ウンディーネ(1)
水平線の彼方に太陽が半分顔を出し、アクエリアに朝が訪れようとしていた。
朝日によって青さを取り戻した海面の上では、陽光がさざ波に反射して踊るように煌き、その様はまるで光の野である。
――――ヒィィィィン
穏やかな波の音だけが存在する広大な海原に、そんな笛の音に似た人工的な高音が響き渡る。
音源は、海面を割って進む物体だった。鏃を連想させる流麗で鋭いフォルム。一人分の座席が設けられた機体は単車に似ているが、前輪部分がタイヤではなく鋭角な船底になっており、本来なら後部車輪にあたる部分には推進器が付いていて、蒼い光を吐いて速度を作っている。操縦桿は左右から突き出したレバーを前後に動かすタイプ。速度計や燃料計の他に、レーダーやソナーといった物まで積んでおり、水上バイクと言うよりは一種の船舶に近い造りである。
それは《ウェーブライダー》と呼ばれる乗り物だった。
元々は遺跡に眠っていたオーバーテクノロジーを長年の研究で量産に成功し、最近民間にも卸されるようになった水上移動機械である。大型船舶と違って目立たないため危険も少なく、サイズに反して馬力もあるため、都市間の物資のやり取りを初めとする様々な用途に利用されている。
ウェーブライダーに跨るのは、フリーの配達業を営むミミ・シュトランゼという少女だった。
身に纏うのは野暮ったい防水性のジャケットにホットパンツ。遮光ゴーグルとキャスケット帽で顔の上半分を覆っているが、頬から顎先に流れる細い輪郭は造作の精緻さを感じさせる。
「ふん、ふん、ふふ~ん♪」
帰途に就いた所である彼女は、朝の冷たい潮風に堪えた様子もなく軽快な鼻歌を奏でる。それはかなり上手で、風切り音に紛れるのが勿体無いくらいだ。
「ふんふ~ん……ん?」
ふと、彼女の鼻歌が途切れる。駆動音に混じってピーピーという電子音が聞こえたからだ。
音を発しているのは、ミミが乗るウェーブライダーであった。
「どうしたのジギー?」
ミミは愛機に尋ねながら、ゴーグルの奥に隠れた瞳を手元の計器類に向ける。視線の先にはレーダーがあり、画面上で赤い点が点滅していた。
「救難信号!? ――大変!」
ミミは右の操縦桿を引き、左の操縦桿を押し出す。機体が尻を振り回してターンし、鏃の先端を東へと向けた。
同時に、ペダルを目一杯踏んだミミが両方の操縦桿を一気に押し出すと、推進器が一際大きな嘶きを上げる。
次の瞬間、ミミを乗せたジギーはフルスロットルで走り出した。
◇
十分ほど飛ばした所で、ミミは進行方向に小さな点を見つける。それは確かに船影であった。
「! あれは……」
そこで何が起きているのか、ミミにはすぐに察することが出来た。
海から突き出した何かが船を海中に引き込もうとしているのだ。全長百メートル近い船体に張り付いているそれは、ぬめりを持つ赤い触腕だった。太さは十メートル強、長さに至っては海上に出ている部分だけでも五十メートルはありそうだ。
そして、船の舳先部分にへばりつく様にしてのしかかっているのは、触腕の本体である頭だけの巨大生物だった。遠目にはコブのように見えるそれに、ミミは驚愕の面持ちを作る。
(大蛸!? 深海にいるはずの海獣さんじゃない。何で海上に……?)
海獣は陸地の沈没以降に現れた、異常な進化を遂げた海棲生物の総称である。長い年月をかけて巨躯や異質な特性を身に着けた彼等は、今ではアクエリアの生態系の頂点に立っている。
ミミの疑問は、大蛸に取り付かれた船から突き出すクレーンを見て解けた。
(サルベージ船……? そうか、だから……!)
