一
「夏だねえ」
由衣は窓の外を眺めながらつぶやいた。
「まったく降らないわね、雨」
岡山県は、雨の少ない土地だ。そのために「晴れの国岡山」という標語まである。「大都会岡山」ではない。間違えないように。
「梅雨の頃はよく降ってたのに、開けた途端さっぱりだなあ。おかげでよく晴れてるよ」
「気温は三十度を超えているわ。暑くなったわね」
「もしかしたら、もう体温超えてるんじゃないの? シャレになってないね」
街の暑そうな景色を見ているだけで、体が暑くなってくる。
「私は、またサイクリングに行きたいわね」
「ええ、この暑さで? 修行じゃあるまいし、やめといた方がいいよ」
「そう? でも、由衣がそういうなら、そうするわ」
早紀はそう言って笑った。
「……そろそろお昼ね。由衣、暑くても少しくらい外に出ましょう。今日は、中村さんのお店で昼食にしたらどうかしら」
「うぅん、あんまり気が進まないけど、まあそういうなら……」
由衣と早紀は玄関に向かった。
「はぁ……生き返る」
由衣は店内に入った瞬間、気の抜けた様な言葉をつぶやいた。
ここは由衣の友人、中村の店「Y&H」。由衣は時々ここへ、食べにやってくる。大概は昼食だ。実はコーヒーがおいしいと密かに評判になっており、実際、由衣はここに来るとコーヒーも大抵飲む。
「いらっしゃい。昼かい?」
店長の中村は、入ってきた由衣と早紀に向かって微笑んだ。
「うん、オムライス。早紀は?」
「私もオムライスでいいわ」
中村が、オムライスを由衣達の前に持ってきた。
「――ここのところずっと暑いけど、由衣ちゃんは大丈夫かい?」
「暑いのは苦手だけど、このくらいなんでもないよ。ふふふ」
由衣は小さくガッツポーズをして平気っぷりをアピールした。それを見た早紀が笑顔で言った。
「あら、由衣ったら、ずっと外に出たくないって言ってたけど、どうしたのかしら」
「あ、もう、それ言っちゃダメだって」
ふたりは笑いあった。
「今日はお客さん、少ないですね」
「うん。結構、日によって波があってね。今日は残念ながら、あまり繁盛しない日みたいだねえ」
中村は、由衣と早紀の他に、スーツを着た中年の男性が、ひとりいるだけの店内を見た。
「こう言う商売は、なかなか大変ですね」
早紀が中村を見た。
「頻繁に来てくれる、常連さんがついててくれたらいいんだけどね——君達みたいな。まあ、世の中そうは簡単にはいかないよ」
スーツの男が席を立った。勘定を済ませて店を出ると、由衣と早紀だけになってしまった。
由衣達がオムライスを食べ終わる頃、入り口のドアが開いた。ようやく客が入ってきた様だ。すると、背後から聞いた事のある声がした。
「おお? これは、麗しの美少女がいるじゃないか」
そういって店に入ってきたのは、小野田だった。
小野田は、由衣や中村の友人である。彼は小説家だ。実は結構有名な作家で、瀬戸一郎の筆名で執筆している。
「やあ、由衣ちゃん。今日もカワイイねえ」
「ああ、どうも小野田さん」
「もしかして、僕に会いに来てくれたのかい? それは素敵だね!」
小野田は満面の笑みで由衣を見つめた。
「いや、たまたまですよ」
由衣も笑顔で否定するのだった。
小野田は、由衣の隣に座っている早紀を見つけ、驚きの表情と共に叫んだ。
「おお、これは……女神がこんな店にいるじゃないか!」
「女神って……」
由衣は、ちょっと古臭い表現だな、と呆れ顔で思った。
「初めまして、白鳥早紀と言います」
早紀は一度立ち上がって名乗った。
「早紀さんというのか。まさか君の様な美しい方がこの世に存在していようとは……おお、神は残酷だ! なぜ、今まで僕から隠し続けてきたのか!」
後半はなんだかよく分からない事を喋っていたが、早紀を口説く気満々の様子だ。しかし、由衣がすかさず言った。
「小野田さん、奥さんに言いつけますよ!」
「うう、痛いところを……由衣ちゃん、厳しいね」
「それにしても由衣ちゃん、君は美人が周囲にいていいねえ」
小野田は由衣の顔を見ると、ため息をついた。
「そうですか? そんな事はないと思いますけど」
