一
七月の上旬、ようやく梅雨も明けて、暑い夏がやってきた。由衣にとっては、苦手な季節である。いや、暑いのも寒いのも苦手なのだけど。
由衣と早紀は、今日あるものを受け取りに行く。
それは自転車だ。それもスポーツタイプのもの――ロードバイクとかマウンテンバイクだとかいう自転車である。
由衣は発症前、自転車が趣味だった。会社への通勤は、片道十キロあったにもかかわらず、へっちゃらでクロスバイクで通っていた。現在は、この非力すぎる少女の身体であるがゆえ、自転車は大変で、長く乗っていない。以前はクロスバイクで通勤して、日曜日にはロードバイクで五、六十キロを走っていたのだが。
そんな由衣が今頃になって、どうして自転車にまた乗ろうと考えたのか。それには少し時間を遡る事になる。
二ヶ月ほど前……。
「――早紀、何を見てるの?」
「これよ。自転車よ」
早紀がiPadで見ているのは、サイクリング関連のブログだった。
そのブログは、知人の勧めでクロスバイクを買って通勤していたところ、次第にハマって現在では、ロードバイクで休日に百キロも走るなどして、それをブログで紹介しているのだ。
「へえ、ロードバイクかあ。いいね」
由衣もクロスバイクで通勤していた事があり、少し懐かしい。現在では体力的に長時間走るのは大変だろうが、それでも自転車は乗りやすいといえる。
「ヨーロッパは自転車のスポーツが人気があるわ。小さい時に両親に連れられて、ツール・ド・フランスを見に行った事があるのよ」
「へぇ。わたしも興味あったけど、とても見に行ったりはできなかったなあ」
「まだ小学生の頃だし、あまりよくわかってなかったけど、あの迫力だけはまだ憶えているのよ」
早紀は子供の頃、両親がまだ生きていた頃を思い出して、懐かしさに微笑みが漏れた。
「いいね。ロードバイクか……」
「お金が貯まったら、一台買ってみようかなと思っているの」
どうやら早紀は、ロードバイクを買おうと思って、いろいろとネットを調べていたらしい。
「買うんだ。どのメーカーを買うの?」
「まだ決めていないわ。二十万円前後のものを買おうかと思っているんだけど」
「そんな安物買うつもりなの? もっと高いのを買えばいいのに」
スポーツタイプの自転車というのは、値段を見るとピンキリだが、多くの人にとっては、「三十万円を超えるか」と、「二十万円を超えるか」という辺りが境目になるのではないだろうか。三十万円以上のモデルは、やはり高額モデルのイメージがある。二十万円以下のモデルは、いわゆるエントリーモデルで、買いやすいものの性能面では大した事はない。
「そんなにお金はないわ。それに十分よ。アルミ素材だし」
「やっぱりカーボンがいいよ。というよりも、わたしが買ってあげるから、もっといいのを買うべき」
「でも……いつも由衣に甘えてばかりじゃ……」
早紀は困った顔をしている。しかし、由衣いからしたら、お金に困る事ないのだから、いくらでも使ったらいいのだ。確かに自分で働いたお金で買うというのは、とても良い事だ。しかし、せっかくだからカッコイイやつに乗って欲しかった。
「早紀はいつも遠慮しすぎだよ。もっと甘えてほしいくらいなんだから」
実際には、由衣の方が早紀に甘えすぎているのも原因のひとつだが、それは言わなかった。
結局、早紀は最後まで自分のお金で買うと言った。そのため、安いロードを買う事になるわけだが……。
由衣達が自転車を買った店は、岡山市内にある割合新しい店だ。「サイクルベースSOMA」という。ここの店長である相馬一貴は、五年ほど前に大手自転車店から独立する形で、開業した。生真面目なところが面白くない、と言われる事もある様だが、逆にそれが信用できると評価されてもいる。
基本的にとても優秀で、自転車に関して、技術も経験も県下では一目置かれている。
「見えてきたよ」
「楽しみだわ」
早紀は五台停められる、広くない駐車場に車を入れた。三台止まっていたので、二台分空きスペースがあった。これはラッキーだった方で、午前中の早い時間にやってきたのが良かったのかもしれない。午後だとまず止められない事が多い。実は、初めて来た時は止められなくて、少し離れたところにある有料駐車場に止める羽目になっていた。
