三
「……ふぅ、やっぱり可愛いわ。」
滝澤は由衣の後ろ姿を見送りながら、小声でつぶやいた。恍惚としたその視線は、どこか危険な匂いを漂わせていた。
「あの、先生。何を……」
看護師は滝澤のただならぬ雰囲気に、少し心配になった様だ。
「何でもないわ。ふふ、そう。何でもないのよ」
「……そうですか」
看護師は、それでもどこか大丈夫かな、という気持ちであった。
滝澤は、医師としてとても優れている。また、幼児からお年寄りまで、幅広く診ることができ、そしてその診察はとても正確だ。が、時々少し心配になる事がある。
それは、どうも女性に対する視線が妖しいのだ。自分達、看護師も若いスタッフばかりだが、あの全身を舐めまわすような視線は、どうも馴染めない。また、必要以上にボディタッチが多いのも気になる。確かに戯れる感じで、胸やお尻を触ったりするのがあるが……。
先ほどの女の子の患者――と言っても実年齢はだいぶ上だが――随分と綺麗な子なので、ちょっと心配だ。狙われている気がする。
私がよく監視して守ってあげないと。そう心に誓う看護師だった。
「ただいま……って、早紀は仕事だった」
由衣はリビングに入ると、ソファに寝転んでひと息ついた。
――それにしても、滝澤先生って綺麗な人だな。すごくいい人そうだし、今後とも親しくしてくれるといいな。などと考えながら、いつの間にか目を閉じていた。
……ふと、電話が鳴っているのに気がついて目を覚ました。どうやら寝てしまっていた様だ。
「はい、はい」
由衣はテーブルの上に投げてあったiPhoneを手に取ると、すぐに電話に出た。
「もしもし、早川ですけど」
『もしもし、滝澤です』
「あ、滝澤先生」
『いきなり電話してごめんなさいね。大丈夫だったかしら?』
「ああ、いえ。大丈夫ですよどうもないです」
『そうよかったわ』
「あの、いったいどうしたんですか?」
『それなんだけど、よかったらうちに遊びに来ないかしら?』
「え? 先生の家にですか?」
『ええ、今日は土曜日で午前中までだから。早川さんみたいな人と、プライベートでも仲良くなれたらなって思ったの』
「わたしも先生と親しくなれたら嬉しいです」
『そう、嬉しいわ。来ても大丈夫?』
「はい、大丈夫です」
『それじゃあ、うちの地図を送るわね』
「はい」
少しして、由衣のiPhoneに地図を添付したメッセージが届いた。
「届きました」
『それじゃあ、待ってるわね』
滝澤からの電話がきれた。
「どれどれ……あ、結構近いな。まあ、診療所が近いからそうなるのかな」
滝澤の自宅は、滝澤内科医院よりさらに住宅地の方に入ったところに建っているマンションだ。五階建のあまり大きくない建物である。
「それじゃあ、行ってみるかな」
由衣は意気揚々と玄関を出て行った。
「――ただいま」
早紀は、午後五時過ぎにアルバイトが終わって、マンションに帰ってきた。特に返事はない。靴を脱いでスリッパを履くとリビングの方に向かう。
「由衣、ただいま……いない」
リビングにはいなかった。自室だろうかと、部屋のドアをノックするも応答はない。開けてみると無人だった。
どうやら外出中の様子だ。
「どこに行ったのかしら」
早紀は少し思案するも、待つことにした。
「早川さん、いらっしゃい」
滝澤は笑顔で由衣を出迎えた。
「あ、ど、どうも……」
「さあ、上がって」
「はい」
滝澤のマンションは、由衣のマンションに比べるとだいぶ狭い。しかしひとり暮らしである事を考えると、丁度いい広さだろう。内装のセンスもいいし、よく掃除もされているのだろう、室内は綺麗である。
「さあ、座って。コーヒーでいいかしら?」
「あ、はい」