海底の海獣には、沈没船や地殻変動以前の廃墟を住処にしている者が多い。大方、サルベージの最中に刺激してしまったのだろう。
海獣の怒りは災害と同義である。一度触れてしまえば人間になすすべはない。サルベージ船の船員達も武器を手に抵抗しているが、このままではクラーケンの餌食となるしかない。サルベージ船の周りには、護衛らしき小型艇やウェーブライダーが展開しているものの、巨体が暴れた影響で荒れる波に翻弄されており、装備を使ってサルベージ船を守る余裕はないようだ。
その時、波に引っ繰り返されたウェーブライダーから、「わっ」という声を残して男が落ちる。
「掴まって!」
波間に消えかけた彼の手をすれ違いざまに引き上げると、ミミは近くのボートにジギーを寄せる。男の仲間達が彼を引き上げながらミミに問う。
「あ、あんたは? もしかして助けに来てくれたのか?」
「はい。救難信号を見て来ました」
濡れ鼠な上に疲弊した様子の彼等を安心させるため、ミミはにこりと微笑んで見せる。
「ああ、これで助かった……!」
目論見通り安堵の吐息を漏らす男達だが、その内の一人が怪訝な表情で周囲を見渡す。
「……それで、君の仲間は? もしかして遅れて来てるのか?」
対するミミは小首を傾げる。
「え? 来たのは私だけですけど……」
『は?』
男達が呆気に取られる。ミミは要らぬ期待を抱かせたことを決まり悪く思い頬を掻いた。
「配達の帰りに偶然見つけただけだから……」
言った途端に絶望した顔になる彼等に、ミミは操縦桿を握り直して言う。
「ま、まあ、あとは私に任せてください。何とかするから」
「何とかって……おいっ!?」
男達の制止も聞かず、ミミはウェーブライダーを発進させる。
彼女の前に立ちはだかるのは荒れ狂う波と、それに翻弄される小型艇やウェーブライダーだ。一つ違えれば転覆は免れない。誰もがミミの無謀に目を覆う。
だが、彼等が本当に驚かされるのはその直後だった。
「よっ……と!」
ミミは右に左にジギーを走らせて波間を走り、時に波を駆け上がって障害となる小型艇などを飛び越える。まるで無人の平野を行くが如く、彼女の動きには気負いも淀みはない。一流と言われるウェーブライダー乗りを遥かに超える技量である。
「何者なんだあの子……!?」
男達が愕然として見守る中、ミミは海獣とサルベージ船へと接近する。
「そこの船! 攻撃を止めてください」
ミミは銃声や怒号や船の軋みに負けないよう声を張り上げる。通用していないとは言え、無駄な攻撃も海獣を怒らせるのには十分だからだ。
しかし、騒音のためか恐怖ゆえか聞こえていないらしく、船員達は全く攻撃の手を緩めない。
仕方なく、ミミは船首側に回る。取り付いたクラーケンに可能な限り接近し、暴れる触腕の巻き添えを喰らわないよう気を配りつつミミは再度叫ぶ。
「ねえ、落ち着いて!? このままじゃ話も出来ないし、お互い傷つくだけだよ!」
それは一見無駄に見え――事実、彼女の言葉は届かなかった。振り下ろされた触腕の一本がミミのすぐ側に叩きつけられ、その衝撃でウェーブライダーごと空中に打ち上げられてしまう。
「わっと!?」
ミミは身体を横に勢いよく振り抜くと同時に、推進器を起動させて機体を空中で振り回す。結果として大量の海水を被りながらも、ジギーは横滑りの姿勢で着水に成功する。
「っとと……! 危ない危ない。かなり怒っちゃってるなあ。こっちが見えてないや」
ミミが困り顔で頭を掻いていると、偶然側に居たウェーブライダー乗りが声をかけてくる。
「お、おいっ!? お前何やってんだ? 海獣が説得に応じるわけないだろうが!?」
「んー……そんなことないんですけどねー。あーもう、服がぐしゃぐしゃだよ。この帽子、レインから貰ったお気に入りだったのに……」
