五
由衣は結局気になって、老人ホームへ足を運んだ。
「やっぱり言わなきゃ。どう考えてもおかしい」
なぜかこの件に関して、やたらと行動的な由衣。
「別に、早紀は来たくなければ来なくていいんだよ」
「ううん。由衣がどうしても、それが正しいと思うのなら、私も正しいと思うわ。さあ、行きましょう」
早紀はそう言って笑った。
玄関からエントランスに入った時、すぐにふたりの姿を発見した。由衣達はすぐに近づいた。それに気がついた村上は、由衣達に声をかけた。
「あら、由衣ちゃん。会いに来てくれたの?」
「ええ、村上さん。……ちょっとお話があるんです」
「あら、そうなの? でも、ちょっと待ってもらえるかしら?」
「はい?」
すると、今度は遠藤が口を開いた。
「お嬢ちゃん。俺はこれから歩く。あの紫陽花のところまでな」
「え? 紫陽花のところって……大丈夫なんですか? まだ立てるのも困難だった様な。それに外は雨ですよ」
由衣は心配そうである。そもそも重症にもかかわらず、そんな事をしてもいいのか、と思った。
「大丈夫だ。雨がなんだ。俺はできる。歩けるんだ」
「あの、村上さん……」
「由衣ちゃん。黙って見守っててあげて。お願い」
玄関を出て屋根の下、そこで遠藤は立った。前にはかなり苦労していたはずだが、ゆっくりとはいえ、普通に立ち上がった。足は少し震えていた。
「遠藤さん、落ち着いて」
「ああ」
遠藤はゆっくりと一歩を踏み出した。そして今度はもう片方の足を出す。
実にゆっくりだが、それでも倒れる事なく一歩一歩前進していった。
屋根の下から外れると、遠藤は雨に打たれて、すぐに濡れていった。
「あの、傘をさしてあげたら……」
由衣が村上に言うが、遠藤は、「大丈夫だ」とひと言だけ言って、構わず歩き続ける。
「すごい……遠藤さん、本当に歩けているわ」
早紀もまさかと思ったのか、驚いている様子だ。
「この間では、まだ歩くなんて到底無理だと思ったけど……すごい」
——とうとう紫陽花のすぐ近くまでやってきた。しかし、遠藤も限界が近いのか、相当苦しそうである。
「まだ……だ。もう一歩。あと一歩」
遠藤はうつむいた顔を上げ、正面を見た。
その先には村上がいた。
「浩平さん。もうひと息よ。がんばって」
「ふ、ふふ。佐和子さん……」
遠藤はまた一歩を踏み出した。そしてまた一歩。
最後の一歩を踏み出すと、その勢いで倒れそうになった。が、遠藤は暖かな温もりに包まれた。
「さ、佐和子さん……」
「浩平さん、とうとうたどり着けたのね」
「……俺は、まだやれる。きっと、きっと普通に歩ける様になって……きっと佐和子さんを迎えに行く。今度は、待っていてくれるかな?」
「浩平さん……。ええ、待ってます。あなたが来てくれるまで。きっと……」
ふたりは抱き合った。お互い泣いていた。ずっと、ずっと……。
「——あぁあ、まったく。こんなの小説の中だけだと思ってたよ」
由衣は照れくさそうな表情である。人目をはばからず、抱き合うふたりを見て恥ずかしくなってきたらしい。
「うふふ、でも遠藤さんも、村上さんも幸せそうだわ」
「はは、そうだね。……あ、雨止んだみたいだね」
「そうね。晴れ間が見えてきたわ」
「本当だ。もう晴れてきたのか……早紀、帰ろうか。邪魔しちゃ悪いし」
「ええ、晩御飯の買い物をして帰りましょう。由衣はなにが食べたい?」
「じゃあ……ハンバーグだね。早紀のハンバーグは本当においしいし」
「じゃあ、そうするね」
由衣と早紀は、そっと老人ホームを後にした。
それからしばらく後、再び車椅子に乗せられる遠藤。ふと気がついて、そばにいた村上に尋ねた。
「そういえば、あのお嬢ちゃん達はなんて名前だ? よく考えたら名前を聞いとらんかったな」
「あら、言ってなかったかしら? 背の高い綺麗な人が早紀さん。もうひとりの可愛らしい女の子が由衣ちゃんよ」
「由衣……ああ、そうだ。そういえばそう言ってたな」
「そう。苗字は確か、早川よ」
それを聞いた遠藤は、少し考えて驚きの表情になった。
「早川……早川? じゃあ、早川由衣というのか?」
「そうよ」
村上は不思議そうな顔をして遠藤を見た。
「まさか、あの子が……そうか、そうだったか」
「どうしたの?」
「いや、また会ったら……ちゃんとお礼を言わないとな」
そう言うと、遠藤は村上に笑顔を向けた。
「うふふ、そうね」
雨は止んで、先ほどまでの天気が嘘の様に、青く晴れわたっていた。ふと空を見上げれば、綺麗な虹がかかっている。目の前には、雨に濡れた紫陽花の花が、雨粒を滴らせて輝いていた。