二
翌日、由衣と早紀は昼食を食べに外出した。ついでだから、昨日見た紫陽花を見ていこうと、歩いて近所の蕎麦屋に向かった。今日は曇っているものの、雨は降っていない。
「やっぱり降ってないといいね」
「うふふ、そうね」
そう言って、紫陽花が見えてくるあたりまでやってくると、誰かいた。どうやら村上と、おそらく入所者と思われる、車椅子の老人だ。
「あ、こんにちは」
由衣と早紀は、紫陽花の前にいるふたりに声をかけた。
「あらぁ、ええと由衣ちゃんと早紀さんでしたかね。こんにちは、いい天気ですねえ」
昨日と同様の笑顔で話す村上。
「そうですね。このまま、しばらく晴れてくれたらいいんですけどね」
「ああそう、遠藤さん。この子達、昨日話した子達よ。紫陽花を見に来ていた」
村上は、遠藤と呼んだ老人に、由衣達の事を話ししていたらしく、嬉しそうに話しかけた。が、老人はたいした反応はない。一応聞いてはいるのだろうが、返事もしない。
早紀が遠藤老人に声をかけた。
「こんにちは」
老人は早紀を見るが、特には喋らなかった。
「ごめんなさいね。遠藤さん、あまり元気が無くて……」
「ああ、いえ。別にいいんですよ」
それから由衣達は、他愛ない少しして、車椅子の老人を紹介された。
「こちらは遠藤さんと言ってね。最近来られたのよ」
「いいお天気ですね」
早紀がふたたび声をかけると、「まあ、な……」とひと言だけ呟いた。早紀は苦笑いした。
遠藤は無気力だった。村上いわく、来た当初からこんな感じだったという。弟だという男と、二十代前半と思われる息子ふたりとともに。
一度建物の中に引き上げた後、村上はふたたび出てきた。そして、敷地内の庭のベンチに腰をかけて、遠藤について語った。
「実は……遠藤さんね、遠藤さんは<発症者>なのよ……『老化』の方ね」
「『老化』? そうだったんですか」
「遠藤さんは、症状が重くてね。年齢も五十歳だし、まだまだ職場でも現役でがんばってる人だったのよ。でも病気のせいで、歩くこともできないくらいの重症になって……」
村上は悲しそうな表情だ。由衣はふとネットで見た症状を思い出した。
「あの、まさか――『老衰症』とかいう……」
「ああ、そう。テレビでもそんな名前の病気だって言ってたわねえ」
通称、『老衰症』。正式には、タイラー・マディソン症候群という。この症状は、『老化』の患者の間でごく稀に発症する。一度、症状が止まった後、数ヶ月間をおいて、突如として発症する。これによって患者の体力や健康状態などが、著しく低下する。今までの例でも要介護の患者ばかりである。体調自体はさほど問題ではないとされてきた『老化』の症状も、この『老衰症』によって深刻化してきていた。
「かなり大変な事になっているんですね」
「ええ。もう退院して、しばらくなるみたいだけど、体の調子が全然戻らなくて。それでも、もう病院は嫌だって。どうしても家に帰るって言って、結局戻ってきたんだけど……あの様子で。奥様は数年前に亡くなられているそうで、息子さんも近くに住んでいないし、弟さん夫婦が岡山市内に住んでいるそうだけど、それでもずっと面倒を見られるわけじゃないしねえ。それで先月ここに来る事になったのよ」
村上は、さらに遠藤のことを詳しく話し始めた。
老人は遠藤浩平という。この老人ホームの入居者で、しかも<発症者>だった。年齢は五十代前半で、二年ほど前に発症したという。現在の容姿は六十歳前後である。はじめはよかった。息子達の励ましや友人、職場の同僚達の激励が、彼に前向きな気持ちにさせていた。
しかし三ヶ月ほど経った頃、例の老衰症を発症してしまい、介護が必要なくらいに衰弱した。それ以来、次第におかしくなり始めた。老いてしまった容姿を鏡を見るたびに、惨めで情けなく感じていたらしく、周囲に当たる様になった。
