一
六月といえば梅雨である。雨の季節の到来だ。由衣は窓の外をながめながら、ぽつりとつぶやいた。
「——降るなあ」
「そうね、ここのところ毎日だわ」
早紀は文庫小説を読みながら、由衣のつぶやきに答えた。
由衣は窓から離れると、テレビのリモコンを手にとって、スイッチを入れた。真っ黒いテレビの画面に放送中の番組が映し出された。
テレビ画面には、サッカーのワールドカップの試合が映し出される。今年は中東のカタールで開催だ。春頃から、テレビではにわかに盛り上がっていたようだが、由衣はあまりサッカーに興味がないので、ろくに見ていない。時々ネットやテレビで試合結果を見る程度である。試合はドイツとイングランドの様だが、前述のとおり、あまり興味がないのでチャンネルを変えた。
午後のニュースで、梅雨の事を言っている。あまり興味の引く様な内容ではなかったが、次にローカルニュースが流れていたので、そのままソファに寝転がって流し見していた。
しばらくして、早紀が時計を見て、立ち上がった。文庫にしおりを挟んで閉じた。
「由衣、そろそろ夕飯の買い物に行ってくるわ」
「うん。……あ、やっぱりわたしも行く」
「あらそう? じゃあ行きましょう」
由衣は最近は雨が鬱陶しいせいか、早紀が買い物に行くと言っても、あまりついてこない。実はすでに五月くらいには、もう外が暑いのを嫌ってあまり外に出なくなっている。今、やっぱりついて行くと言ったのは、ただの気まぐれか、それともいい加減に出なくてはと思ったか。早紀に悪いと思ったのか……。
外は雨がずっと降り続いている。しかし、土砂降りとまでいかなくとも、強めに降っていた昼間と違って、今は小雨になっていた。
「歩いていこうと思うんだけど、由衣は車の方がいい?」
「いや、歩きでいいよ。散歩がてらにいいと思うし」
またもや、どういう風の吹きまわしか、雨の中、歩いて買い物に行くと言いだした。
「そうね。お天気はよくないけど、たまにはこんなのもいいと思うわ」
いつも利用しているスーパーマーケットは、歩いても大して距離ではないため、歩く事も多い。
「外もそんなに暑くないね。降ってなくて、このくらいならいいんだけど」
「そうね、晴れていたら汗だくになるくらい暑いわ」
由衣はちょうどいいくらいだ、という様な事を言っているが、内心、少し寒かった。Tシャツ一枚だけだったので、やっぱりシャツを羽織ってくるべきだった、と少々後悔している。ちなみに早紀の方は、まったく平気な様子だ。
少し歩くと、すぐに片道二車線の大通りに出てきた。南北にのびるこの道は、中央分離帯もある大きな道路だ。この道路沿いにスーパーはある。
「なんか、人があんまりいないね」
「やっぱり雨が降ると、外を歩くのが億劫になるのかしらね」
「まあ、だろうね。わたしもそうだし」
スーパーからの帰り道、早紀がふと足をとめた。それに気がついた由衣が声をかけた。
「うん? どうしたの?」
「由衣、あっちに紫陽花が咲いているわ」
早紀が指差した方には、数メートルにわたって、一面に紫陽花が植えられていた。結構な広範囲であるため、なかなかの見応えである。
「ああ、本当だ」
由衣と早紀は、紫陽花の方に近づいていった。
「これだけ咲いていると、結構迫力あるね」
「ええ、たくさん咲いているわ。綺麗ね」
ふたりは雨が降る中、しばらく紫陽花に見とれていた。
「オーストリアにいた頃も、家に植えてあったのよ。とっても大好きだったわ」
「へえ、そういえばオーストリアだと、今の時期は雨のイメージないけど、やっぱりこういう雨の中で咲いているのってどう?」
「いいと思うわ。日本には、日本の情緒があって素敵ね」
早紀は紫陽花を見たまま微笑んだ。
「ここ、ずいぶんたくさん咲いてるな」
由衣は、この紫陽花は目の前にある何かの施設に植えられていると気がついた。施設にはフェンスをぐるりと囲ってある様だが、この紫陽花の植えてある正面部分は、ずっと紫陽花を植えてある。この一面は通りの歩道に面していた。紫陽花が咲き誇っている様は、通行人から見てもいい景観である。
「何の建物かしら」
早紀は、ベージュの色をした建物を見上げてつぶやいた。由衣は、少し向こうに紫陽花の切れ目があって、何かが建っているのに気がついた。
「あれ多分、入り口だね。ちょっと見てみよう……ふぅん、ここは老人ホームみたいだね」
レンガ製の小ぶりな門に埋め込まれている金属のプレートには「社会福祉法人 敬寿の杜」なる名前があった。
「……あなた達、紫陽花はお好き?」
ふいに声をかけられて振り向くと、五十代後半くらいと思われる女性が立っていた。ニコニコと、とても人のよさそうな女性だった。早紀は、その女性に微笑み返した。
「ええ、大好きです。綺麗ですね」
「そうでしょう。私もね、小さい頃からとっても大好きで。毎年、紫陽花を見るのが楽しみでねえ」
「いいですよね」
由衣が言った後、早紀が女性に尋ねた。
「この近所にお住まいですか?」
「いいえぇ、私は大安寺の方に住んでてねえ。ここで働いているのよ」
女性はそう言って、施設を見た。
「ああ、ここの職員の人だったんだ」
「あなた達は親子……にしては若いから、姉妹かしら?」
「え、いや――友達なんです」
「まあ、そうだったの」
早紀は由衣と自分の名前を名乗った。
「私達は近くに住んでいるんですよ。私は白鳥早紀といいます。この子は早川由衣といいます」
女性の名は村上佐和子という。この施設の職員だ。正規雇用の職員で、二、三年前から働いているという。割合、喋り好きな性格の様で、ほかにも十年前に夫を亡くしているだとか、子供は東京で働いているだとか、いろいろと聞いてもいないのに、身の上を話し出した。
そうこうしていると、別の職員が出てきて女性が呼ばれていったので、由衣達も帰る事にした。