二
「私、とっても嬉しいわ。日本には知っている人はほとんどいないと思っていたから」
「ああ、なるほどね。小さいころだって言ってたよね、オーストリアに行ったの」
由衣は愛車を運転しながら、早紀の言葉に答えた。
「そうよ、向こうにもあまり親しい人がいるわけでもないのだけど」
早紀は少し寂しそうな表情をして、顔を伏せた。早紀は両親の仇を討つ為に、身内の元を飛び出して、裏の世界に足を踏み入れたからだ。多くの血が流れて、早紀はたくさんの親戚や友人を失ってしまった。
「ま、でも実際どうなんだろうね。すぐ行くから、詳しくは聞かなかったし。勘違いっていう事もあるかも」
「うん、でもどうであれ、新しい人と知り合うのは素敵な事だわ」
早紀はそう言って笑った。
「さ、もう少しで到着だね」
由衣は実家の前の道路に車を止めると、玄関を開けて中に入った。その音を聞いて気がついたのか、すぐに宣子達が出てきた。
「由衣ちゃん、それから白鳥さんでしたっけ。ふたりとも急な話でごめんなさいね。さあ、上がって上がって」
宣子はふたりにスリッパを出して、上がるように促した。
「由衣ちゃん、久しぶりねえ」
「やあ、元気にしてたかい」
宣子の後ろから晶子と慎介が顔を覗かせている。ふたりとも笑顔だ。思えばこのふたりと会うのも久しぶりである。実際、二年くらいは会っていない。そう遠いところに住んでいるわけではないが、この歳になると、親戚同士でそうそう会う事もない。
「あ、叔父さんと叔母さん。どうも」
由衣が叔父達に言葉を向けると、由衣の後ろから、早紀が挨拶をした。
「はじめまして。白鳥と言います」
早紀はゆったりと微笑みながら頭を下げた。
慎介は、早紀の顔をじっと見ながら言った。
「君がさっちゃんかい? 白鳥早紀ちゃんだよね?」
確認する様に早紀に問いかける。その声は少し震えていた。
「ええ、そうですけど……」
早紀は少し驚いた風だった。
「——懐かしいですね。小さいころ確かに……そう、さっちゃんと呼ばれていました」
そう言って笑った。
「角川という苗字を憶えているかい? 岡山で隣に住んでいた……」
「角川……うぅん、その辺りはちょっと曖昧です。ただ、隣の家のお姉ちゃんによく遊んでもらっていたと思います」
早紀と慎介の会話のそばで、由衣の表情が驚きのものに変わっていた。
――まさか。
由衣は、考えを巡らした。
「さっちゃん!」
慎介は、半泣きの顔に笑顔を浮かべながら、早紀の肩を抱いた。
「あ、あの……?」
「君は……君は……よかった!」
早紀は少し戸惑っていた。
「さっちゃん、小さいころによく遊んでくれたお姉ちゃんはね、うちの娘――景子のことだと思うのよ」
慎介の後ろから晶子が、やはり少し涙を浮かべながら言った。慎介は早紀から離れると、「それから、そこの由衣ちゃんはね……」と言いかけて、それを由衣が引きついた。
「時々……月に二、三回くらい遊びに行って、一緒に遊んでいた男の子のことを覚えてる? 同じくらいの歳の、文くんとか呼ばれていた……」
早紀は由衣の方向いて言った。
「ええ、いたわ。私は確か――その男の子――名前は覚えていないけど、大好きだった。とても優しくて、いつも私に元気をくれていた」
そして少し微笑んで、「……小さい時、大好きなお兄ちゃんのお嫁さんになりたい、なんて言って結婚式の真似事なんてやった覚えがあるわ」と言った。
「――その、お兄ちゃんというのが、その由衣ちゃんだよ。さっちゃん」
慎介はそう言って微笑んだ。
「え?」
早紀は驚きを隠せない表情だ。そして由衣を見た。
「……由衣が……?」
「早紀、わたしは……『性転換』の<発症者>だよ。元は男だったんだ」
「まさか……由衣が、あの……」
早紀は驚きのあまり、うまく声が出ない。
「まさかね……本当にこんな事ってあるんだな」
苦笑いする由衣に、早紀が抱きついた。突然の事で由衣は驚いたが、早紀の身体の温もりに心が穏やかになっていく。
「お兄ちゃん……会いたかった……」
「わたしも……会いたかったよ」
「いやあ、本当に――なんていうのか、神様っているもんだなって思ったよ」
慎介はそう言って笑った。
「さっちゃんも<発症者>なんだね? 『若返り』の方だなあ。随分綺麗になって、景子が見たら嫉妬するかも」
大笑いする慎介に続いて、宣子も口を開いた。
「そういえば、由衣ちゃんもそうだけど、<発症>する人はみんな綺麗よねえ。私もしたいわあ」
「……いえ、そんな」
早紀は、照れくさそうに言葉を濁した。早紀は物腰が落ち着いた性格で、やっぱり大人の女性と感じる。
