三
数日後、少し気になって、ふたたびやってきた。やっぱり一度関わると、どうしてもきになるものだ。由衣はもともと、首を突っ込みたがる性格ではないので、とても珍しいといえる。
「あら、あそこに……遠藤さんがいるわ」
早紀の言葉に、由衣もそちらを見ると、確かにいた。ただ前とは少し様子が違っていた。
リハビリをしていたのだ。いや、リハビリという事ではないのかもしれないが、それらしいというのか、車椅子から立ち上がろうとして、必死に頑張っている様に見えた。
「なんか前より、元気良さそうだね」
「そうね。前には、諦めた様な雰囲気があったけど」
紫陽花の向こうに見える遠藤に、由衣は心の中で——がんばれ! とつぶやいた。
「——あら、こんにちは。よかったら入ってらっしゃい」
由衣達を見つけた村上が、ふたりを施設内に案内した。前に来た時に顔見知りになってしまったせいか、職員や老人達も由衣達が来る事に違和感がないらしい。職員のおばさんから「こんにちは」と、声をかけられたりもしている。
「本当によかったわ。遠藤さん、ようやく頑張ってくれる様になったのよ」
村上は嬉しそうに話した。
「よかったですね。前には、なにもしたくない、って感じだったのに」
「本当にねえ。由衣ちゃんのおかげだわ」
村上に連れられて遠藤の元に向かった。
「こんにちは。遠藤さん」
由衣と早紀は、遠藤のそばに近づいた。
「おお、お嬢ちゃん達か。いい天気だな」
「はは、そうですね。でも、どうしたんですか?」
「ふふ。まあ、ちょっと信じたくなってな」
遠藤は、タオルで額の汗を拭いた。
「お嬢ちゃんの友達だったか……その子の話を少し信じてみたくなった。そして、それができるなら、俺にもできるんじゃないか……そう思ったんだ」
「いい事だと思いますよ。きっとよくなる。わたしも信じています」
「まだまだ立つのも大変だが、それでも昨日より今日の方が楽に立ち上がれた様に感じたんだ」
「がんばってください」
「ああ」
由衣と遠藤はお互いに笑った。
それからしばらくして、休憩にはいった。由衣達をベンチに座らせて、みんなで休憩する。
その際、村上が別の職員に呼ばれた。
「ちょっと行ってくるわね。遠藤さん、無理はしない様にね」
「ああ、じっくりやるよ」
村上は建物に入っていった。その後、遠藤と由衣達は、雑談に花を咲かせていた。
ふと由衣は、前から気になっていた事を、思いきって聞いた。
「遠藤さんは紫陽花がお好きですか?」
「うん? まあ嫌いではない。嫌いではないが……」
「あの、なにかあったんですか?」
遠藤は空を見つめた後、由衣の方を向いた。しかし、由衣の目を見たまま、じっと無言でいた。
白い空の下、老人はうつむいた。そして……話し始めた。
「……紫陽花は、思い出すんだ」
ひと呼吸おいて、ふたたび遠藤は語る。
「俺が中学生の頃だったか。近所に、小さい時から仲良くしてくれていた、お姉さんがいてな。……まあ、すきだったんだ。恋をしていた」
「恋、ですか」
由衣は言った。
「ああ、そうだ。その彼女は、紫陽花がすきでな。紫陽花が『オタクサ』って呼ばれている由来だとか、まあ、いろいろ教えてもらった」
「シーボルトがどうとかの話ですよね」
「そうだ。詳しくは俺もあまりよく憶えていない。頭はよくないしな」
そう言って、遠藤は少し笑った様に見えた。
「……それで、彼女の事がどうにも頭から離れず……ある時、彼女に告白したんだ。彼女は迷っていたよ。歳も離れているしな。でも、それでも彼女は応えてくれた。それからはもう日々が楽しくてしょうがなかった」
遠藤は懐かしそうに語る。しかし、ふと表情が曇った。
「でも、それから半年くらいだった頃だったか、父の転勤で引っ越す事になって……しかも海外だ。俺はひとりでも残りたいと親に訴えたが、中学生ひとりを残してはいけないって、聞いてはくれなかった。……結局、俺達は離れ離れになった」
「そんな……」
「しばらくは、手紙を出したりしていたんだ。でもそれも、二年か、三年くらいで疎遠になった。でも俺は諦めていなかった。——五年くらい後だろうか、ようやく日本に帰ってきたんだ。俺はもう彼女に会えるのが楽しみでな」
遠藤はうつむいたまま、絞り出す様に言った。
「でも……もうそれ以来、彼女と会う事はなかった」
「どうしてですか?」
由衣の言葉に、遠藤は悲しい事実を語った。
「……彼女は結婚していたんだ。彼女は俺に謝った。しかし俺はなにも言えなかった。そのまま立ちさってしまった。——さすがに何年も、俺の事を待てないのは、薄々わかってはいたんだ。それに、そもそも彼女は結婚までは考えていなかったのかもしれない。でも……でも、彼女は待ってくれていると信じていたかった」
遠藤はうつむいた。普段より気難しい表情のまま、話すのをやめた。無言の時間が過ぎていく。
そんな空気に耐えられなくなった由衣が、なんとなく気になった事を質問した。
「……その女性は、なんていう名前の人なんですか?」
「名前か? 長岡——長岡佐和子だ。まあ、結婚してるから、苗字は変わってるんだろうがな。今はどうしているのか、まったくわからん」
それを聞いた由衣はひらめいた。
「あの、佐和子って……村上さんと同じ名前じゃ? まさかと思うけど」
「いや、確かに名前は同じだが、別に珍しくない。そもそも、顔が全然違う」
遠藤も少しだけ反応したが、すぐに否定した。
「そうなんですか?」
「ああ、そうだ」
そう言われると、そうなのだろうと思うしかない。でもやっぱり気になる。でも……だったら……いや、うぅん。
話が終わると、遠藤はふたたび立ち上がる為の練習を繰り返した。ただひたすらに。すぐに結果が現れる様なものではない。しかし、前向きに考えられるだけでも、かなりの前進といえた。
それから十分くらいして、村上が帰ってきた。
「あら遠藤さん、今日はまだやるんですか? 無理して怪我でもしたら大変ですよ」
「そこまで無茶はせんよ。ただ、今日はまだ——もうちょっとできそうなんだ」
遠藤は由衣と早紀の方を見ると、その顔に自信をみなぎらせた。それを見た早紀は遠藤に声をかける。
「がんばってください。でも、無理しない様にしてくださいね。村上さんも心配してますよ」
遠藤も早紀を見て言った。
「ああ。大丈夫だ」
由衣は確信した。この人は絶対に歩ける様になると。
「じゃあ、わたし達そろそろ帰りますね」
由衣が言うと、遠藤と村上は、笑顔でこたえた。
「気をつけてな」
「また遊びに来てね」
お互いに手を振って別れた。