五
それから十五分程度で再開した。
「会いたかったわ! ああ、愛しのハニー達!」
滝澤は由衣と早紀に抱きついた。
「暑苦しいですよ先生。それに、調子にのるからそんな事になるんだし」
「でもねえ。私のデローザちゃんが、風になれって心の中で叫ぶのよ」
「……そんな声、聞かなきゃいいんですよ」
由衣は、苦々しく言い放った。早紀が苦笑する。
「それじゃ出発ね。国分寺で休憩しましょう」
「いやあ、いいね。絵になるなあ」
由衣は備中国分寺の南側から前方の建物を見て、iPhoneで写真を撮った。プロの腕には大きく及ばないが、どうも気にいったのか、その写真をiPhoneの壁紙に設定した。そこへ、早紀がやってくる。
「由衣、先生。飲み物を買ってきたわ」
早紀は、ふたりにペットボトルのスポーツドリンクを渡して、自分も近くのベンチに座って飲んだ。ひと口飲んで由衣達を見ると、「いい天気ね。由衣。あのお寺の方に行ってみる?」と言った。
「むぅ、ちょっと行ってみたい気がするけど……」
滝澤は、どうしたものかと思案している。
「まあ、わたしは遠慮しとくよ。この格好だし。でも先生はどうする——って先生、そういえば歩きにくくないですか?」
滝澤の履いている、ビンディングシューズの靴底には、ペダルと足を固定するクリートと呼ばれるアタッチメントがついている。これがあることもあって、いまいち歩きにくい。先ほど滝澤は、バランスを崩して転びそうになったりもした。
「ビンディングはまあ、これがネックね。デローザちゃんで行ったら怒られるだろうし」
「だと思うよ。ほら、あそこに<車の進入ご遠慮ください>って書いてる」
由衣は道の脇にある看板を指差した。
「そろそろ帰る?」
スポーツドリンクを飲み終えた早紀が提案した。
「まあ、そうねえ。体力も戻ったし」
「じゃあ、暗くなる前に帰ろう……ってまだ暗くはならないかな」
三人は、今度は家まで帰るために備中国分寺を発った。
帰りは国分寺の南を通る、県道270号線を走る。そのまま道なりに走ると、行きの際に通った180号線に合流する。吉備津神社より少し西の辺りに出てくるのだ。
「け、結構きついわね。の、のぼり坂じゃないの……」
「もう少ししたら、くだり坂よ。がんばって!」
いきなり坂道に苦労する滝澤を、早紀が応援する。そして、このゆるい坂道を登りきると、今度はゆるやかにくだっていく。
「ヤッホゥ! 私、風になってるわ!」
くだり坂になった途端、態度が一変する滝澤。調子に乗ってスピードアップした。
「あ、先生。ちょっと待って!」
由衣と早紀も少しスピードを上げた。しかし、あっという間に滝澤の後ろ姿は小さくなっていく。
「まったくもう。なんでまた突っ走るかな」
「もう道なりに進むだけだし、そう簡単には迷う事はないと思うけど……」
と、早紀は言うが、どこか心配な気がしてならないふたりだった。
「ふぅ、地味に大変だね」
また遭遇した、ゆるいのぼり坂をのぼり終えた由衣がつぶやいた。
「そうね。それにしても、先生の姿が見えないわ。どこまで行ったのかしら」
早紀は、くだり坂のずっと先を見るが、それらしい姿は見えない。そんな時、早紀の電話が鳴った。
「あら、先生からだわ」
早紀は電話に出た。由衣は嫌な予感がした。
『さぁきぃ……ここ、どこ……?』
滝澤の半泣き声が聞こえた。
「先生……」
どうやら嫌な予感は的中したらしい。
前と同じく地図で確認するに、造山古墳のそばにいる様だ。
造山古墳は全国四位の巨大古墳で、岡山県では一番大きい。また、人が自由に立ち入れる古墳では最も大きな古墳でもある。見た印象はただの山にも見える。しかも古墳の東側には集落があって、あまり古墳ぽくないかもしれない。
滝澤は、その集落の中にいる様だ。どこかで道を間違えて、そのまま迷い込んでしまったらしい。
『どうしたらいいの……ああもう!』
「先生、とりあえず集落の東側に出てください。南北を通る、あまり大きくない道があるはずです」
『ちょ、ちょっと待って……うぅん、こっちかな?』
移動しているみたいだ。
『――あ、ここかしら? 開けた長い道よ。ずっと続いてる。田んぼだらけねえ』
