二
「初めまして、早川由衣さんね。院長の滝澤です」
目の前の綺麗な女性が、どうやら滝澤睦美先生の様だ。ゆるいウェーブのかかったロングの髪を、首の後ろでまとめている。切れ長の眼は鋭くも涼やかで、大変美麗だ。また、白衣の下にはまるでモデルの様な、すごい肢体が隠されているであろう事が容易に予想できた。
「はい……あの……」
「――熱があるのね。それから、咳が出る、身体がだるい……風邪の諸症状ね。ちょっと見させてちょうだい」
滝澤は由衣の顔を手に持って、まぶたを広げた。最初に右目を見て、次に左目を見た。
「……なるほど」
滝澤は首からぶら下げていた聴診器を持って、由衣に言った。
「さあ、前を開けてくれるかしら」
「は、はい」
由衣はシャツのボタンを外して、その下に来ていたTシャツを上に持ち上げた。
由衣の水色のブラジャーと、透き通る様な白いお腹が露わになった。
「ウフフ、カワイイお腹ね……」
「……え?」
「フフフ、なんでもないわ」
滝澤は不敵に笑う。そして、由衣の身体のありこちに聴診器をあてていった。その目はとても真剣で、その辺りはやっぱりすごい医者なのだろうと想像できた。それが終わると、看護師に注射の用意を指示した。
「さ、もういいわよ。注射を打つわね。そのまま安静にしてるだけでもいいのだけれど、今のあなたには辛いでしょう。だいぶ楽になるわ」
「……本当ですか?」
「ええ。それから、今日はもう家で安静にしてないと。もし、少し調子が出てきたとかって、激しい運動なんてしない事。ぶり返す元だから」
「……はい」
「じゃあ――そうね、三日後にまた来てもらえるかしら。その頃には良くなっているとは思うのだけど、確認したいわ」
「わかりました」
「……由衣、気分はどう?」
「……以外と悪くないよ。結構効くもんだね」
注射の効果は目に見えていた。この注射は、発熱や頭痛など風邪の諸症状を抑える効果がある一般的な薬だが、効果がすぐれている事で人気があった。個人差はあるというが、由衣は幸いにもいい具合に効いてくれた様子だ。
「由衣、お粥を作ってみたわ」
早紀は、皿からスプーンですくうと由衣の口元に持っていった。
「食べたくないなあ……」
「ダメよ、食べないと辛いわよ。先生も言っていたわ」
「でも……」
「ダメ」
由衣は渋々口を開けた。そこにスプーンが入れられる。由衣は口を閉じて、お粥を食べた。あっさりしているが、癖のない美味が口の中に広がる。
「どう?」
「うん、おいしい」
「うふふ、よかった」
早紀は微笑んだ。
三日後、再び滝澤内科にやってきた。早紀が一緒に行こうかと言ったが、仕事を休んでまで来てもらうわけにはいかないので、断った。前に来た時は、ろくに頭が回っていなかったが、今日はもう体調も全く問題がなく、足取りも軽快に診療所のドアを開けて入った。
「――こんにちは」
入って左側にある受付にいる看護師が、入ってきた由衣に声をかけた。由衣はすぐに受付の前に行って、「すいません、早川ですけど、今日また来て欲しいと……」と伝えた。
「あ、はい。早川さん、体調はどうですか?」
「もう大丈夫です」
由衣は微笑んだ。
「それじゃあ、少し待っていてくださいね」
「はい」
由衣は待合所のソファに座って、室内を眺めた。自分以外は、小さな子を連れている若い母親がいるだけだ。そもそもあまり広い室内ではないが、三人だけなので閑散としている。
数年前に開院したそうなので、内装が綺麗である。それに、とてもオシャレで落ち着いた雰囲気のする空間である。
あちこちキョロキョロしていると、ふいに足をつかまれた。驚いて前を見ると、幼稚園くらいの小さい男の子が、由衣の足を掴んでじっと見ていた。
「……お姉ちゃん、病気なの?」
子供の問いかけに、動揺する由衣。
「え? いや……うぅん、もう治ったんだけどね」
由衣は子供が苦手だ。嫌いではないが、苦手だ。どう対応していいかわからない。
「ふぅん……」
子供は相変わらず足にしがみついたまま、由衣の顔をずっと見ている。
「あ、すいません。ひろくん、ダメでしょ」
母親が近寄ってきて、子供を引き離した。
「お姉ちゃんが困っているでしょ、さあお行儀よくしてるのよ」
母親はそう言って子供を隣に座らせた。子供はその後もずっと由衣を見ていた。しかし、「橋田さぁん」という声が聞こえて親子が診察室の中に入っていった。
由衣はソファにもたれたまま、窓の外を見た。よく晴れている今の時期は、外も割と暑い。これから、もっと暑くなっていくのだろうなあ……と考えて苦笑した。
十分程度経った頃、先ほどの親子が出てきた。再び向かいのソファに座ると、子供は再び由衣をじっと見ている。由衣は、その子がいったい何か楽しいのか不明だが、とりあえずそっとしておいた。――もしかしたら、何かおかしい事でも……。
鏡を見たくなって、片隅にあるトイレに入ろうと立ち上がったタイミングで、「早川さぁん」と、呼ぶ声が聞こえた。やむなく由衣は診察室に向かった。
診察室には、滝澤先生と若い看護師のふたりがいた。ここも綺麗な空間で、やっぱり新しい診療所なんだな、と思った。
「こんにちは、早川さん。じゃあ、ここに座って」
看護師が滝澤の前にある椅子に案内した。由衣が椅子に座ると、「こんにちは、気分はどうかしら?」
と滝澤は言った。由衣を見るその目は端正で、やはり綺麗な人だなと、由衣は思った。
「もう全然辛くないし、すごくいいです」
由衣は少し緊張した面持ちで答えた。
「見た感じも、もう良さそうね。それじゃあ前を開けてもらえるかしら」
「あ、はい」
由衣はシャツの前ボタンを上からひとつづつ外していった。すべて外して前を大きく開けると、由衣の胸周辺に聴診器を当てていく。その顔はさすがに、先ほどとは打って変わって真剣だ。
「ふむ、そうね――早川さん、ブラを外してもらえるかしら。
「あ、はい」
由衣はブラジャーを外そうと背中に手を回したが、それを看護師が制止した。
「ちょっと待ってください。先生、こうすれば何も外さなくても……」
看護師の言葉に、滝澤は渋々「ま、まぁ、それもそうね……」と看護師の言う様にした。滝澤は看護師を一瞬睨んだ様に見えたが、由衣はそれには気がついていなかった。
「――問題はなさそうね。ただ、まだ無理はしてはダメよ。二、三日はなるべく運動をせずに、静かに過ごすこと」
「は、はい。どうもありがとうございました」
「お大事に」
滝澤はそう言って笑みを浮かべた。由衣は立ち上がって、診察室から出ようとしたところを呼び止められた。
「それはそうと、早川さん。あなたは<発症者>だったわね」
「はい、そうなんです」
「岡本くんから聞いていると思うけど、私も<発症者>なのよ」
「ええ、岡本先生から聞いています。帝大でお世話になったとか……」
由衣は言った。
「ふふふ、岡本くんからは何かと相談に乗ってあげて欲しいと頼まれているのよ」
「そうなんですか?」
「何か困った事があれば、いつでも来なさいね。それに時間外でもいいわ。携帯の番号を教えておくわね」
「ありがとうございます。心強いです」
「お大事に」
最後にそう言って微笑むと、机の方を向いた。由衣は立ち上がると、軽くお辞儀をして診察室を出た。