襲撃(1)――嵐の前――
海面を滑るように飛行する海鳥の声が、澄んだ蒼穹に間延びして響いていた。
「ふふっ!」
船縁の手摺りから海鳥達のつぶらな瞳を眺め、ジョゼットはその愛らしさにくすりと微笑んだ。潮風になびく金の長髪を柔らかく押さえる姿に、通りすがりの若い船員達が見蕩れて仕事の手を止め、ベテランに叱られては慌てて手を動かすを繰り返している。
正午過ぎに出港したアルセイユは、日が傾き始めるかという現在、ザインから六十キロ離れた沖を走っている。すでにザインの都市影は見えず、どこまでも真っ平らに広がる大海原だけがジョゼットの視界を占めている。
底が見通せない広大な水面に不気味さを覚えるのと同時に、胸中の大半を満たしているのは海と同じくらい莫大な好奇心である。
「ナイ、見て! 魚が宙を飛んでるわ」
「そうですね」
ジョゼットの隣で感じの良い同意をするナイ。だが、ジョゼットはむっとした表情を作る。
「ナイ。貴方さっきからそればっかりですわね。つまらないわ」
「申し訳ございません。僕はお嬢様ほど、あれを物珍しいとは思わないので」
澄ました顔をしたナイが折り目正しく頭を下げる。それを見たジョゼットはフンと鼻を鳴らしながら手摺りに頬杖をつく。
「こどもっぽいって言いたいのかしら? どうせ私は、世間知らずの箱入りですわよ」
そう言って拗ねたかと思うと、彼女は何かに気づいた様子で手摺りから半身を乗り出す。
「お嬢様!?」
ナイは唐突な行動に慌てていたが、ジョゼットは無視して言う。
「ミミさんですわ」
海鳥の声と波の音に混じって、ヒィィィンという甲高い音が聞こえてきた。
すると後方、船の影から銀のシルエットが現れる。目を奪われるほどに蒼い美髪を尾と引いて、銀の装甲を纏ったミミが海原を駆けて抜けて行く。少女の美しさもそうだが、何より弾けるように楽しそうな表情に、ジョゼットは己が魅了されているのをどこか冷静に自覚した。
ミミがジョゼット達の正面の位置に来ると、彼女を挟んだ向こう側の海面が盛り上がった。
海面を引き裂いて黒い塊が顔を出す。瞼のない大きな黒い眼球と二十メートル程の鋭い突起物を鼻先に持つ、体長だけで六十メートルはあろうかという海獣である。
「――――」
遠目にミミが何かを叫んでいるのが分かった。海獣はじっとミミを見つめていたが、その内尾を振り上げるようにして海中に潜ってしまう。
「あんなに大きな海獣があっさり……。凄い……」
「確かに。人の業とは思えませんね。それにあのウェーブライダーの変形機能。現在のどの機体にも見られない機能です」
今度ばかりはナイも感心する。けれど、続く言葉は彼らしい合理的な物だった。
「彼女が居れば、我々の目的はスムーズに達成出来るでしょう」
「……そう、ですわね」
ジョゼットは歯切れ悪く頷いた。それは彼女の中の迷いが返答を鈍らせた結果だ。ナイはそれに気づきつつもあえて指摘しなかった。そうすることに意味がないからである。
その時、二人の姿に気づいたミミが満面の笑顔で手を振ってくる。
「ねえ、ナイ。私は酷いことをしていますわね」
手を振り返したジョゼットは、物憂げな表情を浮かべる。
少女の従者はしばらく言葉を探して黙った。だが、慰めを求めていたわけではないので、彼が答えを出す前にジョゼットは言った。
「お金をチラつかせて、何も知らせずに危険な場所へ連れて行くだなんて……。まるで物語の中の悪者みたい。――きっと、彼等のような酷い末路を辿るのでしょうね」
ミミが船首側へ去って行くのを見送って、ジョゼットは大きく息を吐いて呟く。
「いえ、ごめんなさい。今更こんなことを言うなんてどうかしてますわね、私……」
ジョゼットは手摺りの上にもたせ掛けた両腕に顔を伏せる。粘つく泥のような自己嫌悪がジョゼットを苛んでいた。