「そこにいてください。これからそちらに向かいます」
早紀は電話を切ると、「由衣、先生を迎えに行くわ」と言った。
「やれやれ……本当に困った人だなあ」
由衣は早紀の後ろをついて、滝澤の元に走った。
「早紀ぃ、由衣ぃ、寂しかったわ!」
早紀に抱きつく滝澤。かと思うと、
「もう、なんで古墳なんかに来たのかしら。どうなってんのよ!」
と、ひとり憤慨しているが、由衣は、
「いや、先生がなんかしょうもない事をして、道を間違えただけでしょ」
と、呆れ顔で言った。
「しょうもないって何よ。しょうもないって。失礼しちゃうわ」
「まあまあ。さあ行きましょう。こっちに来たのなら……この道を通ってみるのもいいかも」
そう言って、地図でルートを見せた。造山古墳の東側の山裾を通る狭い道で、ずっと平坦な道が続く。
「足守川まで出られるし、すぐに270号線に復帰できそうだね」
「ええ。そうしたらもう迷う事もないと思うわ——先生」
早紀は、滝澤の顔を見て微笑んだ。
「はは……もう今度は早紀の後をついて走るわ。疲れたし」
申し訳なさそうにつぶやくと、愛車にまたがって早紀の後に発進した。
180号線に戻ってきて、今度は来た道を戻っていく。時間は午後四時を過ぎた頃。まだまだ日は昇ったままだし、暑い。
吉備津神社まで来たところで、早紀が提案した。
「神社の手前まで行って、山裾を走ってみるのもいいかも」
「ちょうどいいわ、あそこはお店あるでしょ。休憩しよう」
しばらく走り続けていた事もあって、滝澤が休憩を希望した。
「そうだね。ひと息つきたい」
「じゃあ、そうしましょう」
由衣達は、自動販売機の近くの地べたにへたり込んだ。スポーツドリンクを飲んで、疲れを癒した。
「やっぱり足りないね」
由衣は、あっという間にスポーツドリンクを全部飲んでしまった。滝澤も空になったマイボトルを手にとってつぶやいた。
「ボトルを持ってきてたけど、国分寺まですらもたなかったし」
「先生はちょっと飲みすぎじゃないの?」
由衣は、とにかく頻繁に飲んでいた滝澤を見ていた。
「そんな事はないわよ。そのくらいよく飲まないと倒れるわよ」
「そうかなあ」
「水分補給はマメにした方がいいわ。無理は良くないわ」
早紀が言った。それを聞いた滝澤はニヤニヤしながら由衣を見た。
「さっすが、だよねえ。ねえ、由衣」
「う、まあ……」
「さあ、そろそろ出発した方がいいわ」
三人は再び走り出す。
吉備津神社の脇を通って、山裾の集落の中を走り抜けた。途中軽トラックがやってきて、端に寄ってすれ違ったりした。吉備津彦神社の前を通りすぎると、再び集落の中を通る。どんどん南下しており、少し街に入ってくると、正面に新幹線の高架が見える。
「何か帰ってきた感じだね」
「もう少し走って、山陽本線の下を抜けたら、もう少しだわ」
もうマンションまで一、二キロ程度のところまで帰ってきた。見慣れた景色が目の前に広がっている。
近所の大通りまでやってきた。由衣のマンションが見える。信号が変わるのを待って、道路を横断した。ここを渡ったら、もう信号はない。道なりに進むだけだ。
数分後にマンションに到着すると、由衣と滝澤は、ノロノロと自転車から降りて、マンション敷地内の花壇に腰をかけた。由衣はひと息つくと、サイクルコンピュータの走行距離を見た。約三十五キロである。よく走っている人からすると、大した距離ではないのだろうが、由衣の様な初心者では、かなり走った方だ。
「いやあ、なんとか帰ってこれたね」
「由衣、とってもがんばっていたわ。素敵よ」
早紀は、由衣を笑顔で抱きしめた。それを見た滝澤は、
「まあ、早紀。私もがんばったわよ。さあ、さあ!」
と言って由衣と早紀に抱きついた。
「あはは、ちょっと先生」
「また、一緒に走りましょ! 由衣、早紀!」
疲れているにもかかわらず、意外と滝澤は元気がいい。滝澤に頰ずりされながら、由衣は言った。
「先生、よかったらコーヒーでも飲んで帰る?」
「ええ、そうするわ」
「じゃあ、入りましょう。先生、できるまで、シャワーでも浴びててくださいね」
早紀がそういうと、三人揃ってマンションに入っていった。彼女達の背後の空は、そろそろ夕焼けに染まっていった。