みたいな人だ、と思った彼女はお姉さんにも太陽さんと説明したと買い物の途中で言っていた。最初にもそんなようなこと言ってたからな。


にも関わらず僕の名前はまさかの那月で、太陽と月、正反対だーってしばらく彼女は笑っていたのも買い物の途中だ。


そんな説明しか聞いていないお姉さんが、いきなり太陽だ月だって言われても混乱するに違いない。そう思い、できるだけ簡潔にした挨拶だったが、お姉さんはすぐに状況を把握してくれた。


「あなたが太陽さんね!はじめまして、明奈の姉の美晴です。その節はお世話になりました。」

「あ、いえ、恥ずかしいので那月でお願いします。」

「そうね。那月さん、どうぞどうぞ!」


明るいところは姉妹でそっくりだ。でも少し抜けている明奈ちゃんと比べると、美晴さんは5歳上ということもありしっかりしている。あ、5歳上なら僕よりも1歳上なのか。


「那月さんとね、今日偶然会って…」


リビングにやってくると、先ほどと同じところに僕は座る。2人は夕飯の支度のためにキッチンへ向かっていった。今日の説明をしているんだろうな。


それにしても、美人な姉妹だ。


明奈ちゃんは20歳に見えない大人な顔だが、笑い顔は無邪気で愛らしい。それに対して美晴さんは大人の雰囲気漂う優しげな美人さんだ。


2人ともやはり金木犀の香りがして、その儚げな香りがまた美人度を上げている気がする。


そんなことを思っていたら、ふと疑問が湧いてきた。2人は彼氏はいないんだろうか。もしいるのであれば、この状況は良くないんじゃないだろうか。


今まで、恋愛には全く無頓着でおそらく恋などしたことがない僕にはあまりわからないが、それでも姉妹の2人暮らしの家に見ず知らずの男がいるのは良くないと思う。


あぁ、なんで今まで気づかなかったんだろう。


「那月さん、お待たせー。…え?どしたの?」


大きな土鍋を両手に持って戻ってきた明奈ちゃんは、それをガスコンロに乗せると僕の顔を見て心配した表情を浮かべた。え、そんな深刻な顔してるかな。


「なに?寂しかった?」

「いや違うから。ちょっと心配事。」

「なになに?あ!もしかして彼女さんいて申し訳ないとか!?」

「違う違う!その逆!」


あまりにも明奈ちゃんがどうしようって顔をするから、思わずそう言ってしまった。しまった、きっと美晴さんにも聞こえてる。


「大丈夫だよ那月くん。私たち相手いないから。」


案の定、後からやってきた美晴さんが美人な微笑みで答えてくれる。なんですかそのほんわか笑みは。


「もーびっくりした!那月さん、彼女いるのかと思った。」

「良かったね、明奈ー?」

「ちょ、お姉ちゃん!もう!」


恥ずかしさと安堵でいっぱいの僕の前でじゃれあう姉妹はなにをしていても美人姉妹だった。それにしてもなにが良かったんだろうか?


「じゃあ食べようか。」

「うん、いただきます!」

「いただきます。」


明奈ちゃんが作ってくれた夕飯は、キムチ鍋だ。寒くなってきて鍋が食べたいなーと呟いた僕のリクエストに答えてくれた。嬉しすぎる。


「うまっ。ほんと明奈ちゃん天才。」

「え、そんなことないよー。」

「いや、ある。毎日食べたい。」


ほんとに美味しくて、昼に続いて箸が止まらない。自分の言った言葉の意味なんか全く考えられていないぐらい、夢中で食べていた。


「那月くんって天然かしら。」

「太陽さんだもん。」

「はぁ、天然同士は大変よ。」

「え?どういうこと?」


小声で行われていた姉妹の会話は、全く耳に入ってこなかった。キムチ鍋まじで美味い。


会話もそこそこに夢中で食べ続けた結果、あっという間に完食してしまった。昼も夜もこんなに美味しい物をご馳走になって少し申し訳ない気もする。僕は明奈ちゃんを駅長室まで連れていっただけだからなぁ。


「那月くん、美味しかった?」

「それはもう絶品でした。ご馳走様でした。」

「へへ、良かった!片付けしてくるね。」

「あ、手伝うよ。」

「いーよー。那月さんは座ってて。」


明奈ちゃんはお昼と同様、手早く食器をまとめるとキッチンへ向かってしまった。せめて片付けぐらい手伝いたかったんだけど、あの手際の良さを見ているとむしろ邪魔になってしまうかもしれない。