悲しそうに呟いた少女はジャケットを脱ぐ。下に着ていたタンクトップが濡れてミミの肌に張り付き、意外に豊満な胸元や引き締まった腰のラインを浮き立たせている。さらに水を吸って布が透けているため、タンクトップの下のビキニまではっきりと見て取れる。
無防備な脱ぎ方に隣の男だけでなく、周りの男達までゴクリと生唾を飲み込む。
続いてミミは、ゴーグルと帽子に手を伸ばす。
次の瞬間、人々は息を飲んだ。
帽子の下から現れたのは、空よりも澄んで海よりも蒼い長髪であった。帽子を取った途端に一気に広がった様子は、水が溢れ出したと錯覚しそうなほどだった。
続いてゴーグルを取り払うと、薄く閉じられていたミミの瞼が開く。露わになったのは翡翠を思わせる緑の瞳で、その鮮やかさは本物の宝石を思わせる。
非現実的なほどに美しい少女だった、
「これ預かってください。あと、出来るだけここから離れて」
ミミは帽子とゴーグルを包んだジャケットを隣の男の方に投げる。ミミの素顔に見蕩れていた男が、ハッとしてそれを受け取ると言った。
「お、お前! いや、アンタ《ウンディーネ》だったのか?」
顎が落ちんばかりに驚く男に、ミミはおかしみを覚えて微笑む。
ウンディーネとは、この世界に存在する亜人の一種である。彼女達は全て女性ばかりであり、起源は精霊であると囁かれるほどの人間離れした神秘性と、水を操り海獣と心を通わせる力を持つと言われることから、船乗りの信仰の対象にもなっている。
実のところ、ミミはそれとは少し違うのだが、説明する時間はないので驚かせたままにする。
「あのクラーケンは怒りで我を失ってるから、とりあえず落ち着かせないと……。麻酔か何か持ってないですか?」
「もうとっくに使って……ます! でも、ナリがデカいせいか効き目が薄くて……」
男の必死の言葉を受けて、ミミは思考するように小さく唸る。
「仕方ないか。こうなったら――」
ミミはジギーのエンジンを吹かす。操縦者の意を汲むようにジギーがヒィィィンと鳴く。
「――実力行使! 行くよジギー!」
元気のいいミミの声と同時に、大量の海水を一息に吹き飛ばす勢いで蹴り上げ、ジギーはトップスピードで走り出す。行き先はもちろん、暴れ回るクラーケンだ。
ジギーに武器が積まれていないのは一目瞭然である。何をする気か、と彼女の背中をなすすべなく見守っていた人々は、再び驚くべき光景を目の当たりにする。
触腕が起こす高波を駆け上って跳躍した瞬間、銀のウェーブライダーが空中で弾けたのだ。
様々なパーツが空中に広がって停止。残った基礎部分は展開してミミの胸や背筋や手足に沿うように包み、そこに引き寄せられるようにパーツが取り付いていく。
全てが装着された姿はスリムな鎧である。頭部以外のほとんどを覆い、機械のアシストによって筋力は常人を軽く超える。言うなればパワードスーツだ。
「何だあれ……」
船乗り達――特にウェーブライダー乗り達は唖然とする。ウェーブライダーは確かに高性能な機体だが、変形機能がないことは彼等が一番よく知っているからだ。
銀の装甲によって全身を覆われたミミは、右腰に付いた小さな箱に右の手を突っ込んで、そこから拳大の球体を取り出す。
尾てい骨の位置に付いた推進器を起動した彼女の身体は空中で加速。球体を握った右拳を振り上げ、宙を滑空するようにクラーケンに突撃する。
「――ごめん!」
ミミの拳がクラーケンの風船のような身体にズブリと肩まで埋まった。衝撃がクラーケンのぶよぶよした表皮に波紋を広げる。それだけの威力を発揮しながら、パワードスーツのアシストでミミの華奢な身体は無傷で済む。ただ、通常の生物なら確実に致命打になるほどの一撃だったが、身体が筋肉で出来ている軟体動物にはダメージは薄い。
だが、クラーケンに邪魔だとは感じさせたのか、触腕の一本がミミを狙って振り上げられる。それを見たミミは、クラーケンの身体を蹴って離脱する。彼女の頭上スレスレを掠めた触腕は、勢いを殺せずに自らの頭部を打ち据え、バッチィィィンと壮絶な音が晴天に木霊した。
