三
由衣はただ呆然としていた。頭が混乱している。まともに考える事ができない。目の前が真っ暗になった。
しばらく佇んで、そのメモを静かにテーブルの上に戻すと、倒れこむ様にソファにへたり込んだ。
――早紀、ごめん。ごめんなさい。わたしがこんなだから……。
そのままソファに寝転がると、目を閉じて、ただずっと放心していた。
しばらくして起き上がると、ふらふらとリビングを出た。そして、無意識のうちに早紀の部屋の前にやってきた。
人のいる気配はない。このドアの向こうに早紀はいない。少し間を置いた後、由衣は早紀の部屋に入った。早紀が来る前からも、その後も滅多に入らない部屋。前に入ったのはいつだったろうか。
部屋の中は前の記憶から変わっていない。物がほとんどない部屋。ベッドと机。それに箪笥がひとつ。
思い出をたどるかの様に、由衣はふと五段ある箪笥の一番上の引き出しを開けた。小物類がいくつか入っている。次に隣の引き出しを開けた。ここには何かの用紙だとか、ノートの類があった。
この用紙は履歴書だ。アルバイト用に買った余りだろう。それを引き出しの中に戻すと、一冊のノートを手に取った。ごく一般的な大学ノートだ。日記帳ではなく、こういうノートに書くところが、早紀らしいといえば早紀らしい。表紙には、ただ『日記』とだけ書かれていた。
ノートを開くと、早紀がマンションにやってきた日の日付から始まっていた。由衣と一緒に住む事に対する期待や喜びが書かれている。その後も、その日何があったかなど、様々な事が詳細に書かれていた。
子供の頃に岡山に住んでいた際、親しかった隣の角川家の人と再会した事。そして、由衣がかつて大好きだった男の子であったという事。
由衣の従姉妹でもある、隣家のお姉ちゃん――景子と再会した事。
滝澤睦美という、変わっているけどとてもいい友人ができた事。
老人ホームにて、長い年月の果てに結ばれた老人達の事。
由衣と一緒に自転車を買って、滝澤と三人でサイクリングに行った事。
海水浴に行って、楽しい時間を過ごせた事。
たった三、四ヶ月かそこらの出来事だが、それらの出来事を細かく書いてあり、そこからはいかに早紀が楽しく充実した日々を過ごせたであろう事がうかがい知れた。
また、由衣の好みや、行動など研究して、どうしたら由衣に喜んでもらえるか、楽しく暮らしていけるのか、そんな事も詳細に書かれていた。中には由衣自身でも気がついていない様な、些細な事もあった。光男にもそれらしい事を言われたが、これを見て初めて実感が湧いてきた気分だった。
由衣が、なんの苦労もなく、気にする事もなく暮らしていたのは、早紀が、早紀が……いたから……いてくれたから。早紀が気を利かせてくれていたから。
――わたし、そんな事もわからずに、早紀に甘えていた。
――わたし、早紀の事なんか何にも考えずに、無神経な事をたくさんしてきた。
わたし……わたし、ばかだ……大ばかだ。こんなにも、早紀はわたしの事を気にかけてくれていたのに。
手に持った、ノートに雫が一滴落ちた。紙に吸われて小さく広がる染み。また一滴落ちた。そしてまた一滴。ノートの染みは大きくなっていく。
「……早紀」
由衣はノートを閉じると、そっと両手で抱きしめた。うつむき抱きしめたまま、由衣は崩れ落ちる様にひざまづいた。
しんとした部屋に、由衣の泣き声だけがしていた。