「ふたりだけで生活しているの?」
「ええ、そうですよ」
由衣は晶子の問いに答えた。
「女の子だけじゃ、少し不安にならない?」
「そんな事もないですよ。早紀は強いし」
「そうなのかい? それは心強いけど……柔道でもしていたの?」
「いえ、習った事はあるのですが」
「さっちゃんは、何もかも完璧だねえ。そりゃあ由衣ちゃんが惚れちゃうわけだ」
慎介が由衣を見てニヤニヤしていた。
「いや、あの……どうしてわたしが?」
由衣は慌てて否定しようとするが、実際のところそれは、あながち間違いでもないことを由衣は認識していた。
「……由衣」
早紀が顔を真っ赤にして、由衣の方を見ていた。由衣は何て言おうか、言葉に詰まった。
「――そういえば、ご両親は元気にしているかい?」
「……」
「どうしたの?」
慎介は早紀の表情に、嫌な予感がした。
「……父と母はもう……他界しました」
早紀は、その美しい顔を曇らせた。それを聞いた慎介は、一瞬言葉を失った。そして、少しの間をおいて、悲しい顔をしてつぶやいた。
「なんと……そうだったのか。そうか、ユキさんは、もう……」
「――はい、子供のころ、もう三十年ほど前でした」
「辛かったんだろうね……」
慎介と晶子は目尻に涙を浮かべながら、早紀を優しく抱いて慰めた。
「でも、今日おじさま達と出会えて本当に嬉しいです。それに……」
早紀は由衣の方を見た。由衣も早紀を見つめ返す。
「わたしも、なんていうか――嬉しいよ」
そう言って、照れくさそうに笑みを浮かべた。
「――じゃあ、そろそろ帰ろうか」
由衣が時計を見て言った。
「もう帰るの? せめて晩ごはんくらい食べていかないの? もうちょっと……」
「いや、この後用事があるし。別に遠くに住んでるわけじゃないんだから、また来るって」
宣子の引き留めに応じると、おそらくだが今日は泊まっていけ、というところまで行く。昔からそうなのだ。ズルズルと引っ張る癖があるのをわかっているから、断固として帰る事にしている。
「じゃあ、私達もそろそろ……じゃあ、のんちゃん、また今度ね」
「ええ、気をつけてね」
角川夫妻も帰る様子だ。庭に出てきた由衣達を宣子は外まで見送ってきた。
由衣は、ちらりと庭の片隅に停められている軽自動車を見た。この車は由衣の弟、善彦の車だ。もう二十年近く乗ってるんじゃないかと思われる、ダイハツのミラである。さすがに古さを隠せないが未だに乗っている。善彦は車好きというわけではなくて、興味がないからなるべく高い買い物をしたくない――買い替えたくない――で、ずっと乗り続けている、という事の様だ。
――もう、どこかしら故障とかもありそうなものだけど……と由衣は未だに乗っている事が信じられなかった。というか、善彦は仕事をしているのか? と疑問に思ったが、今は放っておいた。
慎介の車が発進する直前に、窓を開けて慎介が顔を出した。
「さっちゃん、このゴールデンウィークに景子が帰省するって言ってたから、さっちゃんと会いたいと言うかもしれない。その時は、あってやってくれないか? 景子も心配してたんだ」
「はい、ぜひ」
早紀は嬉しそうに返事した。
「じゃ、帰ろうか」
「うん」
由衣と早紀は、そう言って顔を見合わせた。そして由衣は、宣子の方を見て言った。
「それじゃあ、また来るから」
「気をつけて帰るのよ。安全運転でね、よく見て……」
クドクドと喋り始める宣子。いつもそうだが、言いだすととても長い。
「……いや、もうわかってるから。大丈夫だって」
うんざりした表情で宣子に言うと、窓を閉めて車を発進させた。
由衣は帰りの車の中で、少し気になる事を聞いてみた。
「早紀は……わたしをどう思う? 幼馴染の男の子だった事がわかって、どうなのかな?」
「由衣はどんな姿だろうと由衣よ。それはずっと変わらないわ。大好きだったお兄ちゃんは、思い出の中にいる。今は由衣となって私の隣にいるの。人は変わっていくわ。そうして生きていくのよ」
助手席に座る早紀は、遥か遠くをじっと見つめていた。その眼差しは嬉しいとも、悲しいともつかない不思議な色をしていた。
「……そうだね」
由衣はひと言だけ声に出して言った。早紀はふいに由衣の方を見て微笑んだ。
「私は由衣の事が大好きよ」
「わたしも……ふふふ」
「由衣?」
早紀は、どうしたんだろう、と言わんばかりの表情で由衣を見つめた。
「ごめん、やっぱりちょっと照れくさいや。……早紀、今日の晩御飯は何かなあ?」
「できてからのお楽しみよ。そうそう、帰りにスーパーに寄ってね。晩御飯の買い物をしておかなきゃ」