二
「やっぱりいいわねえ、海よ。海!」
滝澤は思い切り背伸びをして、眼前に広がる海を見て言った。ここは岡山県南部、渋川海水浴場である。国道430号線を南下し、ちょうど海沿いに出てくるところにある。県内の海水浴場では、最もよく知られているのではなかろうか。
――結局、行く事になった。
「はあ、来ちゃったか……」
「ふふ、由衣。きっと楽しいわ。私、海は久しぶりなのよ」
運転席の早紀は、嬉しそうである。
「わたしも久しぶりだけどね。でもなあ」
由衣は車の助手席で、あまりいい顔をしていない。
「たまにはいいでしょ。引きこもってないで、外で遊びましょ」
滝澤は後部座席でのんびりしている。
「別に引きこもってはいないけど……そもそも、言い出しっぺが車を出さないなんて……」
今回、車で移動しているが、由衣のフォレスターで向かっている。
「私のWRXSTiじゃ、旅行に向かないでしょ。走りの車は、こんな快適じゃないわよ」
「……先生、よくそんな車に乗ってますね」
滝澤はスバルのスポーツカー「インプレッサWRXSTi」に乗っている。かなりのスバルマニアらしく、そのインプレッサもかなりいじっている様だ。あまり乗り心地がいい車ではないのは間違いなさそうだった。
渋川海水浴場、岡山県下最大の海水浴場で、毎年この時期には多くの人が訪れる。
由衣は目の前の建物を眺めた。旅館「渋川荘」だ。由衣達はこの旅館に泊まるのである。正面からの見た目は、瓦葺きの和風な佇まいだが、実は鉄筋コンクリートらしい。
正面から入ってすぐのところに、六台止められる駐車場がある。また、裏手にも駐車場があると滝澤は言っている。周囲は木々に囲まれ、涼しげな風が青々とした木の葉を揺らしていた。
「いらっしゃい! よく来てくれたわねえ、睦美姉さん」
丸々と太った旅館の女将は、満面の笑顔で三人を迎えた。
「久しぶりねえ。スミちゃん」
滝澤も久しぶりの再会に破顔した。
この女将は滝澤睦美の従姉妹で、川島澄子寿美子という。滝澤の父親の、弟の娘という関係になる。川島澄子の夫、哲夫の父が若い頃に玉野市に旅館を経営し始め、二十年ほど前に経営を引き継いだ。あまり経営状況は良くはないというが、今のところはまだ厳しいというわけでもないようだ。
滝澤は、襖の向こうから、こっそりとこちらを見ている子供を発見した。男の子だ。小学生――十歳くらいだろうか。
「あら、翔くん。こんにちは」
滝澤は笑顔で子供に声をかけた。しかし、その子は慌ててその場を立ち去った。
「翔太ったら、ちゃんと挨拶もしないで……ごめんなさいね」
「いいのよ。美女がたくさん来たから、恥ずかしくなったのかもしれないわ」
滝澤はそう言って笑った。
「ふふふ、そうね。みなさん、とっても綺麗な方ばかりで……」
それを聞いた滝澤は、両手を掲げて高らかに言った。
「この旅館も、男どもが押し寄せてくるわよ。私がここに泊まってる事に気がついたら」
「せ、先生。よく自分で言えますね……」
由衣は、いつもの事ながら呆れていた。正直、少し恥ずかしかった。
「ははは、睦美姉さんは変わらないわねえ」
女将は頰に手を当てて苦笑いした。どうやら昔からこういう性格の様だ。
「じゃあ、お部屋へ案内するわね」
由衣達は、女将の後について部屋に向かった。
この「渋川荘」は、あまり大きな旅館ではない。部屋は、新旧併せて十八あって、メインの新館と、初代の頃からある旧館に分かれる。旧館は古くなっており、現在はここには泊めていない。使っているのは新館の十二部屋だけだ。数年前から建て替えを計画しているが、あまり景気が良くなくて、なかなか実行に移せない様だ。
今日は四組の客がいて、由衣達で五組目の客だが、それでも半分も部屋が埋まっていない。繁盛期にもかかわらず、厳しい。来週から大型の団体客の予約があって、これに期待しているという。
「結構、綺麗な建物だなあ」
由衣はあちこちを見てつぶやいた。隣を歩いていた早紀も言う。
「楽しみだわ。どんなお部屋かしら」
その時、ふと何かが視界の端にうつった。そして、すぐに消えた。
「……あれ?」
「どうしたの? 由衣」
唖然とした表情の由衣に気がついた早紀が尋ねた。
「いや、さっきあそこに何か見えたんだけど……すぐに見えなくなったから」
それを聞いた滝澤は興味津々で由衣に尋ねる。
「なになに? 何か面白い事言わなかった?」
「いや、何でもないです」