それを尻目に、ミミは空中で耳を塞ぐ。
直後、その触腕の真下で弾けた凄まじい高音が人々の耳をつんざいた。
ミミが取り出した球体は〝音玉〟と言い、海獣を追い払うための道具の一つである。破裂すると莫大な音量を撒き散らし、音の伝導率が高い水中では無類の効果を発揮する。ただ、水棲生物のほとんどは聴覚を持たないため海上では効果が薄い。そのためミミはクラーケンの身体に打ち込み、音の振動をダイレクトに伝えられるようにしたのである。
(うう~……至近距離で音玉はキツイなあ……)
耳鳴りに顔を顰めるミミだが、その甲斐はあったと言えるだろう。
クラーケンが動きを止めていた。先の暴れ方が嘘のような海獣に、サルベージ船の人々は戸惑うような表情を浮かべている。
彼等をよそにミミは海面を滑ってクラーケンに近づく。
「おーい、目は覚めた?」
ミミの声に反応して、クラーケンの巨大な目玉が少女を捉える。その凄まじい威圧感に怯むことなく、ミミは申し訳なさそうに言う。
「私の話が聞こえないくらい怒ってたみたいだから、少し手荒になっちゃった。ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げるミミ。クラーケンは言葉らしい音を全く発さないが、顔を上げたミミの表情は和解が成ったことを物語っていた。
「ありがとう。――とりあえず、船を離してくれないかな? それからどうしてこんな事したのか、話してくれる?」
◇
どんなに攻撃しても船体を捕えて離さなかった触腕が、あっけなく離れて海中に戻っていく。
船長であるジグ・サートンその様子を見届け、生還を喜び合う船員達に混じって密かに安堵の吐息を零した。男達の中でも一際大きく、頑固と強面で威厳を保ってきた彼は、他の船員達のように恥も外聞もなく喜ぶわけにはいかなかった。
「ウンディーネか。今の世にもまだ彼女達が居たんだな……」
ウンディーネは元々数の少ない種族であり、女性のみしかいないという特性上、今では絶滅したものだとばかり思っていた。一説には、海の神の巫女であり妻であり娘である彼女達に男は要らないのだと言われるが、本当の所は当人達のみが知ることだろう。
ジグは船縁に目をやる。そこには人だかりが出来ていて、ウンディーネの少女に感謝と喜びの声を送っていた。ジグも礼の一つも言いたいが、はしゃぐ部下達に混じるのは気が進まない。
(……後にするか)
先に船の被害状況を確認しようとしたジグは、背後で上がった悲鳴に何事かと振り返る。先程まで歓声を発していた人だかりが割れていた。その理由ははっきりしている。
二度と見たくないクラーケンの威容が、船縁からこちらを覗いていたからだ。ジグも思わず表情を引き攣らせるが、続いて伸びてきた触腕に人が立っていることに気づく。。
「お邪魔しまーす」
暢気で緊張感のない声とともにミミは甲板に降り立った。銀の装甲を脱いだ美しき亜人の少女を前にして、海獣によって騒然となっていた船上は畏敬に似た静けさに包まれる。
スタイルが良く手足はすらっと長いが、背丈はそれほど高くない。パッチリした翠緑の瞳と、背中の半ばまである青い長髪によって飾り立てられた顔立ちは色白の童顔で、腕の良い造形師が手掛けたように美しい。
まさしく精霊のような少女である。
「サルベージ船って初めて乗ったなー」
ミミは物珍しそうに緑の瞳で甲板と船乗り達を見渡してから言う。
「こんにちは! 私、ミミって言います。この船の船長さんはどなたですか?」
恩人から問いかけを受けた船員達の視線は、自然とジグへと集まった。どのみち礼を言うつもりだったジグは少女へと近づく。
「船長のジグだ。危ない所をありがとう、ウンディーネさん」
「別にいいですよ。この海で生きてくなら助け合いは当然ですもん」