上げかけた腰を下ろすと美晴さんが戻ってきた。家事は明奈ちゃんの仕事なのかな。


「那月くんは今日お休みだったの?」

「はい、僕営業なんで平日休みなんですよ。」

「なるほどね。私も平日休みだったら、あの子の病院とかついていけるんだけどなー。」

「いつも1人で行ってるんですか?」

「そうなの。タクシー使ってって言っても大丈夫って言い張るんだから、ほんと心配なのよね。」


確かに月に1回とはいえ1人で行かせるのは心配だろうな。明奈ちゃんは滅多に移動中に貧血にはならないって笑ってたけど、もしまたこないだのようなことがあったらと思うと僕も心配だ。


ほぼ初対面みたいなものだけど、今日1日彼女のそばにいて、彼女の素直さや明るさにすごく好感が持てた。それと同時に、危機感の無さにすごく心配にもなった。実際に貧血になったときを見ているから余計なのかもしれないな。


そんな風に思っていたからかもしれないが、自分でもびっくりする言葉が自然と溢れた。


「僕で良ければ病院付き添いますよ。ある程度休みには自由がきくんで。」

「「えっ!?」」


当然その言葉に美晴さんは驚くわけで。さらに後ろから声が聞こえて振り返ると、片付けを終えた明奈ちゃんも同じ顔をしていた。すごいそっくりだ。あ、違うそうじゃない。


「もちろん明奈ちゃんと美晴さんが嫌じゃなければだけどね。明奈ちゃんは危機感無さすぎだよ?」

「そんな、こと…。それに那月さんに迷惑かけちゃう…。」

「そ、そうよ。那月くんにお返しできるようなものも無いわよ?」

「そんなのいいですよ。家も近いし、これもなにかの縁かなと思うんです。」


自分でもなに言ってるんだろうと思うけど、言葉は止まらない。6年の営業経験が活きているのかも、なんてね。


「あ、じゃあお礼にまたご飯作ってあげたら?明奈は料理得意だもん!」

「それは嬉しいですね。また明奈ちゃんのご飯食べたいなと思ってました。」

「えっ、そんなっ、えぇ!?」

「決まりね。那月くん、ほんとにありがとう。」

「いえ、特に休みにすることもないので、むしろ美味しいご飯が食べられて嬉しいぐらいです。」


びっくりしすぎて言葉を失っている本人を置いて、僕と美晴さんはどんどん話を進めていった。


なんでかは分からないけど、この縁を大事にしたいと思ったんだ。それになにも趣味がない僕にとっては休みは暇で仕方ない時間だったりする。その時間に明奈ちゃんの喜怒哀楽を見られて、あのご飯をまた食べられるなんて、僕はすごく幸せ者かもしれない。


金木犀が運んでくれた出会いに感謝だな、と改めて思いながら僕は徒歩数分の自宅に帰った。



◇◇◇◇◇



駅での出会いから数ヶ月。最初は月1の病院へ一緒に電車で行き、帰りにスーパーに寄って買い物をして、僕の好きな料理中心の美味しいご飯を作ってもらっていた。


それがそのうちに病院以外にも一緒に出かけるようになった。


隣町までの買い物には車を出したり、美晴さんの誕生日の用意を一緒にしたり。お正月には3人で年越しそばを食べて初詣にも行ったりと、気がつけば仕事以外の日はほとんど明奈ちゃんと過ごすようになっていた。


「那月さん、今日なに食べたい?」

「んー、暖かくなってきたしもう鍋は違うよなー。」

「鍋好きだもんねー。じゃあすき焼きとかにする?それならあんまり季節関係無さそうじゃない?」

「なにそれ、いいね。そうしよっか。今日は僕が奮発するからいいお肉食べよう!」

「やったね!お姉ちゃんにも連絡しよーっと。」


カップルを通り越して家族のような会話だけど、明奈ちゃんとの関係は特に変わっていない。もちろん美晴さんとも。


会社の同僚にはなんで付き合ってないの、なんて聞かれるが、やっぱり僕には恋愛感情がいまいち分からなかったりする。もう少しこのままでもいいかな、なんて本気で思っていた。あの時までは。




「えっ!?明奈ちゃんが!?」

「命に別状はありませんが、◯◯病院へ搬送中ですので…」


それは急な会議が入ってしまい、どうしても付き添いができなかった日。明奈ちゃんの携帯から電話が入り、滅多に無いことで不安に思って会議を抜け出すと、それは救急隊員からの連絡だった。


