四
滝澤は鼻歌まじりに愛車を洗っていた。スポーツカーが大好きな滝澤は、もう古くなった愛車、スバル・インプレッサWRXを愛おしそうに優しく拭いている。そんな時、電話がなった。ポケットからiPhoneを取り出すと、ディスプレイには早紀の名前だ。
「あら、早紀じゃない」
滝澤は通話ボタンをタップすると、電話に出た。
「はあぃ、早紀?」
『もしもし、白鳥です』
「相変わらず暑いわよねえ。今度、どこかに涼みに行かない?」
『……先生』
「うん? どうしたの」
『――いいえ、先生。ひと言、お礼が言いたくて』
「お礼? どうして?」
『ええ。こんな私と仲良くしてくれて、どうもありがとうございました……短い間ですが、とても楽しかったです……』
「え? ちょ、ちょっと! 早紀、あんた何を……」
『さようなら……』
電話は切れた。滝澤は、不可解な早紀からの電話に唖然としている。
「さっきのって……別れの言葉よね? どう言う事? ちょっと!」
滝澤はすぐに早紀に電話をかけた。しかし、出ない。しばらく待ったがだめだ。
「早紀……何があったっていうのよ」
滝澤は、由衣のマンションがある方を、無意識のうちに見た。
由衣は部屋の中を見渡した。
――早紀は、わたしに愛想を尽かして去って行った。当然だ。こんなばかな人間に、あんなに優しくしてくれたというのに。
「早紀……」
早紀と一緒にまた暮らしたい。やり直したい。でも……もう早紀はいない。
由衣はこの時、心の奥底にほんのわずかな光が灯っている事に気がついた。今までにはなかった感覚だった。
――それでも……それでも、どうしても早紀を失いたくない。
——早紀と一緒に暮らしたい。
その強い気持ちは、今までにない気持ちだった。いつも最後には諦めて逃げてしまった。また同じ事を繰り返すのか? いや、だめだ。
閉じこもりたい気分を振り払って、すぐに早紀に電話をした。しかし通話中の様で、電話に出ない。
肩を落としたまま電話をきると、由衣はうなだれた。
――早紀は……早紀はどこにいるのか。あって謝りたい。そして、また一緒に暮らしたい。
しかしだめだった。手がかりになる様な事がなくて、まったく見当もつかない。バイト先か、どこかにきてみたらどうか、そういった事も少し考えたが、多分だめな気がする。
しかし由衣はさらに思考した。それでも諦めたくなかった。自身の持てるすべての思考を全開にした。
絶対に早紀を行かせてはだめだ。なぜなら由衣の直感が、このまま別れたままなら、もう二度と会えない、そう訴えていた。
由衣は、早紀の行方を知るために思考を全開させた。
この時、これは初めての事だろう。
今後、何十年か後に<発症者>の中の、ごく一部だけが<魔法使い>と呼ばれるほどの超人的な予測ができる様になる。ありとあらゆる情報をすべて、その凄まじい記憶力と思考能力を駆使して、この後に起こる事を正確に知るの事ができる。未来予知と言っても過言ではないほどの予測が。
由衣の頭脳は、人知をはるかに超越している。普段は対して使っていないので、あまりそういう事を実感できないが、実は由衣の予測はもう<魔法使い>の域に達しているのだ。
深く、さらに深く、思考していく。ひたすら早紀の、これまでの行動パターンを考慮して、さまざまな結果を導き出す。
——オーストリアに行こうとしているであろう事は、間違いないと断言できる。予測結果がそう結論を出している。
しかし……まだ、これではだめだ。結論が複数あって、それぞれを確認するためには、時間がかかる。由衣に残された時間はそれほどないと、由衣の頭脳が警告していた。
――もっと……もっと、絞らないと。
しかし、思考の土台になる情報が足りない。こればかりはどうにもならなかった。由衣の心は諦めの色に侵食され、暗く絶望的な色に染まっていく。
――もう、だめなのか。ここまでなのか。わたしの頭なんて、こんなものか。早紀ひとり探す頭もないのか。
――いや、そんな事はない。そんなわけはない。わたしの頭脳はそんなものじゃない。
――早紀の情報が足りない? 必要な情報がない? だったら、ないものは生み出せばいい。最初からすべて演算して、そして早紀の居場所を予測したらいい。