店の入り口には、まさに「走っています」という自己主張の強いロードバイクが、設置されたスタンドに並べられている。由衣は少し興奮気味に目の前のロードバイクを見た。
「あるねえ、どれもかっこいいね」
「選手がいるのかしら?」
「いや、それはないんじゃない?」
店に直接乗ってくる様な人は、どう考えてもアマチュア――ホビーレーサーというやつだろう。
「いらっしゃいませっ!」
入り口の近くにいた店員が、笑顔で出迎えた。
由衣と早紀は店の奥に入っていく。奥のカウンターに店長を見つけて声をかけようとして、反対に声をかけられた。
「いらっしゃいませ。ああ、白鳥さんと早川さんですね」
店長は笑顔で話す。まだ来店二回目だが、顔を憶えてくれている様だ。
「できていますよ。どうぞ、こちらへ」
そう言って、店内の一番奥のスペースに案内された。
「あ、いらっしゃいませ!」
店長の奥さんが、そこに置かれた二台の自転車をチェックしていた。
「こちらが白鳥さんの、コルナゴCXーZEROです。それから、こっちが早川さんのトレックFXです」
そうなのだ。実は、由衣も買っていた。以前乗っていた事もあり、今回がきっかけにまた乗りたいと思い始めたのだ。ただロードバイクは厳しいかもと思い、クロスバイクにしたが。もし楽しく乗れそうなら、後日ロードを買ってもいいと考えていた。ちなみに買ったのは、あまり高額なモデルではない。あまり高いやつを買って、マニアに目をつけられても面倒だと思ったからだ。自転車好きな連中は、知らない人でも割とすれ違いざまに挨拶したり、声をかけたりする。由衣は、自分がどのくらい走れるかまだ未知数だし、ろくに走れず、自転車ばかりが高級なのも格好が悪いと思った。
そして、早紀のロードバイクはコルナゴである。有名なイタリアのメーカーだ。その中でも中堅クラスのもので、約三十万円ほどだ。随分高額なものを選んだと思うかもしれないが、早紀はもっと安いものを選ぼうとしていた。
しかし店長は、安いものを買って、後で高いものに買い替えるよりも、初めから高いものを買ったほうが、結果的に満足できるという事と、この店では、カードが使える上にローンも組めるので、一括で払えなくても大丈夫だという。
それに由衣の説得もあって、より高額なモデルを買う事にしたのだった。
「うん、これで大丈夫」
店長と若い店員は、うまくフォレスターのラゲッジに二台の自転車を入れると、満足そうに微笑んだ。
「意外と入るものですね」
「うん、出す時も、こうやってこっちから出すと傷つけずに出せますよ」
店の不要な段ボールなどを間に挟んで、うまく置けるようにしてくれたのだ。
「――ありがとうございます。それでは」
早紀が店長達に言うと、店長の「ありがとうございました」という声に見送られて、由衣達は帰路についた。
マンションの駐車場で自転車を下ろした。
「久しぶりに乗るなあ。うまく乗れるかな?」
ニヤニヤしながら自転車をながめる由衣。
「大丈夫よ。ひと息ついたら乗ってみる?」
「いいね。そうしよう」
「——いいわ、いい調子よ」
早紀は、ヨタヨタとゆっくり進む由衣を応援している。
「――い、意外と……乗れる、かな?」
少し危なっかしい印象ではあるが、なんとか乗れている。スポーツタイプの自転車というのは、効率的にペダルを回せる様なサドル位置にセッティングされる。しかしこうすると、サドルに跨ったまま両足を地面につける事が出来ず、どうしても不安に感じてしまう。
「ガンバレ、由衣!」
早紀は笑顔で手を振っている。由衣の表情は、真剣そのものだ。しばらく乗り続けて、少し慣れてくると、「ちょっとマンションを一周してくると言って、駐車場から出て行った。
――なかなかいい感じ。
由衣は調子よく乗れている事に気分がよくなった。
ちなみに早紀は、いとも簡単にロードバイクを乗りこなしていた。相変わらずだが、早紀はすごい、と由衣は思った。