履歴の1番上に僕がいたそうで、内容は明奈ちゃんが病院に向かう途中に倒れその際に頭を打ったため救急車で病院へ搬送しているということだった。


電話を切った後、会議はすぐ終わり、元々休日出勤だった僕は上司に事情を説明してすぐに病院へ向かった。


「明奈ちゃん!?大丈夫!?」

「え、那月さん?」


病院に着き、迷惑なほど勢いよく病室の扉を開ける。するといつもより少し顔色の悪い明奈ちゃんが、ベッドの上で座っていた。その脇には白衣を着た男の人が立っていたが、そんなことは御構い無しに明奈ちゃんに駆け寄ると、そのまま彼女を抱きしめた。


「よかった…。ほんとによかった。」

「え、あの、那月さん、苦しいよ。」


明奈ちゃんが振りほどこうと少しだけ動くけど、そんなのなんの抵抗にもならない。存在を確かめるように優しく、でもしっかりと抱きしめたまま、少しの間動けなかった。


怖かった。いなくなってしまうんじゃないかって。


電話で命に関わることじゃないって聞いていたし、実際に貧血を起こした状態は見たことあったから想像もついた。それでも、失ってしまうんじゃないかと不安でたまらなかった。


「こういうことか。」

「え?」


同僚に言われたことを思い出す。人を好きになるのはどういうことか。それは幸せで、恥ずかしくて、独り占めしたくて、失うのがなにより怖くて。気がつくと頭の中はその人でいっぱいになるんだって。


そういうもんか、とその時はぼんやりと思っていたけど、今確信した。


僕は明奈ちゃんが好きなんだ、心から。


自覚した瞬間、いろんな感情が湧き上がった。伝えたい、嫌われたくない、もっと触れたい、失うのが怖い。それと病院に着くまでの不安、顔を見た瞬間の安堵。


どの感情が勝ったのかは、次に溢れた言葉が表していた。


「明奈ちゃん。僕と結婚してほしい。」

「………え?」


あぁ、なんかいろいろすっ飛ばした気がする。営業スキルはどこいった。でもいいや、考えたって仕方ない。


抱きしめていた腕をゆっくり離し、明奈ちゃんと目を合わせる。明奈ちゃんの顔は真っ赤で、さっきより顔色良くなったな、なんて頭の片隅で思った。


「明奈ちゃんが好きだよ。ずっと隣にいてほしい。だから、僕と結婚してください。」


改めてゆっくり告げると、固まっていた明奈ちゃんは涙を零した。そして首を勢いよく縦に振り、泣きながら笑った。今までで1番可愛い顔だった。


「ちょ、そんな首振ったらダメだよ!ストップストップ!」


忘れちゃいけない、彼女は貧血で倒れたばかりだ。見惚れてる場合じゃないと急いで止めると、ふと周りを見渡して気づく。お医者さんがいつの間にかいない。


気の利くお医者さんだな。2人なら、いいか。


首を振るのは止まっても涙は止まらない様子の明奈ちゃんの頭に手を回し、そのままそっと口づけをした。


離れた後の惚けた顔も、最高に可愛かった。



◇◇◇◇◇



「パパ!今日はぼくがいっしょに行く!」

「いやいや、柊弥は学校でしょ。ほら、早くしないと遅刻するよ。」

「パパだけずるい!ぼくもママのヒーローする!」


金木犀の香りが漂うリビングで、今年から小学生になった柊弥と毎月恒例の言い合いをする。


誰に似たのかとても心配性の彼は、学校より病院の付き添いが大事らしい。


「じゃあ柊弥、帰ってきたらママお買い物行くからその時ヒーローしてくれる?」

「ママ!分かった!じゃあがっこう行ってくるね!」


明奈の言葉に嬉しそうに答えると、まだ大きいランドセルを背負って玄関へ駆けていく。


「ママ、パパ、いってきますー!」

「「いってらっしゃい。」」


玄関の閉まる音がすると、リビングには静寂が戻る。そしてふと明奈を見ると、目が合いそのまま2人で笑う。


「僕らも行こうか。」

「うん。」


2人で玄関の外に出ると今年も綺麗に色づいた金木犀の香りを風が運んでくれる。それを眺めながら、僕は幸せだ、と噛みしめ歩き出した。






ーーーーーだって君は、僕の「初恋」なんだよ。



「那月さんって金木犀見るとにやけるよね。なんで?」

「え、にやけてる!?」

「うん。ふにゃーって。」

(君のこと考えてる、なんて恥ずかしいから内緒。)

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