「……お嬢様……」
ジョゼットが視線だけを向けると、ナイは真剣な表情で半歩前に出て言った。
「貴女の罪は僕の罪。それはこの先ずっと変わりません。……一人でお悩みになるのは止めてください。僕も一緒に背負います」
幼い頃から常に付き従い、己を気遣ってくれる従者の言葉が染み込み、ジョゼットは幾分元気を取り戻した面持ちで微笑する。
「ありがとう、ナイ」
そう言って、ジョゼットは再び海に目を向ける。
少し前まで楽園に映った果てしない海原は、今や自分の前に立ちはだかる困難の大きさを表しているように思え、ジョゼットは強ばった表情で拳を握るのだった。
◇
アルセイユにおけるレインの仕事は操舵手だ。
操舵――つまり船の舵取りは、一つの失敗が即大事故を招きかねない重大な役目である。そのため十分な経験と信望がなければならず、実際前任の操舵手はゴール同様アルセイユの古株の男だった。
その彼は二ヶ月ほど前に、年齢を理由に引退して船を降りてしまった。そこで雑用の傍ら前任者に仕込まれていたレインが代わりをすることとなったのだ。元々素質があったのか、操船技術はなかなかのものだと周囲からは期待されている。
「――レイン。ミミちゃんから連絡入った。この先に新しい海獣の縄張りが出来てたらしいから迂回するってよ。進路を右に四十度だ」
「へいへい」
レインは慣れた手つきで舵輪を回した。計器でアルセイユが舳先を右に向けたのを確認して一息する。レインだけではなく、ブリッジにいた全員が安堵の吐息を零した。
「危なかったですね。こんな近い所まで縄張りが出来てるなんて。ミミ様々かな」
「海図に書き入れとけ。あとで他の連中にも教えてやらないと……」
緊張が解けたブリッジ内に再び雑談が飛び交い始める。それらに何気なく耳を傾けていたレインは、ちらりとゴールの方を見やる。
彼は航海士と顔を突き合わせて航海日程を練っていた。
本来航海日程は十分な時間をかけて練るものだが、今回は急な依頼だったために道すがら組み立てるしかなかったのだ。
この海でそれが許されている理由は、ミミの先導があるということと、前もって行き先の海図を手に入れることが出来ていたためである。
ちなみに、海図の提供者はジョゼット達である。レインが背負っていた円筒の中身だ。
リップバーン家に受け継がれてきた物だとかで、紙は古い物で黄ばみや皺が刻まれているが、紙魚にやられた様子はなく、細かな記号や緯度と経度も正確に読み取れる。
「……船長。その海図、本当にアテになると思うか?」
けれど、レインの顔に浮かぶのは疑念の色である。
その海図が未踏破海域の一部を記した物だったからだ。
未踏破海域は踏み込むことは出来ても帰って来た者は居ない。故に、未踏破海域を記した海図を差し出されても、芸の細かい全くのデタラメだと思うのが普通である。
「ミミ嬢ちゃんのお墨付きだ。一応信頼してもいいだろう」
ゴールが言う通り、海図が信じるに足ると判断された理由はミミであった。
誰もが半信半疑であった中、海図を一目見たミミが正確な物であると断じたのだ。
彼女曰く、
『海図は海の似顔絵みたいなものだもん。正確に引かれた海図を見てるとね、潮の香りや波の動き、海獣が泳ぐ姿とかがイメージ出来ちゃうの。だから、この海図は間違いなく正確だよ』
そんなミミの言を聞いた時は驚いたが、海に近しいウンディーネだからこその感覚なのだろうと皆納得したものだ。
「しかし、こんな正確な海図をどうやって手に入れたんでしょうね? 未踏破海域に足を踏み入れて帰って来たなんて話は聞いたことがない」
航海士の言葉にゴールは「さあな」と答える。
「まあ、こんな物を持ってるんだ。あの嬢ちゃん達が只物じゃないのは確かだが……詮索するのは俺等の仕事じゃない」