時には暴力を振るうなど、問題行動を起こす様になり、予定されていた職場復帰も先延ばしになった。次第に、周囲に人が寄り付かない雰囲気ができてしまい、介護も大変になってきた。
それから次第に、今度はおとなしくなっていった。当たる相手がいなくなると、気力も失せていったのだろうか。結局、今のような無気力状態になった。
そんな事があり、結局医師の勧めで介護施設に預ける方向で決まったのだった。この老人ホーム「敬寿の杜」は、高齢者向けの介護施設だ。県下の大手病院、岡山総合病院と関係があり、入院せずに優れた治療や介護を受けられる。
「ここは弟さんの家から近いらしくてね。それで色々と都合がよかったらしいわ」
「そうだったんですか。でも、大丈夫なんですかね?」
「そうなのよねえ。なにせ、なにもしようとしないものだから、リハビリも進まなくてねえ……」
村上は、遠藤の無気力状態には困っている様子だ。
——由衣は少し気になった事があった。遠藤は紫陽花を全く見ていなかった。意図的に避けている様に思えたのだ。ふと、由衣はそれを聞いてしまいそうになった。が、言わなかった。
「——じゃあ、そろそろ戻りましょうかね。それじゃあね、早紀さん。由衣ちゃん」
由衣と早紀は建物に入っていくふたりを見送って、帰路に着いた。
「由衣。どうせだから、夕食の買い物をしていきたいわ」
「そうだね。タナカに行ってみよう」
ふたりはマンションに戻る前にスーパーに向かった。
スーパーに向かう途中、由衣はつぶやいた。
「遠藤さん、どうしたんだろう」
それを聞いた早紀は、「何かあったの?」と尋ねた。
「いや、どうも――紫陽花を見ない様にしている気がして」
「遠藤さんが? そうだったかしら」
「まあ、気のせいかもしれないんだけど」
由衣は、どこかすっきりしない顔をしていた。
それから翌週。この土日から天気も良くなって、気温も上昇中だ。テレビでも、どこかの自治体で今年最高気温を記録したとか言っている。しかし、今日は曇ったので、外もそこまで暑くない。
「早紀。あの老人ホームに行ってみない?」
「ええ、いいけど——どうしたの?」
「ううん、まあ。なんだろうかね」
由衣自身でも、あまりよくわかっていないのかもしれない。ただ、遠藤老人の事が気になった。
この老人ホームは、南側が庭園の様になっている。所々にベンチもあり、入所者の憩いの庭といった風になっている。
由衣は道路から庭を見ると、あの遠藤老人がいる事に気がついた。
そばに職員がついて、車椅子に乗せられてゆっくりと庭園を進んでいる。
「あ、いた」
由衣はすぐに遠藤を見つけた。
ふと横から声をかけられた。村上である。
「あら、あなた達。どうしたの?」
「あ、村上さん。どうもこんにちは」
「こんにちは。お散歩?」
「ええ、まあそんなところです」
「よかったら、いらっしゃい」
由衣達は老人ホームの敷地内にあるベンチに連れられてきた。そして何人かの老人と、あれこれ話したりして、しばらく経った。
そこで由衣は、少し躊躇して、村上に尋ねた。
「あの、遠藤さんなんですけど……紫陽花と、なにかあったんですか?」
「さあ、どうなのかしらねえ。わからないわ。どうかしたの?」
「この間、遠藤さんは、紫陽花を避けている様に思えたので……」
「そう、気がつかなかったわね。そうなのかしら」
「わたしの勘違いかもしれないですけど……」
由衣は少し弱気になる。
「でも、別にそうとは思わないわねえ。考えすぎじゃないかしら?」
村上にはそうは感じないらしかった。
由衣達は村上に案内されて、遠藤のところにいった。遠藤と一緒にいた介護士の女性は、村上に促されて、村上と一緒に建物の方に行った。
改めて、勢いでやってきたものの、そもそもほとんど面識のない、遠藤とどうやって話せばいいのかわからない。しどろもどろでどうしようもなく、とりあえず「どうも、こんにちは」と言ってみた。
