四
「ただいま」
早紀は玄関に入るなりそう言った。少し恥ずかしそうに由衣を見て、そして少しだけ笑った。
「こんな事を言ったのは、何年ぶりかしらね。大人になってからは、ずっとひとりで暮らしていたから……」
「今日からは、わたしがいるんだよ。――早紀、おかえりなさい」
由衣もそう言って微笑んだ。
帰ってくると、早紀はすぐに調理に取り掛かった。早紀のその行動はとてもスムーズで、あっという間にジャガイモの皮をむいて、小さく切って、ニンジンも玉ねぎも……。
由衣は、何か手伝おうかと思ったが、むしろ邪魔になりそうだったので、やめておいた。
「由衣、そういえばスプーンとかは、どこにしまってあるの?」
「ええと、確かここだったと思う……って、あれ?」
そう言って開けた引き出しには違うものがあった。
「おかしいな、ここかと思ったんだけど……あ、そうか。こっちだ」
そう言って由衣はダイニングキッチンから出て行った。それから少しして、段ボールの小さな箱を持って戻ってきた。
「それは何?」
早紀は不思議に思って尋ねた。
「これは、スプーンやフォークなんかが入っている箱だね。マンションに引っ越した際に、梱包したまま出してなかったんだ」
由衣は、段ボールを開けてスプーンや箸を取り出した。
「え? じゃあ、今までどうやって食べていたの?」
「ああ、割り箸があるじゃん。それで食べて、使ったらポイッて」
「そ、そう……」
早紀は由衣の適当ぶりに、少々引いている感じだ。由衣もそれを感じ取ったのか「わ、わたしはよく弁当とか食べたりしてたから……」と言い訳がましい事を言い始めた。
「ま、まあ、これからはちゃんと使いましょうね。あるのだから」
「はは、そうだね……」
出来上がったカレーライス。口に入れるまでもなく、絶対おいしいと断言できるいい匂いだ。
「いただきます!」
「いただきます」
由衣はひと口、口に入れた。
「うぅん、おいしい! とってもうまい!」
「うふふ、ありがとう、由衣。がんばった甲斐があったわ」
早紀はとても嬉しそうだ。実は、何種類かの一般的な料理を勉強していたらしい。ドイツに帰ららなくていいと通達があった後、日本で暮らす為、まずこちらの料理を覚えようと、いろいろ食べてみたり、レシピの本やネットをみたりしていたという。
「味もいいけど、この小さめの野菜もいいね。親の作ったやつなんて、ニンジンが大きくてね。しかもキノコとか入れるし」
由衣の実家で食べるカレーライスは、ニンジンやジャガイモがかなり大きめだった。特にニンジンは由衣は美味しくないと考えている野菜のひとつで、大きいとニンジンの味が強すぎて食べ辛いのだ。いつもこの半分のサイズにすればいいのに、などと思っていた。割と情けない理由の様だが、本人にとっては重要な事の様だった。
また、キノコを入れるのも困りものだった。特に珍しいわけではないだろうが、由衣が思うに、カレーとキノコはあわない。カレーに対して、あの食感がどうも好みではないらしい。
「由衣は料理の好みが細かいのね。おいしく食べてもらいたいから、遠慮なく言ってね」
「うん、そうする」
由衣は水をひと口飲んでそう言った。由衣は好き嫌いが多い。今の姿になって、体質的にダメなものもあるが、単なる味の好みでもさらに増えた。
「今までろくな食事ができてなかったから、早紀に作ってもらえるなら、本当に助かるんだ」
「私、頑張るわ!」
早紀の嬉しそうな顔がとても眩しかった。
「――それにしても早紀って料理うまいね。こんなにおいしい料理食べたの初めてかも」
「嬉しいわ、これからも頑張って作るわね」