ゴールが海図から目を離さずに言い、レインは次に発する言葉を躊躇って少しだけ黙った。
「……俺はやっぱり、あいつ等のこと信用出来ない。ミミの言う通り悪い奴等じゃないのかもしれないけど、ろくな説明もしないで言われたことだけやれとか、普通の仕事じゃねえぞ」
「ああ。そうだな」
ゴールが頷く。彼までが認めたことで、周囲で雑談する声が心持ち潜められた気がした。
ゴールもその気配を感じ取ったのか、顔を上げて周りの面子の顔を一つ一つ見る。
「この海図があるとは言え、未踏破海域に行くのは自殺行為だ。だが、もし誰も手を貸さなくてもあいつ等は行っただろうよ。あの嬢ちゃんはそういう覚悟の決まったいい目をしてた。あんな顔で頼み込まれて断っちゃ、男が廃るってもんだ」
自分達の長の言葉に、部下達は誇らしげな表情になる。唯一納得がいかない様子のレインが言葉を探していると、
「というか、レインは愛しのミミが心配なんだよなー?」
「ぶふっ!?」
誰かの冷やかしにレインは思いっきり吹き出した。
「ああ! そっかそっか。そういうことか」
「なるほどな。いつもはどんな仕事でも文句言わないのに珍しいと思ってたんだよ」
「好きな子が騙されて傷つくかもと思ったら、そりゃ居ても立ってもおれんわな」
レインが体裁を整えるまでに、大人達が勝手に納得して頷く。
「ばっ!? バカ野郎、違うわ!! 俺とミミは単なる幼馴染みで、そういうのじゃないんだよ! 俺はただ今後の心配をだなっ!」
矢継ぎ早に打ち出した言い訳は、大人達を面白がらせるだけで一向に効果がない。
アルセイユにおけるレインの仕事は操舵手――兼いじられ役なのだった。
◇
闇を掻き分けて、漆黒の巨体は音も無く進んでいた。
全長五十メートルの楕円形のシルエット。尾びれを動かすことなく水中を直進し、呼吸を行う鰓や鼻孔もない。
その正体は人工物――潜水艦である。高性能な精密機械を数多く積んだその艦は、行き交う海獣に細心の注意を払いながら、ある目的を持って行動していた。
「艦長!」
報告は不意のことだった。レーダーを見ていた部下の一人が声を張り上げたのだった。
「船を発見しました。すぐ先の海上を二十ノットで北上しています!」
「浮上しろ。確認するんだ」
艦長の支持に従い、潜水艦は海面擦れ擦れまで浮上する。
「……見つけました。白い貨物船――間違いありません!」
双眼鏡を覗いた副艦長が言うと、艦長はパンと膝を叩いて勝ち誇るように笑った。
「よし。司令官と各艦に通信を送れ! 包囲が完了次第作戦開始だ。決して逃がすな」
部下達が忙しく持ち場で働く中、艦長は双眼鏡を覗く。
冷たい月明かりの下。レンズの向こうでは空豆のような大きさの白い船が、狩人に狙われていることを知らない水鳥の如く悠然と航海を続けていた。
◇
ミミは薄手の白いワンピースにショートパンツ姿で、野ざらしの甲板に寝転がっていた。
鉄で出来ているので硬く、ゴツゴツしていて寝心地は良くない。だが、ミミはそんなことが気にならないほど心地よい気分に浸っていた。
眼前に、あまりにも見事な星空が広がっていたからだ。
ミミが星を眺めるようになったのは母の影響だ。まだ自分で海に出られないくらい小さな頃、ミミが眠れない夜は母に連れ出され、星座にまつわる神話を聞かされたものである。幼過ぎて、話の内容はほとんど覚えてないが、唯一心に残っている言葉がある。
――つまり星を眺めるってことは、神話を目の当たりにしてるのと同じことなのよ
母はそう言って笑っていた。ちなみに、その解釈はミミの父の受け売りだと聞いている。当時の母の顔を思い出すと、父に惹かれたきっかけはそれだったのかもしれない。
そんなことを取り止めとなく考えていたミミは、不意に起き上がると頭を振った。