しかし遠藤はそれには答えず、不審者を見る様な目で由衣を睨むと、
「……なんだ?」
と言った。
「え?」
「なんの用だ?」
まごついている、由衣の反応に業を煮やしてか、少し間をおいてふたたび言った。
「いや、その……」
「ふん。お前達はいいな。今は若くても、そのうち発症して、婆さんになるかもしれんぞ。お嬢ちゃん」
突如として遠藤は、嫌味な言い方をする。わずかに笑った様に見えた。
「——私達はなりません……いえ、ならないというか、もう発症していますから」
遠藤の言葉に、早紀が答えた。
「何、お前達は<発症者>なのか?」
「ええ、私……歳は四十代ですよ」
「ええ? あなた達……本当に?」
早紀の言葉に、むしろ驚いていたのは村上だった。普通では、早紀がそんな歳であるとは思えないのだ。
「ではお前達は『若返り』の方か……じゃあ、二十歳くらいは若返っとるのか?」
「そうですね」
「そうか。かなり辛かったろう」
「ええ、でも——なにもなかった私には、ただ生きるしかありませんでしたから」
「随分と深刻そうな話だな。——『若返り』は辛い。俺の友人に発症してな。苦痛に耐えられずに自殺した男がいたよ」
「まあ……」
早紀がつぶやいた。
「いい奴だった。発症さえしなきゃあ、今頃ふたりで酒飲んで、酔っ払っていただろう。俺だって、こんななっても地道にリハビリしていたかもしれん」
「この体じゃあ、だめだ。どうにもならん。先生は絶対よくなるというが、とてもそうは思えん」
「そんな」
「遠藤さん、そんな簡単に諦めたらだめですよ。まだまだこれからなのに」
「いや、だめだ。やっぱり、よくなるとは思えん」
うつむき、頭を振ると、もはや諦めの雰囲気を漂わせている遠藤。
「……山陽医大の岡本先生にも見てもらったんだ。それでも同じだ。変わらない」
「岡本先生の診察を受けているんですか?」
「ああ、そうだ。俺は総合で治療を受けていたんだが、岡本先生は<発症者>に関して経験が豊富だからと、一度紹介されたんだ」
遠藤は由衣と早紀の方を見た。
「岡本先生は、確かにすごい先生だと思うがね。様々な患者を診てきている。評判は聞いていたんだ。ちょっと期待もしていた」
遠藤は、ふいに思い出した様子で、それを話し始めた。
「……確か、『若返り』の発症をした女の子の事だった。初期の頃の患者で、何もかも初めてづくしで相当大変だったらしい。しかもその子は、当時四十歳かそこらの年齢で、発症後は十代だったそうな。十代だよ、十代。いったいどれだけ若返ったのか……『若返り』なんだから、相当に辛かっただろうに。生死の境をさまよった様な事を言っていた」
遠藤は、話しながら遠くの空を見ている。
「もっとも、本当の話なのかはわからん。というよりも、あまりに壮絶すぎて、現実味がない。励ますために話してくれたんだろうが……」
そう言って、少し口もとが緩んだ。
「——そんな事はない。その話は作り話じゃないです」
由衣は遠藤に反論した。それに反応して由衣を見る遠藤。
「どうしてわかる?」
「諦めなかった。諦めなかったんです。どうやって生きていこう、って悩んだりしたけど、一歩一歩前に進んでいく事を諦めなかった」
「知ってるのか?」
遠藤は由衣を見据えた。
「よく知っている人です」
由衣は、遠藤を見た。
「その人は……早川由衣と言いますね?」
「あ、ああ。確かにそんな名前だった……まさか本当に?」
遠藤は由衣を見た。驚きの表情で。
「意識を失って、一年も昏睡状態だったんです。意識が戻っても、しばらく動く事も出来なかったんですよ。それでも一年くらい後には、退院できました。松葉つえは必要だったけど、今はもう普通に歩けるし、走れます」
「……そうか」
「遠藤さん」
「……ちょっと疲れた。そろそろ休むよ」
「押していきましょう」
早紀が車椅子を押して、建物の中に連れて行き、職員の人に交代した。