「少なくとも早紀さんがいる事が、どう考えても羨ましい」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
由衣は笑った。
「——そういえば、小野田さん。先月に新作出てましたよね」
「うん? ああ、「法然」かい」
「そう、面白かったです」
『法然』はご存知、平安、鎌倉時代の著名な僧だ。岡山県出身の、浄土宗の開祖である。小野田――瀬戸一郎は岡山県出身の人物を主役とした歴史小説をよく書いている。今回もその流れである。ちなみに過去には、宇喜多直家、和気清麻呂、池田光政と津田永忠など。
「それは嬉しいねえ! お礼にチュウしちゃおうかな」
「それはセクハラですよ!」
由衣は、キスする様な仕草で近寄ってくる小野田から逃げている。
「小野田さんは、小説家なのですか?」
早紀は少し驚いた表情だ。それを聞いた小野田は、突然早紀の方を向いて生真面目な表情をして言った。
「そうなんですよ。早紀さん。今度、僕の本をプレゼントさせてください。サイン入りで」
フフ、決まった――とニヤリとした。しかし、早紀の返事はいまいち鈍い。
「そうですか。どうもありがとうございます」
微笑むと、コーヒーをひと口飲んだ。特段、好感度が上がった風ではない。
「……手強いね」
小野田は少し、がっかりした。
ふいに由衣のiPhoneに電話がかかってきた。
「あ、電話だ」ポケットから出すと、ディスプレイに表示されているのは滝澤だ。
「先生だ。何だろう?」
由衣は電話に出た。
「はい、早川です」
『ねえ、海行かない? 海!』
滝澤は開口一番、海に行こうと提案した。とてもストレートである。
「やめときます」
『どうしてよ? 即答しないでよ』
「なんか、気がすすまないなあ……」
『大丈夫よ。由衣は美少女だから。モテモテよ』
「いや、そういう事では……」
由衣は、それも嫌なんだが、と思った。
『絶対楽しいわよ。行きましょ! それに早紀にも言っといてよ。三人で行きましょ』
「なんだかなあ。なんで海に行きたいんですか?」
『夏よ、今は。海水浴の季節でしょ。詳細はまた連絡するわ、じゃ!』
「あ、ちょっと」
電話はきれた。
「まったく、強引だなあ」
由衣がブツブツ言っていると、小野田が寄ってきた。
「なんか海がどうこう言っていたけど、海水浴に行くのかい?」
小野田は嬉しそうに由衣を見た。
「友達がそう言っているだけです。まだ決めたわけじゃないです」
「僕も行きたいなあ。海水浴だろう。いいアイデアがわきそうだ」
「行ったらいいじゃないですか」
由衣は言った。
「ただ行くだけじゃ、だめなんだ。やっぱり君達と行きたいわけなんだよ」
「どうしてですか?」
「ひとりで行ったってつまらないだろう?」
小野田は、さも当然だという風だ。
「家族揃って行ったらいいじゃないですか」
「うちの子なんて、友達と遊ぶのと部活が忙しくていこうなんて言わんよ。カミさんも海なんて行きたがらんし」
小野田の息子は中学生で、サッカー部である。今は期末試験で忙しく、それが終わると夏休みで忙しい。
「それはそれで辛いですね……」
「だからね、僕は君達と行きたいんだよ。やっぱり海は友人達と行きたいね。そうだろう?」
小野田は力説した。しかし由衣の表情は、それを信じていない。
「——どうせ、女の子をナンパしたいだけじゃないですか? いい歳して」
軽蔑の眼差しで小野田を見た。
「そ、そんな事はないぞ。由衣ちゃんの可愛い姿もさる事ながら、早紀さんのパーフェクトな姿を拝見したいわけなんだよ。この美しい姿を!」
小野田は、早紀のそばによって、その美しさを踏めたたえている。
「……小野田さんは来ないでください」
「そ、そんな簡単に拒否しないでくれないか!」
「行くと決まったわけじゃありません」
「いいじゃないか!」
「よくないです!」
「騒々しいですね。……すいません」
早紀は、中村に言った。
「はは、あのふたりは仲がいいねえ。……ただ、もう少し落ち着いてほしいものだね」
中村は苦笑いした。