(あーもう、止め止めっ! ちょっと走ってすっきりしないと)
立ち上がって愛機を繋いだ甲板後部へ踵を返した時、ミミは船縁に佇む人影を見つける。
ネグリジェの上からカーディガンを羽織り、首に掛けたままのペンダントを掌に乗せ、月明かりに照らしながら眺めているその人物は――
「ジョゼットさん? どうしたのこんな夜中に。何か見えるの?」
僅かに驚きながらミミが訊くと、ジョゼットが肩を跳ねさせて振り返る。
「ミミさん!? い、いえ、何か見に来たわけではありませんの。寝付けないので、少し夜風に当たろうかと。それと、私のことはジョゼットで結構ですわ。年も変わらないみたいですし」
ジョゼットはペンダントをネグリジェの胸元に戻しながら言った。掌で握るようにしていたのでデザインは分からない。だが、隠そうとする意図はミミにも読めた。
「じゃあ、私もミミでいいよ」
ミミは答えながらジョゼットを眺めて、内心で感嘆の吐息を漏らす。。
(綺麗だなあ。こんなに綺麗な人、お母さんくらいしか知らないや)
そんなミミの内心を知らぬまま、ジョゼットが静々と近寄って来る。
「ミミはここで何を?」
「私も眠れなくて。だから星を見てたの」
「星、ですか?」
きょとんとした後、ジョゼットはふっと頭上を見上げる。
「……わあ……!」
彼女の唇から小さな歓声が漏れる。
「海の上だとこんなに綺麗に見えるんですのね。気づきませんでしたわ……」
「うん。すごいよね」
自分の宝物を褒められたようで、ミミは少し得意になってしまう。
「あのね、あの星と…………ええと…………」
ついでとばかりに星座の説明をしようとしたが、あまりにうろ覚えだったため、説明出来ずに固まるミミ。すると、ジョゼットが細くてしなやかな指先で天を指し、星を指の動きで繋いで言った。
「あれとあれとあれを結ぶとゼオール座。神話の中で最も多くの怪物を倒した大英雄ですわね」
事も無げな口調に驚いてミミは訊く。
「ジョゼットって星に詳しいんだ?」
「昔から本が好きで、勉学に力を入れる家の方針もあって覚えましたの。ほら、あっちで三角形に並んでいるのは、夏の星座の代表格ですのよ? 仲が良すぎて引き裂かれた恋人と、橋渡しの鳥を表したものだとか」
「へ~。他には?」
「そうですわね……」
それからしばし、並んで座ったジョゼットとミミは星の観察に興じていた。
ジョゼットが滑らかに語る星々の物語を聞く内、ミミは母と話しているような気がしていた。ジョゼットの大人びた雰囲気のためだろう。御陰でミミの寂しさは少し和らいでいた。
「――改めて、お礼を言わせてくださいな」
楽しげに星座の由来などを語っていたジョゼットが、唐突に声量を落として言った。ミミがジョゼットを見やると、彼女は浅く両膝を抱えて見返してきていた。
「今回の航海が成ったのは貴女のお陰ですから。感謝していますわ」
そんなことを言うジョゼットに、ミミは恐縮気味に胸の前で両手を振った。
「気にしないで。実は私も未踏破海域には用があったから」
ミミの答えを聞いたジョゼットが疑問符を浮かべる。
「用事、ですの?」
ミミはこくりと頷いて夜空を見上げる。
「――お母さんをね、捜しに行こうと思ってたの」
それを聞いたジョゼットが見せたのは怪訝と言わんばかりの顔だった。
「お母さん……? けれど、ウンディーネは女性ばかりの種族なのでしょう? なのに、貴女のような純粋なウンディーネを産めるわけが……」
そこまで言ってようやくジョゼットは気づく。その気づきを裏付けるようにミミは言う。
「実は私、ハーフなの。人間とウンディーネの間に出来た子供なんだ」