ミミはパタパタと手を振って答える。絶世の美貌に浮かぶ無邪気な笑顔に、娘ほど年が離れていてもジグはドキリとする。
「ゴホン……さっそくで悪いんだが、あのクラーケンに船に張り付くのを止めるよう伝えてくれないか? 船員達が怯えていかん」
ジグが忌々しく大蛸を睨む。ミミは困ったように苦笑して言う。
「私も止めた方が良いって言ったんですけど聞いてくれなくて。でも大丈夫。もう危害を加えたりしませんから。――それより、ジグさんに話があって……」
「話?」
訊き返すジグに頷いて見せてからミミは内容を告げる。
「あのクラーケン(ママさん)――海獣さんに襲われた心当たりってありますか?」
「……いや。作業が済んだんで帰ろうとしたら、突然襲われたんでな」
ジグははっきりと言い切った。そこに嘘は見て取れない。
しかし、ミミは眉尻を下げた困り顔をして言う。
「ママさんが貴方達を襲ったのは、盗られた卵を取り返すためらしいんです」
それを聞いたジグは片眉を跳ね上げた。ミミの言葉の裏を読むと、こういうことになる。
「……そいつはつまり、私達が卵泥棒したって言いたいのかい?」
海獣はその生態のほとんどが分かっていない。それ故に、海獣の卵は学者達などに高値で取引される。だが、ジグにはサルベージの仕事に誇りがあるし、金に目がくらんで船員達を危険に晒したりはしない。疑われるのはあまり面白いことではなかった。
剣呑な空気を放ち始めるジグを前にしても、ミミは落ち着いた表情で言葉を重ねる。
「皆さんがドロボーだとは言いませんけど、卵がここにあるのは間違いないんです。ママさんが、卵を持った人間がこの船に乗るのを見たらしいので……」
互いに一歩も引かないミミとジグ。無言で見つめ合う二人を取り囲む船員達は、高まっていく圧力に固唾を飲んだ。
「……私はこの船の船長だ。その私が部下を信じないわけにはいかない」
ジグは厳然と告げる。それは船を持ち、人の命と信頼を預かる者として当然の言葉であった。
「でも、卵が戻らないとママさんも諦めないし……」
どうしよう、とミミが悩んで唸り始めると、大蛸が突然触腕を甲板に伸ばした。触腕はミミとジグを囲む人だかりに差し込まれ、この場を離れようとしていた一人の若者を取り上げる。
「うわああああ!? 助けてくれ――!!」
逆さに吊られた彼は、暴れながらみっともなく悲鳴を上げる。甲板が再び騒然となった。
「何しやがる!?」
激昂したジグは銃を抜いてクラーケンに向ける。そのまま引き金を引く直前、ミミが状況を理解していないかのようなきょとんとした声音で呟く。
「え? その人がドロボーさん?」
「……何だって?」
ジグは引き金に掛かっていた人差し指から力を抜く。皆が戸惑う中、ミミが手のジェスチャーでクラーケンに触腕を下げるよう示す。
甲板から一メートルの位置で逆さ吊りにされた男に、ウンディーネは可愛らしく首を傾げる。
「卵。盗ったの?」
「し、知らない! 誤解だよ!」
そう喚いた男だが、不自然に膨らんだ腹を両手で抱えている。まるで服の中の何かが落ちないようにしているようだ。
往生際の悪い若者の様子に、ミミは呆れたとばかりに一つ吐息を落とした。
「――ねえ。あなたも船乗りなら知ってるよね? この海で怒らせちゃいけない二つのもの」
今までとは打って変わって静かな口調で言い、ミミは銀の籠手の指先で大蛸を差す。
「一つは海獣さん。理由は分かるよね?」
続いて指を己に向け、ミミは告げる。
「そして、もう一つは私達。理由は……返事次第かな」
そこでふと、ミミは笑顔になる。彼女は口調の静けさを変えないままこう言った。
「怒る(・・)よ(・)?」
男は、笑顔と口調のミスマッチが醸し出す少女の凄みに顔を引き攣らせ――
「……すいませんでした……」
消え入るような声で言って、隠していた卵を差し出すのであった。