四
「お母様と一緒に暮らした方がいいわ」
早紀は言った。真剣な目で由衣をじっと見つめている。しかし、その表情には戸惑いを隠せない。
「でも……ここに、うちの親を住まわせるわけにはいかないよ」
しかし、由衣はそれを否定した。
「お母様は今、辛い思いをしてるわ。由衣がそばにいる事で、少しでも和らげられるのであれば、そうするべきだわ」
「それは考えすぎだよ。そこまでする事はない」
「でも、由衣がそれを言ったのは、由衣もお母様と暮らしたいと考えているからじゃないかしら」
早紀の言葉に、由衣は内心動揺した。図星だったのかもしれない。一緒になんて住みたくない。でも、辛そうな母の姿は、由衣の心を揺さぶるに十分だった。
しかし由衣には、同時に自分の生活に侵食してくる、両親への反発も高まっていた。
「早紀はどうするのさ。一緒に住むって事は、早紀も一緒に住むか、出て行く事になるって事だよ」
「一緒に住んでもいいなら、それは願ってもない事よ」
「——でも早紀とは、一緒には住みたくないって言うかもしれない。そうしたら、早紀は出て行かなきゃならないかもしれない」
「そうしなくてはならないなら、そうするわ。家族というのは大切なものなのよ」
早紀は、幼い頃に両親と死別しており、家族とか、親というものに対して、とても特別な思いを抱いている。その両親が苦しんでいるとなると、当然の様に、すべてに優先される事だった。
しかし、そんな早紀の思いとは裏腹に、由衣は、自分より親の味方をしていると感じた様で、癇に障った。
「お母様を大切にして。かけがえのないものよ」
早紀は、訴える様な目で由衣を見ている。しかし由衣は、急に怒鳴った。
「お母様、お母様って! 早紀はどっちの味方なの!」
「え? ゆ、由衣。何を……」
「わたしよりも、うちの親が大切なわけ? それとも、もうわたしと一緒に住むのは嫌になった?」
由衣の嫌な部分が顔を覗かせる。戸惑う早紀に感情的な嫌味をぶつけた。自分のテリトリーに侵入しつつある親に対する反発を、早紀に当たっている様だ。
「そ、そんな事を言ってるんじゃ……」
泣きそうな顔で、言い篭る早紀。
「……もう、いいよ。早紀、もう寝よう」
由衣は、早紀を見る事なく、リビングを出ていった。
その日から由衣と早紀の間には、気まずい雰囲気が漂っていた。
心配そうに、由衣の様子を伺う早紀。由衣はそういう早紀の姿が煩わしく思えてきた。
「……朝ごはんよ」
「……うん」
何の会話もなく、ただ黙々と朝食を食べるふたり。
「そろそろ、仕事に行くわね」
「……うん」
そっけない返事に、早紀は少し不安そうな表情を見せたが、それを由衣が見る事はなかった。
由衣はソファにもたれて、ただ呆然と天井を眺めた。
――どうしたらいいだろう? 母と一緒に暮らす……正直、あまり気が進まない。でも、あの気落ちした姿を見ては……。
あまり好きになれない親だとしても、ここにきて突き放すのも気が引ける。少しくらいは親孝行しなくていいのか。それに、善彦ひとりに任せて良いのか……いや、善彦は寄生している方だろうから、いざという時に困った事にもならないだろうか。
考えれば考えるほど悩む。考えてもいい解決策というのは思い浮かばない。優れた頭脳を持っていても、全然だめだ。いや、これは頭脳云々よりも感情的な問題だろう。
由衣はこの事について一旦保留した。毎度そう言って、もう三日過ぎているのだが。
次に早紀の事を考えた。すごく美人で性格も良い、多くの人にとって、とても理想的な女性――早紀はまさにそんな人だ。でも、一緒に暮らしていると、時々、気になる部分が見えてくる。最初は特に気にしなくても、しばらくすると気になってくるのだ。
――早紀は、食事から掃除洗濯、日常生活に置いて必要な、ありとあらゆる事をすべてやってくれている。それはとてもありがたい事だと思う。しかしそんな事、今まで何年かひとり暮らしをしてきて、普通にやってきていた事なのだ。別に早紀がいるからできているという訳ではない。
この由衣の思い上がった考えは、早紀への不満からくる報復的な感情がそうさせているのだろう。早紀と暮らす様になって以来、家事の一切は早紀がやってくれているが、もうそれが当たり前になってしまっていて、早紀に甘えている状態に気がついていない。