アクエリアにおいて信仰の対象にされるウンディーネだが、実のところ、彼女達は人間と変わらない。人と同じ物を食べ、人と同じように眠り、人と同じように――恋をするのだ。
「水を操れない以外は純粋なウンディーネと違わないから、よく間違われるんだけどね」
ミミの正体を知って目を瞬かせるジョゼット。ミミは浅く眉尻を下げた笑みを浮かべる。
「もしかして、ガッカリさせちゃった?」
世の中には、ウンディーネが人と交わることを穢れと捉える者達が多くいる。彼等にとってミミのような存在は許しがたい存在なのだ。。
しかし、ジョゼットは静かに首を振った。
「いいえ、違うんです。ただ少し、引っ掛かったことがあるだけで……」
「引っ掛かったこと?」
ミミは小首を傾げる。ジョゼットはしばし逡巡の気配を見せてから言う。
「いえ、話の腰を折ってしまってすみませんでした。それで、捜しに行くということは……」
「うん。半年くらい前から連絡が取れなくなっててね。お父さんは私が小さい頃に死んじゃったから、私しか探してあげられないの」
そこまで言ってミミは、あっと声を上げてジョゼットにフォローを入れる。
「もちろんお仕事が優先だよ? ジョゼット達のことはちゃんとするから安心してね」
すると、ジョゼットは硬かった表情から力を抜いた。
「納得しましたわ。正直言うと、何故貴女が私達の依頼を引き受けてくれる気になったのか気になっていましたの。そういう事情があったから引き受けてくださったんですのね」
ジョゼットの問いの真意を知り、ミミもまた納得して頷く。それからこう付け加える。
「それだけで今回の仕事を引き受けたわけじゃないよ。一番の理由は、ジョゼットの必死さが伝わったから」
ミミの返答を聞いたジョゼットが僅かに目を見開いた。ミミは言葉を選んで続ける。
「どういう事情があって、どうして未踏破海域に行きたいのかは知らないけど、ジョゼットが何か大きな物を抱えて頑張ってるのだけは分かったもの。そういう人に助けを求められたら、ちゃんと手を貸してあげなさいってお母さんも言ってたし。だから、かな」
その答えを聞いたジョゼットは、とても複雑な心境を現したような顔をした後、立つ瀬がなさそうに膝に額をくっつける。。
「……ごめんなさい。人の善意を疑うだなんて、恥ずかしいことをしましたわね」
「大丈夫だよ。気にしてないから」
自己嫌悪に陥るジョゼットをミミが慰めると、ジョゼットは申し訳なさそうに顔を上げた。
「ミミは本当に良い人ですわね。……さっきも言いましたが、私、貴女には大変感謝してますの。だから、お支払いする分とは別で何かお礼が出来れば良いのですが……」
律儀だなあ、と頬を掻いたミミはとりあえず考えてみる。一度、二度、三度と首を傾げて悩んだ末――
「……えっと、じゃあ、一つだけ」
ミミの遠慮気味な様子を見たジョゼットは目で続きを促す。
「これは報酬って言うよりお願いというか、あのね、良かったらなんだけど……」
ミミは赤面しつつ深呼吸で気持ちを落ち着ける。そして言った。
「――私と友達になってくれないかな?」
「え?」
ジョゼットは目をパチクリさせた。よほど予想外だったのか、呆気に取られた彼女の反応にミミはますます赤くなりながらも、羞恥心に耐えて懸命に口を開く。
「わ、私、同い年の女の子に友達居なくて……。ほら、私達くらいの女の子って港より街に居るし、私も仕事でザインに居ないことが多いから。それに私の見た目がウンディーネに近いでしょう? そのせいで遠慮されやすいみたいなの」
いまいちウンディーネのことを理解していない子供は別として、一見友好的な大人達には一線引かれた印象を受けることがあるのだ。そういう物を感じると、ミミは正直寂しくなる。
ジョゼットにこんなことを言ったのは、彼女がミミを特別に見ないでくれると何となく思ったからだ。