シンプルなブラックレザーのソファに腰を下ろすと、キョロキョロと周囲を見渡した。それから少しして、トレーにカップをふたつ乗せて滝澤が戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「――いただきます」
由衣はコーヒーをご馳走になりながら、取り留めのない雑談に花を咲かせた。
「――早川さん。あなたの事、由衣と呼んでもいいかしら」
「え? ああ、いいですよ。そんな事」
由衣は滝澤がとても親しくしてくれるのに、嬉しそうだった。会って間もないが、とても距離が縮まった様に思えた。
「それにしても由衣って可愛いわ」
「え? ああ、はは……何か照れるなあ……そんな事はないと思うけど」
由衣は照れ笑いした。
「いいえ、すごく可愛いわ。私、由衣ほど可愛い子を見た事ないのよ」
滝澤は、さりげなく由衣の太ももを触った。
「あ、あの……?」
「うふふ……」
今度は由衣の手を軽く握る。そして指と指の間に自分の指を絡ませて、由衣の手の感触を確かめた。
透き通るような白い手に、滝澤の体の奥底に熱いものが灯されるのを感じた。
「せ、先生?」
どこか妖しい雰囲気に気がついた由衣は、これは一体どうしたことか、と戸惑いを隠せない。そうしているうちに、滝澤の端正かつ美麗な顔が間近にあることに気がついた。
「わ、あ、あの……」
「可愛い唇……うふふ」
滝澤の顔がさらに近づいていく。今にも由衣の唇に触れそうになった瞬間――音が鳴った。音の元は、由衣のiPhoneだ。
「あ……で、電話に出なきゃ」
顔を真っ赤にしたまま、慌ててiPhoneを手にとって電話にでた。その姿を少々恨めしそうに見ている滝澤。
「――もしもし。さ、早紀どうしたの?」
『由衣、今どこにいるの?』
「ああ、滝澤先生のマンションにいるんだ。ちょっと誘われて……遊びに来ないかって」
『そうなの? そう、ずいぶん帰ってこないから』
「ごめん、ごめん。ちょっとのつもりだったんだけど、いつの間にか結構時間経ってた。もう帰るよ」
『うん、晩ごはんもうすぐできるわ。冷めないうちに帰ってきてね』
「うん、じゃあ……」
由衣は電話をきった。そのままiPhoneの画面に表示される時刻を見ると、そろそろ夕方だ。
「先生、そろそろ帰らないと……」
「あら、よく見たらこんな時間ね。時間が経つのも早いものだわ」
滝澤も壁掛け時計を見て言った。
「できたら一緒に夕食でも、と思ったけどまた今度ね」
「ええ、今度また」
由衣はそう言って玄関の方に向かった。
「じゃあ、失礼します」
「ええ、また遊びにいらっしゃい。今度は、早紀さんと一緒に来るといいわ」
滝澤はクールな表情に、少しだけ笑みをこぼした。
「そうですね。今度はそうさせてもらいます。それじゃあ」
「気をつけて帰るのよ」
「――ただいま」
由衣は靴を脱ぎながら、漂ってくる美味しそうな匂いに嬉しくなった。リビングに入ると、奥に見えるダイニングキッチンで夕食を作っている早紀の姿が見える。
「由衣、おかえりなさい」
「なんかいい匂いするね。今日の晩ごはんは何かな?」
「今日はオムレツよ。それから……」
由衣はテーブルに座って出来上がるのを待った。早紀は、すぐに「さあ、できたわ」と言って皿に盛り付けてテーブルに並べる。
「早紀は料理得意だねえ」
「うふふ、ありがと」
早紀は由衣の茶碗にご飯をよそって渡した。
「……でね、また今度、早紀と一緒に遊びに来たらって言われたんだけど」
「まあ、そうね。私も滝澤先生のお家に行ってみたわ」
「うん、じゃあ早紀のアルバイトがない日を選んで今度行くことにしよう」
由衣はオムレツの最後のひと口を食べると、麦茶をひと口飲んだ。
「楽しみだわ」
早紀はそう言って微笑んだ。