四
それから二、三日ほど後に、ふたたびやってきた。遠藤はあれからずっと頑張っている様だ。
「大したもんだね」
「ええ、そうね」
ふたりは微笑みあった。
村上が由衣達を見つけて、敷地内に招いてくれた。
「遠藤さん、本当によかったわ」
「そうですね。続けている様でなによりです。きっと、よくなりますよ」
「本当、由衣ちゃんのおかげだわ。どうもありがとう」
村上は由衣に笑顔を向けた。
「ははは、いやまあ」
由衣は、照れくさそうに笑った。
それからしばらく他愛ない話をして、会話が途切れた時を見計らうと、由衣は村上に話を切り出した。
「あの……村上さん」
「なあに?」
村上は、妙に神妙な顔つきの由衣を、不思議そうに見ている。
「……村上さんって、旧姓を長岡というんじゃないですか?」
村上の表情が一瞬止まった様に見えた。
「……ええ、そうよ。——遠藤さんから聞いたの?」
村上は由衣から視線を逸らした。ずっと向こうの空を眺めた。
「はい。村上さん、わかっているんじゃないですか? 遠藤さんが言っていました。遠藤さんには、若い時に交際していた年上の女性がいたって。そしてその人は……その人は、村上さんは、遠藤さんが昔の恋人だったって、わかっているんじゃないですか?」
「そうよ、ええ。わかっているわ。でもね。もう――終わった事なのよ」
村上は由衣の方を見ていない。ずっと向こう。多分、遠藤のいる方を見ているのだろう。
由衣は言った。
「——村上さんは、<発症者>ですね? 『若返り』ではないですか?」
村上は特に驚いた様子もなく、肯定した。
「ええ、そうよ。<発症者>だわ。それも、由衣ちゃんの言う通り『若返り』のね。別に隠してるわけじゃないのだけど。ただ言いそびれて……」
村上は、四年ほど前に発症した。身体年齢は五十七歳で、五歳、若返っていた。村上の場合、症状は軽いが『若返り』はその特殊さゆえに、容姿が著しく変貌する場合が多い。どうやら村上も、大分変わっている様子だった。
「病気のせいで、顔が変わってしまっているの。だから、遠藤さんも気が付いていない。だからいいの。そのままで」
「そんな……」
「知らなくてもいい事は、知らなくてもいいのよ。由衣ちゃん。大人になったらわかるわ」
「でも——村上さん。もしかしたら、遠藤さんの事をまだ好きでいるんじゃないですか?」
村上は答えない。
「本当にいいんですか? 村上さんも、遠藤さんも!」
由衣は、村上に詰め寄った。その勢いに、早紀が制止した。
「なにも気にする事はないじゃないですか」
「……いいのよ。本当に……」
村上はそれだけ言って、あとはもう話さなかった。
あれから一週間が過ぎた。窓の外は雨模様。由衣は、雨の街を眺めながらつぶやいた。
「村上さん……どうしたんだろう?」
「由衣、ふたりとも交際していた頃と違って、もう大人だわ。自分で考えて、自分で行動する。ふたりの事はふたりの事。そっとしておいたほうがいいと思うわ」
「まあ、そうなんだけど……」
早紀は、そっとしておいた方がいいという。それはそうだろう。でも、このままではしっくりこない。そう思うと、やはりなにかもどかしい気分だ。
雨の日の老人ホームでは、もちろん外に出ている人はいない。天気のよい日は、大抵ひとりかふたりは外にいる事も多いのだが。
由衣と同じ時間、やはり窓の外を眺める老人がいる。遠藤は隣にいた村上の方を向かず、声をかけた。
「村上さん。……いや、佐和子さん」
「え? 遠藤さん……」
突然名前で呼ばれた事に、村上は驚いた。
「あんたは——佐和子さん、長岡の佐和子さんなんだろう? 俺の事は気がついているだろう。もういい。もう隠さなくてもいいんだ」
村上も窓の外を眺めたまま、小さくため息をついた。
「わかっちゃった……か。誰かに教えてもらった? ——もしかして」
「いや、最近気がついた。ここのところ、ずっとリハビリをやっている。そんな中で、一緒にいる時間も増えた——もう、教えてもらうまでもない。腑抜けていた時は、まったく気がつかんかったが」
「……ごめんなさい」
「佐和子さん。あんたも発症していたんだな。顔が変わっても、俺の記憶にある、佐和子さんの仕草や癖は、やはり変わっていない。もう間違いないと感じたよ」
「遠藤さん……私、私……」
むつむく村上。
「もう謝らなくてもいい。むしろ謝らなくてはならないのは、俺の方だ。現実に目を向けられず逃げ出した俺の方なんだ」
「遠藤さん……」
「すまない。でも、もう俺は逃げない。病気からも、そして——佐和子さんからも」
遠藤は、村上に手を差し出した。村上はその手を握った。皺の多い老人の手は、その見た目とは裏腹にとても力強かった。
「あれから長い月日が経った。お互いに歳をとった。そして偶然にも、出会ってしまった。俺はしばらく止まったままだったが、これから歩きだすんだ」
遠藤の言葉に、涙ぐむ村上。
「どんなに雨に打たれても、雨の中で誰にも見てもらえなくても……いつも綺麗に咲いている紫陽花の様に。君の大好きだった、紫陽花の様になりたいんだ」
遠藤はもう一方の手を差し出して、両手で村上の手を握る。それからしばらく、並んだまま窓の外を眺めていた。
雨粒に触れた窓に映るふたりの顔は、これからのふたりの幸せな未来を映し出していた。