「だからね……その……」
ミミは話を続けようとする。しかし、ジョゼットは静かにミミから身を離した。そして言う。
「……ごめんなさい。それは出来ませんわ」
ミミは言いかけた言葉を飲み込んだ。はっきりと拒絶された衝撃で不自然な間を空けてしまった後、ミミは取り繕うべく曖昧に笑う。
「あ、あはは……そうだよね。急に言われても困るよねぇ……」
言葉震えて尻すぼみになってしまうがどうしようもない。泣きそうなのを必死に堪えているのだ。奥歯を食い縛ってぷるぷると肩を震わせるミミに気づいてジョゼットが言い直す。
「ああ、違いますのよ? お友達になろうって言ってくれたのは、とても嬉しいんです。私も故郷では、同い年の女性に心許せる相手は居ませんでしたから」
ジョゼットは座り直して視線を下に落とす。
「ただ、私には貴女とそんな関係になる資格がないんです。私は貴女達にいろんなことを隠していますもの。そんな不誠実な人間が、貴女みたいに素敵な方と友達だなんて、口が裂けても言えませんわ。――今は理解してもらえないかもしれませんが、これから旅を続けていけば、お互いにこの選択を良かったと思う時が来ます。きっと」
そんなジョゼットの表情に何も言えず、ミミは悲しげに彼女を見つめるのだった。
◇
気まずい沈黙に包まれる少女達の姿を物陰から見ている者達が居た。
「お嬢様……」
ナイは痛ましげに独りごちた。会話は断片的に聞こえていた。ジョゼットを一番傍で見てきた彼には、気丈に振舞う彼女の苦しい心境が手に取るように分かっていた。しかし、決して弱みを見せない彼女の意志を尊重して踏み込むことが出来ないでいたのだ。
(ミミさんには態度が違うから期待したんだけど、やっぱりまだ駄目だったか)
人任せな己の不甲斐なさを恥じるが、今のナイにはなりゆきを見守るしかなかった。
「覗きってのはどうかと思うぞ?」
ナイと同じく少女達を窺うレインが呆れ顔で言うと、ナイは不愉快そうに反論する。
「僕は主人の警護もあるから常に傍についているだけだ。君と一緒にしないでくれないか?」
「俺はお前が妙な真似しないか見張ってるだけだ」
フンと鼻を鳴らすレインは、ミミ達を眺めながら膝の上で頬杖を突いた。
「……なあ、お前……ナイっつったか? お前等の事情って一体何なんだよ?」
「話せないと言ったはずですが?」
「ケッ、そうかよ。まあ、テメエ等がどんな悪事を企んでても俺にはカンケーないか」
唇をへの字に曲げて告げるレインは、ただし、とナイを見て付け加える。
「お前等の事情が仲間を傷つけるなら、俺は絶対許さねえ。そのことだけ覚えとけ」
ナイはそこで初めてレインを見た。しかしすぐに、彼は溜め息を吐いてレインから目を離す。
「(どちらかと言えば世界を救うおうとしているんだけど)」
「あん? 文句があんならもっとデカイ声で言えや」
喧嘩腰で絡むレインを煩わしく思ったのか、ナイはふぅと溜め息を漏らす。
「ミミさんと釣り合いたいのなら、もう少し言動を柔らかくしたらどうだい?」
レインは目を剥いた。餌を求める魚の如く口をぱくつかせるレインにナイは呆れる。
「動揺し過ぎじゃないか?」
「う、うるせえ! お前が変なこと言うから……ていうか、何で知ってんだコラ!?」
「君は分かりやす過ぎるんだよレイン君。知らないのはミミさん本人だけなんじゃないか?」
「君付けすんなぶっ飛ばすぞ――んぐっ!?」
「声が大きい。気づかれたらどうするんだ?」
レインの口を塞いで言ったナイだが、ジョゼットとミミの間を流れる空気を壊すため、そろそろ出て行った方が良いのかもしれないと考え直す。
(仕方ない。行くか)
ナイがそう決めた直後だった。
頭上を鋭い風切り音が掠めたかと思うと、船の真横で突如として水柱が上がったのだ。