実際、かなりおいしかった。由衣自体が、それなりにおいしいと思えば、あまり味にはこだわらない事もあるが、それでも早紀の料理はおいしい。今はカレーライスなので、そこまで味の個性はないのかもしれないが、後々、今まで食べてきた料理に比べて、早紀の料理が明らかにおいしい事を思い知っていく事になる。
「ごちそうさま。もうお腹いっぱいだね」
「また作るね。由衣は好きみたいだから」
早紀は微笑んだ。
「さあて、テレビでもつけてみるかな」
由衣はテレビのリモコンを手にとって、スイッチを入れた。部屋の大きさに比べて、少々こじんまりとした感のある三十二インチのテレビは、少しの間をおいて画面が映った。
「ああ、つまんないバラエティなんてやってる。あの芸人、何が面白いんだろうね」
由衣は、お笑い芸人が馬鹿騒ぎしているバラエティ番組をあまり好まない。もともと騒がしいのを嫌う性格もあるのだろうが、テレビの中で芸人の出演率が、あまりにも高いのが気に入らない様子だ。
お笑い芸人だって、みんな必死になって売れようと頑張っているのだろう。しかし、由衣にはそうやってテレビで出しゃばってくるのが嫌なのだ。
「楽しそうに笑っているわ」
早紀はニコニコしながらテレビを見ている。
「早紀は日本の番組が珍しいだけじゃないのかな。お笑い芸人に番組を占領されてるんだよ。あいつら、どこにでもノコノコ出しゃばってくるんだから。今や、報道番組にすら出しゃばってくるし」
ちなみに、午後十時からやっている「ニュースディ」の三人いるコメンテーターのひとりが、お笑い芸人である。真面目っぽい事を言うついでに笑いを取ろうとするのが、由衣の癇に障りずっと見ていない。
「そうなの、由衣は詳しいのね。評論家みたいだわ」
「ああ、いや……ちょっとねえ」
由衣はちょっと調子に乗って語りすぎたかなと思って言葉を濁した。
ふと、先ほどの夕食の後片付けがまだだった事を思い出した。
「おっと、食器を洗っとかないと……」
「由衣はゆっくりしてて。私がするわ」
そう言って早紀は立ち上がった。
「いや、こういう事はちゃんとやるべきだと思うんだ。それにふたりでした方が早く終わるし」
「由衣……うん、わかったわ。由衣は優しいのね」
早紀の笑顔が眩しい。
最近は非常に高性能な全自動食器洗い機が登場して、かなり人気があるのだが、あまり自分で料理しない由衣には、食器を洗う機会そのものが少なく、まだ買っていない。
「由衣、何か拭くものはないの?」
「布巾の事? ああ、ない……な。とりあえずタオルで」
「ええ、それでいいわ」
由衣は自分の部屋に戻って、小さめのタオルを二、三枚持ってキッチンに帰ってきた。
「はい、とりあえずこれで」
「うん。由衣、そっちのはもう洗ったから、それは拭いてほしいの」
早紀はそう言って、スプーンやコップを指差した。
「わかった」
由衣は濡れているコップを手に取ると、持って来たタオルで拭いた。外側を拭いて、そして内側。簡単な作業である。コップが拭けたら次はスプーンだ。スプーンが終わると、早紀も皿を拭き終えているので片付けは終わった。
再びリビングのソファに寝転がってくつろぐ由衣。早紀は買ってきた布団を自分の部屋に敷きに行った。
クッションを抱いてうつ伏せに寝転んだまま、iPhoneをいじっている由衣。着替えたスカートが捲れたままになっているのに気がついていない。
リビングに戻ってきた早紀は、由衣の姿を見て言った。
「由衣、スカートが捲れているわ」
そう言って、由衣の丸見えのお尻にスカートを直してやった。
「あ、はは……ありがと」
由衣が照れ隠しに笑うと、早紀も一緒に笑った。
「――さあ、もうそろそろ寝ようかな。十二時過ぎたし」
「そうね、お休みなさい。由衣」
「おやすみ」
こうして、ふたりの一日は終わっていった。