「そんなわけないでしょ。ねえ、スミちゃん。ここ幽霊出るの?」
「せ、先生……」
由衣は、――それを女将さんに聞くかな、この人は……と呆れた。
「もう、姉さんったらぁ。出たりなんかしないわよ」
女将はそんな滝澤にも、まったく意に介していない様だ。さすが強い。
「ええ、本当にぃ?」
他愛ない事を言っているうちに、部屋に到着した。
「――わあ、いい眺めだ」
由衣は、案内された部屋からの眺めを見て声を上げた。
「本当、綺麗ね」
早紀も由衣の隣で嬉しそうに眺めている。
「でしょ。ここって少し高い丘にあるでしょ。で、あんまり高い建物もないから、開けてるのよね」
滝澤は、少し自慢げにふたりに説明した。
「あそこ、砂浜あるでしょ。あそこが渋川の海水浴場よ」
「へえ、見えるんだね。――結構人いるね」
渋川海岸にはすでにかなりの人がいた。今はシーズンの真っ最中である事もあり、かなりにぎやかそうだ。
「ねえ。ひと息ついたら、さっそく行ってみない?」
「まだ時間は余裕あるけど、明日にしない?」
由衣は時計を見た。午後三時過ぎだ。
「どうしてよ。いいじゃない、私も自慢の水着、早く披露したいのよ」
滝澤は、くねくねと色気を振りまきながら脱ぎ始めた。
「まったく。先生って、いっつも勝手なんだから……」
由衣は滝澤を見てぼやくと、自分のバッグを漁って水着を取り出した。
「うぅん、なんだかなあ……」
由衣は自分の水着を手にとって眺めた。先日、早紀と買いに行って選んだ水着だ。それを見た早紀が声をかけた。
「どうしたの、由衣?」
「なんていうか、水着って……いや、まあ……」
どうも由衣は、女性用の水着を着る事に抵抗がある様だった。普段、女性用の服や下着を着ているにもかかわらず、水着は嫌ならしい。
実をいうと、由衣が水着を着るのは今回が初めてだ。よくよく考えてみると、海水浴に最後に行ったのだって、たぶん二十代くらいなものだろう。もう二十年ぶりだ。
「じゃぁん! どう? どう? セクシーでしょ?」
滝澤は、すでに服の下に来ていたらしく、服を脱ぐとすぐに水着姿になった。体を隠している面積が小さい気がする、黒のビキニである。かなり露出度が高い様に見えた。
「先生、ちょっと恥ずかしくないですか?」
「どうしてよ?」
「いや、もう少し隠した方が……」
「由衣、なに言ってるのよ。オンナは見せてナンボよ。もちろん『見せて』の部分は、『魅せて』もかけているのよ」
滝澤は得意な顔で笑う。
「そ、そうですか……」
由衣も服を脱いで、下着姿になった。そしてその上からワンピースの水着を着ようとする。
「――ちょっと、下着は脱がないとダメでしょ?」
「いや、脱ぎ方にコツがあるんですよ。こうやって……」
由衣は水着を上に着たまま、ブラジャーのホックを外して、肩を抜いてブラジャーだけを脱いだ。
「こうすると、裸にならずに脱げるし」
滝澤は唖然とした、開いた口が塞がらない様だ。
「――って、何を中学生みたいな事をやってんのよ! 普通に着替えたらいいでしょうがっ」
「でも、ねえ。先生の視線が……」
由衣は、チラリと滝澤を不審な目で見た。
「誰も取って食おうなんてしないでしょ! 触っちゃうかもしれないけど」
滝澤は間伐入れずに、すばやく由衣の胸を両手で触った。
「せ、先生! 何をするんですか!」
「だってぇ、カワイイおっぱいが目の前にあるんですものぉ」
逃げる由衣を追いかける滝澤。バタバタを部屋の中を走り回っている。そろそろ苦情がきそうなタイミングで、早紀が叫んだ。
「由衣、先生!」
急な事に、足を止めるふたり。
「早紀、どうしたの?」
「何か……見られているわ」
「え、まさか覗き?」
由衣は驚いて、周囲を見渡した。滝澤は部屋の入り口、襖を開けて廊下を見た。
「いないわね」
「……気配が消えたわ。大丈夫。もういないと思うわ」
早紀は、もう周囲にこちらを見る気配が無くなったのを確認した。
「何なのかしら? ここ、そう簡単に覗きができるとは思わないけど」
滝澤は、今度は部屋を見て言った。実際、この部屋は二階であり、部屋も十六畳程度のワンルームである。室内も割合シンプルで隠れる様な場所はない。
「なんか、ちょっと怖いね」
「由衣、私がいるから大丈夫よ」
早紀はガッツポーズをとって微笑んだ。それに由衣も笑顔を返した。
「頼りにしてるよ、早紀」
「私も頼りにしてるわ。早紀」
滝澤もそう言って、早紀の腕に抱きついた。
「ええ、先生。安心してください」