「うわっ!?」
「おお!?」
船が揺れて傾き、レインとナイはなすすべなく船縁に追いやられる。危うく手摺りから海へ放り出されそうになるのを堪えた彼等に、舞い上げられていた海水が雨粒のように降り注ぐ。
だが、二人は何が起きたのかを理解するより先に、近くで上がった少女達の悲鳴に反応する。
「ミミ!」
「お嬢様!」
レインとナイは不安定に揺れる足場を手近な物に捕まりながら進み出した。
◇
不意を突いた大きな揺れに、少女達は縺れるようにして甲板を転がった。
「――あいたた……」
ミミはぶつけた後頭部をさすりつつ身を起こす。
「ジョゼット、大丈夫?」
「え……ええ、おかげさまで」
ジョゼットはミミをクッションにした形だったため無傷だ。
「もう、一体何ですの?」
ジョゼットが周囲を見回す。ミミの脳裏に一瞬浮かんだのは、座礁か海獣との接触だった。しかし、それでは先ほど視界の端に捉えた水柱に説明がつかない。
「ミミ!」
「お嬢様!」
その時、レインとナイが駆けて来るのが見えた。
「二人とも! 今のは――」
ミミが問いを放ろうとした時、レインとナイの背後の闇でいくつもの閃光が瞬く。一瞬の間を空けて、ミミの聴覚が小さな風切り音を捉える。
「伏せて!」
ミミは咄嗟にジョゼットへと覆い被さる。ナイとレインが身を投げ出すようにして甲板に伏せた時、無数の風切り音が彼等の頭上を全方向へ飛び交う。
アルセイユの周囲で何本もの水柱が立ち上がり、乱れた海面に煽られた船体が再び激しく揺れる。飛び散った海水が雨のように降り注ぐ中、身を起こしたミミは表情を強張らせて言う。
「砲撃!? もう囲まれてる」
「海賊ですか?」
顔を上げたナイが殺気立った表情で言うのをレインが否定する。
「海賊ならまず停船を呼びかける。奴等の目的は殺しじゃなく、生きるための略奪だからな」
それを聞いたナイが感心したように言う。
「詳しいね」
「……このくらい、船乗りなら誰でも知ってることだ」
レインはそっぽを向いて告げた。彼の意見を思案したジョゼットがアルセイユの艦橋を見る。
「ゴール船長が要求を拒否したのではありませんの?」
ジョゼットの発言に、ミミは首を横に振った。。
「ううん。こういう時のために引き渡す物は用意してあるもん。ウンディーネ(わたし)も居るし、変に抵抗しなければ海賊さんも危害は加えてこないよ」
レインが言ったように、海賊の目的は生きる糧を得ることだ。虐殺を繰り返せば獲物はこの航路を通らなくなるし、近くの都市から討伐隊が出てくる場合もある。そうなれば困るのは海賊達の方なのだ。
「それに、この辺の海賊にしちゃあ船の数が多いしデカ過ぎる。あんなの持ってるのは未踏破海域の海賊か、どっかの都市くらいなもんだぞ」
レインがミミ側の遠くの夜闇を見据えて告げる。ミミもレインの向こうに船影を発見していた。夜闇に紛れて分かりづらいが、うっすらと見えるのは大型のシルエットだった。
「……まさか……そんな……」
ミミは震える小声を聞いた。見ればジョゼットが口元を手で覆って何かを呟いている。
「……ウソ……そんな……早過ぎる……!」
「ジョゼット?」
ミミは怪訝に思って尋ねた。しかし、答えが来る前に再び砲弾が飛んで来る。着弾点が近く、船が大きく傾いだ。ミミとジョゼットは落下防止の手摺りまで滑りそうになるが、寸前でそれぞれレインとナイに抱き寄せられる。
「とにかく船内に入ろう。ここにこれ以上居るのは危険です!」
ナイの提案に異を唱える者は居なかった。それに対し、レインが付け加える。
「ならブリッジだ。あそこなら状況が分かるかもしれねえ!」
「私はジギーの所に行くわ。何かあったらすぐ対処出来るように!」
ミミが言うのに皆頷き、四人は行動を開始した。