――どうしようかな……再びそんな言葉が思い浮かんでくる。決意する事も出来ず、優柔不断な自分に嫌気がさしてくる前に、眠りに落ちていった。
「……由衣、由衣」
呼ぶ声がして、次第に意識が戻ってきた。
「――あ、早紀」
由衣はのろのろとソファから体を起こした。
「由衣、ごはんよ」
「うぅん……今日はいらない」
「少しでも食べないと。何だか顔色悪いわ」
「いいって。何も入りそうにないし」
「でも――」
「だから、いらないっていってるじゃないか!」
由衣は、つい大きな声が出た。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、わたしも……部屋で寝てるよ」
「そ、そう」
早紀はリビングを出て行く由衣をただ見守るしかなかった。
翌朝、由衣が起きてくると、早紀はすでに出勤した後だった。ダイニングテーブルにはメモが残されていて、もう仕事に行くという旨と、欲しくなくても朝ごはんは食べて欲しいという事が書かれていた。
コーヒーメーカーからポットを手にとって、カップにコーヒーを入れた。熱そうなので、冷蔵庫から氷を持ってきて入れた。ひと口飲んで時計を見る。もう午前十時を過ぎていた。
早紀は食べろというが、食欲もないので、手をつけなかった。コーヒーカップを持ってリビングに戻っていった。
「ただいま」
玄関から早紀の声がした。帰ってきた様だ。由衣は自分の部屋で、本を読んでいた。そのまま返事もせずに、本を読み続けた。
ふとドアを叩く音がした。
「由衣」
早紀の声だ。由衣は返事した。ドアが開いて、早紀が入ってきた。
「由衣、大丈夫?」
早紀は心配そうな顔で由衣の顔を見ている。
「……大丈夫」
「そ、そう。あまり無理しないでね」
「別に無理なんてしてないけど」
「ごめんなさい……由衣、何か食べたいものがある?」
「別に」
「そう……わ、わかったわ……」
早紀は部屋を出ていった。
由衣は思った。今のはさすがに、早紀を傷つける嫌な行為だ。あんなに優しい、由衣の事を考えてくれているというのに。そう思っても、なぜかそうやってしまう。
夕食が終わったあと、早紀が少し嬉しそうに話した。
「あの……ね。職場の先輩の大橋さんが、今度一緒に旅行に行かないかしら、って誘われたの」
「ふぅん、どうするの?」
「行く事にしているわ。由衣も、お父様が大変な時だし、親子の時間を作った方がいいわ」
早紀は、由衣に両親との時間を作った方がいいと考えていた。一緒に済むにしろ、今まで通り離れているにしろ、どちらがお互いにとって良いのか、それをためしてみる時間があった方がよいと思ったのだ。それもあり、ちょうど旅行の誘いがあって、それにのってみる事にした。
「そうなんだ」
「由衣。由衣もお母様と一緒に住んでみて、それでよく考えてみるといいわ」
「よく考えてって――ああそう。そういう事なんだ」
由衣の声は、少し棘のある風に聞こえる。
「え?」
「そうやって、わたしとお母さんを一緒に住まわせようって企んでいるわけだ」
「そ、そんな事……企んでいるなんて」
「それで、早紀は職場の人の方がいいんだね。ふぅん、やっぱ男かぁ。まあ楽しんできなよ」
「何を……それに大橋さんは女性よ。それにもうひとりのアルバイトの人も一緒だし」
「ああそう? いいねえ。ま、わたしは親に付き合って大変だけどねえ」
「ゆ、由衣。そんな言い方……由衣は、まずご両親とどう生きていけばいいか、少し考える時間があった方がいいわ。たとえ一日でも、二日でも、その方がいいと思うの」
「ああ、そうだねえ。じゃ、せいぜい楽しんできてね。じゃね」
由衣は席を立つと、困った顔の早紀を置き去りに自分の部屋に向かった。
早紀はベッドに寝転んで、今後の事を考えていた。
旅行の事は、どうも自分の考えはちゃんと伝わっていない様子だ。それだけではなく、悪い風に思われた様にとられた感じもする。失敗だっただろうか? やっぱり旅行は断ろうかな? そんな風に気持ちが傾いていた。
でも、由衣のお父様が病気になって、まさかこんな風に由衣と険悪になってしまうとは思ってもみなかった。……いや、由衣がそうなったのは、そこからではないだろう。もっと前だ。どこかそっけない態度になっていた。
由衣は、早紀の存在が迷惑に感じているのだろうか? そんな事を考えて、余計に気持ちは沈んでいった。
――私は……由衣の重荷でしかないのだろうか……。