一
「――うん、問題はない様だね」
「そうですか」
由衣は検査の為に山陽医大にやってきていた。由衣を担当する総合内科の岡本准教授は、検査結果を丹念に確認し、笑顔を浮かべた。
「定期検査は今回で終了です。今まで本当に大変でしたね」
「ようやくですか。長かったなあ」
由衣は思わず笑みをこぼした。由衣は二〇一七年に退院して以来、ずっと毎月検査を受けていた。退院時には、すでに発症は止まっているが、症状の研究と解明の為に続けていた。
「早川さんは特別だから、どうしてもね。それでも本当に長かった」
「岡本先生、今までどうもお世話になりました」
由衣はそう言って、小さく頭を下げた。
「そういえば、島崎さんにも会いたかったなあ」
島崎は、由衣が入院していた頃にとてもお世話になった看護師だ。由衣を担当する看護師チームのリーダー的な立場にあった。去年にふたり目の子を出産し、現在は育児休暇中だった。
隣にいた看護師の柴田が、由衣に言った。
「また今度、島崎さんの家に赤ちゃんを見に行く予定でなんですが、早川さんも一緒に来ますか? 島崎さん喜ぶと思いますよ」
「本当ですか? そうですね。是非誘ってください」
「ええ、また連絡しますね」
「そういえば……早川さん、よかったら知っている医師を紹介しましょう。確か、今の早川さんの住所の近くだったはず……」
「うちの近所ですか?」
岡本は机の上のパソコンの画面にオンラインの地図を表示させ、由衣の住むマンション付近を出した。
「この<滝澤内科医院>というのを知りませんか?」
「ああ、確かにそんなところがあったような……でもそっちはあまり行かないから」
由衣のマンションのすぐ近くにあるが、ちょうど大通りに出る方の道の反対方向にある。こちらは奥に進んでも住宅街があるだけで、道も入り組んでいて、ほぼ通る事はなかった。
「この滝澤先生はね、僕の恩師でもあるのです。ちょうど僕が帝大医学部の学生だった頃、助教授になったばかりでとても優れた方だった。十年くらい前には次期教授の有力候補でもあったんです。でも……<発症>してしまってね……」
「<発症者>なんですね」
由衣は、<発症者>の医者と言うのは珍しい気がした。あまり聞かないのだ。むろん、聞かないだけで割合多いのかもしれない。
「ええ、それを機に実家のあるここ岡山に帰ってきてね、開業医として去年開院したんです」
「なるほど」
「内科の先生だけど、<発症>に関する研究を独自にされていてね。それに、病気だけではなく<発症者>としても、様々に相談に乗ってくれると思う。ちょっと性格的に奇抜なところもあるけども、早川さんにとって頼りになる存在だと思います」
「はい、どうもありがとうございます」
由衣はお辞儀をした。
「当然、うちに来てくれる方がありがたいのだけど、やはり近所にかかりつけの医師がいる方が安心でしょう」
岡本はそう言って微笑んだ。
「……由衣、大丈夫?」
早紀はとても心配そうに由衣を見た。どうやら風邪を引いた様子で、昨日辺りから鼻水と喉が痛かった。今は頭がぼぉっとする上、体の節々もだるい。
由衣は元々、病気にはあまり縁がないのだが、季節の変わり目など、こういうはっきりしない時期に時折風邪を引くことがあった。元は暑がりであり、割合薄着をしがちだ。しかし身体が変化した後も、相変わらず薄着をしがちで、そのせいで体調を崩す事がある。
「……うぅん、熱はどうなのかな?」
由衣は脇の体温計が何度なのか気になった。少しして、体温計の電子音がなった。測定完了の合図である。早紀は由衣から体温計を取り出すと、その表示を見た。
「三十七度……大変だわ」
早紀は表示を見て青ざめた。
「頭が……クラクラする……ゴホッ、コホッ」
「すぐにお医者様に診てもらわないと」
早紀はすぐに近隣の医者を探す為にスマートフォンで検索をした。
「……岡本先生の恩師が近所にいるって……前に言ってたから……。そこに……行ってみようと思うんだけど。ゴホッ……」
由衣は弱々しい声で早紀に言った。
「ああ、それは確か……滝澤内科医院ね。あ、すぐ近くだわ」
スマートフォンには現在地から近い順に、近隣の内科が表示されていた。岡本准教授が勧めてくれた滝澤内科は一番上にある。
早紀は表示されている電話番号をタップして、そのまま電話をした。そしてすぐに行く事を伝えて電話を切ると、「由衣、大丈夫? すぐに診てもらえるから、もう少し頑張って」と、由衣を励ましながら服を着替えさせた。
「早紀……仕事があるんじゃ……」
早紀は一週間ほど前から、アルバイトをやっていた。近所の花屋である。給料は安いが、店の人達はいい人ばかりで早紀もやりがいを感じていた。
「何を言ってるの。仕事どころじゃないわ。仕事はお休みをもらうわ」
「でも……」
「いいの。由衣は自分の心配だけしたらいいのよ」
「ここだわ。由衣、大丈夫?」
目の前の建物には正面に看板がある。
<滝澤内科医院>
そう書いてあった。どうやらここの様である。
早紀は、由衣を背負って連れてきた。マンションからほとんど離れていない場所な為、車では来づらい距離だ。また、歩くのが辛そうだったので背負ったというわけである。もっとも、早紀からしたら由衣を背負う事などそこまで重労働でもないらしい。
ちなみに由衣は、別に歩けないほど酷いわけではない。早紀が焦ってしまっただけである。
「由衣、大丈夫?」
早紀は心配そうに由衣に尋ねる。
「うぅん……大丈夫」
とは言うものの、あまり大丈夫そうな感じがしない為、早々に院内に入っていった。
慌てて入ってきた早紀の姿に少々驚きながら、若い看護師は声をかけた。
「どうしました?」
「先ほど電話した早川です。この子が、熱があるようなので診てもらいたいのですが。――早川由衣と言います。山陽医大の紹介状もあるのですが」
由衣を背負ったまま、手に持った封筒を看護師に手渡した。看護師は事前に由衣の事を知らされているらしい様子だ。
「――ああ、もしかして。はい、わかりました。とりあえず、この用紙にわかるところでいいので、書いてもらえませんか? それから保険証は持ってきていますか?」
「はい」
早紀はポケットから保険証を取り出すと、それを看護師に渡した。それから用紙に必要な箇所を何箇所か書いて、これも看護士に渡した。
「あちらのソファのところで待っててくださいね。――ねえ、ちょっと手伝ってあげて」
もうひとりの若い看護師が由衣のそばにやってきて、「はい、こっち持ちますね」と早紀を手伝った。
早紀は手を貸してくれた看護師と一緒に由衣をソファに座らせた。
それから間もなく由衣の名前が呼ばれた。
「――あら、もしかして岡本くんの言ってた子ね」
この診療所の院長と思われる医師は、診察室の椅子に座って、紹介状と用紙を見てつぶやいた。
先ほどの受付にいた看護師は、医師に向かってあれこれ説明している。
「体温を計ってもらったんですが、三十七度でした」
「……風邪っぽいわね。まあ通して。どんな子かしらねえ、うふふ」