早紀の子供の頃。そして、今まで聞いた早紀の人生。それらをすべて、一から予測した。可能性をひとつづつ消して、大まかに聞いていただけの早紀の人生を、詳細にシミュレーションした。
ほぼ完全に、正確に辿っていく早紀の人生。由衣のこの<予測>は、もはや<予知>能力といっても過言ではなかった。
「っ! い、痛……」
由衣は頭を押さえた。頭に痛みが走り、思考を阻む。あまりに急激に思考を繰り返したばかりに脳が悲鳴をあげている。頭脳の使いすぎだ。しかし、そんな事で躊躇していられない。痛みに構わず思考を再開した。
頭が熱を持ち始め、思考がぼやけそうになる。しかし、それでもやめなかった。どれだけ痛かろうが、辛かろうが、絶対に諦めない。
よろよろと体のバランスを失い、倒れそうになる。しかし必死にこらえて、立て膝で止まった。思考をやめない。結論を導きだす為に。――絶対に。
それから十分程度で、結論を導き出した。
「……早紀。——岡山駅に、いる。十八時二十六分東京行きの……新幹線に乗るつもり……だ。間違いない……!」
由衣は時計を見た。午後六時前である。およそ三十分程度。もうあまり時間がない。
――どうする? どうしたらいい? 由衣は考えるが、早紀に追いつく方法が思いつかない。どの交通手段も基本的に無理だと、由衣の頭脳は結論を出していた。
マンションから岡山駅までは、だいたい五キロ程度の距離。車では十分かかるかくらいだ。ただし、それは普通に走れたらの話である。岡山市の中心部である、この辺りの道路はおそらくかなり混んでいる。今がちょうど通勤時間なのもまずい。早くても二十分以上はかかるのではないかと想像できた。駅構内に向かう時間も考えたら、とても間に合わないだろう。由衣の表情が再び沈んでいく。
そんな絶望的な中で、途方にくれたその瞬間、電話が鳴った。画面を見ると、滝澤だ。由衣は電話に出た。
「もしもし……」
『由衣! あんた、何をしたのよ!』
出るなり、滝澤の怒号が響いた。
「あ、あの、先生……」
『早紀から別れの挨拶されたのよ! 何があったか説明しなさいよ!』
「早紀が……?」
『ただ事じゃないでしょ。かなり深刻な事があったんじゃないの?』
由衣が言おうとする前に、滝澤は何か考えたのか、言葉を遮る様に言った。
『……まあ、いいわ。今すぐマンションに行くから、あんたは一秒でも早く、マンションの前まで出てきなさい!』
「は、はい!」
由衣は電話をきると、すぐさま駆け出した。
由衣が慌ててマンションから飛び出してくると、向こうからものすごい爆音を響かせながら、青い車が走ってきた。そして、その車はマンションの敷地前にピタリと止まった。運転席の窓を開けて叫ぶ。滝澤だった。
「乗りなさい!」
「は、はい」
由衣は助手席の方に回って車に乗り込んだ。
「あの、先生――」
「――どこに行くの」
「え?」
「どこに行ったらいいのよ。どこに由衣を連れて行ったらいいの?」
「せ、先生……」
由衣は滝澤の顔を見た。まだ事情は話していないが、何か直感でも閃いたのだろうか、由衣のしなくてはならない事がわかっている様だった。
「――岡山駅まで。岡山駅まで、お願いします」
「OK、由衣。詳しい事情は走りながら聞かせてもらうわ」
滝澤はアクセルを踏み込んだ。
「――六時二十六分の新幹線で早紀が行ってしまうんです。わたしがばかで、全然だめで……そのせいで……」
「その辺はいいわ。とりあえずその時間まで連れて行けばいいのね」
「でも、もうあと二十分かそこらしか……」
「それだけ時間があれば十分よ。シートベルトはしっかり締めときなさい! 十分で駅まで送ってあげるわ」
「じゅ、十分? いくら何でも……」
「『金甲山の赤い稲妻』と呼ばれた、この滝澤睦美を見くびらないでくれる? 私と、このWRXStiより速い車はないわ!」
金甲山は、岡山県南部、児島半島中部にある山だ。展望台からの景色がいい。頂上までの道路は、昔は走り屋がよく競争をしていた。鷲羽山などとともに有名な場所だ。今ではもう見かけなくなったが。
「い、稲妻ですか……」
「今度、ドライブ行きましょ。楽しいわよ」
「いえ、遠慮しときます……」
「ふふ、遠慮する事はないわ。みんなで楽しみましょ。そう、早紀も一緒にね」
滝澤はそういうと、ちらりと由衣を見て微笑んだ。その笑みを見て、由衣も微笑み返した。
「……先生。はい、必ず」