四
「……やあ、久しいね。元気にしてたかい?」
長井は相変わらずの様子である。人の良さそうなその顔は、今も変わっていなかった。
由衣は長井と会った。
長井は、由衣が発症前に就職していた会社「倉岡工業」の社員である。作業員達を束ねる現場監督だ。由衣が班長として仕事をしていた際に、それを監督する立場にあった。
――昨日。
『もしもし、早川さんかい?』
「ええ、そうですよ。久しぶりですね」
『本当だねえ。もう何年くらいなるかな、四年くらいなるね?』
「そのくらいなりますね。仕事は順調ですか?」
『いやあ、厳しいよ。去年から工事の件数は増えてね。人が足らずに困ってるんだ』
「何かあったんですか?」
『うん、ナニワが工場を増設する事になってね。』
「ナニワ」というのは、大阪に本社のある「浪速化学工業」という化学会社の事だ。大阪や神戸、それに名古屋にも大きな工場がある。ここの岡山工場が、岡山市の西大寺地区にある。倉岡工業はこの浪速化学の工場に入って仕事を受注している。
「へえ、景気いいですね。やっぱり化学関連は、最近技術の進歩が激しい様だし、ナニワも忙しいんですかね」
『そうだねえ。でも、仕事が増えたのは嬉しい様な、悲しい様な……とにかく残業ばっかりだよ』
「ふぅん、そうなんだ。でも、何用で電話してきたんですか? まさか単なる世間話? まあそれもいいけど」
『ははは、いやまあ、そんなところだけど……早川さん。吉木くんっていう名前に覚えがない?』
「うん――吉木? 吉木という人はひとり知っている人がいるけど」
『多分その人だと思うんだよ』
「え? 吉木くん? まさか……」
『うん、実は先月……五月の下旬にね。ひとり採用したんだ。それが吉木くんで……つい先週、早川さんの事が話に出てね。知ってる人だと』
「よ、吉木くんが……」
由衣は戸惑った。どういった経緯があったのか不明だが……どうやら吉木は、倉岡工業に就職した様子だ。
由衣は、倉岡工業で働いている事は伏せていた。というか、元が男であった事を伏せていた。当然だが、<性転換>という症状は一般には、ほとんど認識されていない。これを説明するのが骨を折るのだ。偏見を持たれるのも嫌った。
「あの、吉木くんは……わたしが元は……」
『ああ、もう言っちゃった……ごめん、不味かった?』
「いや、まあ――いいですけど」
由衣は思わず頭を抱えた。本当は良くないが、知られてしまった事はもうしょうがない。
『それでね、吉木くんが良かったらまた会いたいと。そう言っているんだけど……どうする?』
「うぅん、どうするって……長井さん。長井さんが連絡くれるといつもこのパターンの様な気がするんですが」
『ははは、そうだっけかな?』
由衣は考えた。――吉木くんにはちょっと言いたい事があったんだよね。
「まあ、わかりました。会いましょう。どこで会いますか?」
『そうだね——あそこ、わかるかなあ。「Y&H」って店。この前知り合いに聞いてね。コーヒーが美味しいって……』
「Y&H」は、由衣の友人である中村夫妻の経営するカフェである。コーヒーも最近評判がよいが、ランチなども人気がある。無論、行列ができる様な店ではないが、由衣はよく行っている店だ。
「知ってますよ。わたし、よく行く店ですから」
『へえ、そうなんだ。日にちの都合はいいかい? よければ明日、土曜日だし十三時にでも……』
「それでいいです。では」
由衣は電話をきった。iPhoneをテーブルに置くと、ソファに寝転がった。
「ふう、やれやれ」
「どうしたの?」
早紀がダイニングの方からやってきた。グラスに麦茶を入れて持っている。
「……まあの会社の人がね。また会いたいとか」
「あら、懐かしい人だったら楽しそうね」
「まあ、懐かしいって言ったら、懐かしいけど」
「早川さん! お久しぶりっす!」
吉木はあまり変わっていなかった。見た目的にも、性格的にも。
「はは……久しぶりだね。吉木くん」
「早川さんって、やっぱ変わんねえっすね。もうムチムチお姉ちゃんって感じかと思ってたけど。おっぱいデカくて、そんで……」
「いや、体質で変わらないんだ……それに最後に見て、まだ一年ほどだよね?」
「あれ? そうっすかねえ。オレよくわかんないっすわ、あっはっはっ!」
由衣は、こういう無神経で馬鹿な事を言うところも、まあやっぱり吉木だと思い、特に嫌な感情はなかった。
ただ――由衣は吉木の隣を見て不満そうな顔をした。
「で、どうしてコイツまでいるのかな?」
由衣は、吉木の隣に座る黒田を横目でチラリと見ると、長井に小さな声で言った。
「ははは……どうしても会いたいというから」
「やあ、由衣ちゃん。僕も会えて嬉しいよ」
「わたしは、別に嬉しくないけど」
「もう、つれないなあ。怖い顔してちゃ、せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
黒田は倉岡工業の社員で、実は由衣の同級生である。そして彼も<発症者>だ。黒田は発症の際のデメリット(身体の苦痛など)が酷くなく、身体能力も向上し、前よりイケメンになったと、割合都合のよくなったタイプだ。ただ、前に比べていわゆるチャラい性格になってしまい、由衣はあまり好きではなかった。
——そもそも結婚しているというのに、わたしに会いに行く様な事して大丈夫なのか? と少し心配してしまった。
「なんで、そんなヤツになってしまったかねえ……吉木くん。黒田のそばにいると、バカが感染るよ」
少し嫌みたらしく言うと、黒田は、そんな事など全く意に介さない様子で言った。
「もう、由衣ちゃんは厳しいなあ。そんなに照れなくてもいいのに」
「だ、誰が照れるんだぁ!」
由衣は叫んだ。――全く、どうしてコイツは……やっぱり苦手なタイプだ。
「いやあ、驚きっすよ! 早川さんが、オカマだったなんて」
大声で笑う吉木に、顔を真っ赤にした由衣は、メニューで吉木の頭を思いっきり叩いた。
「あいたた……ど、どうしたんすか?」
「ひ、人聞きの悪い事を言うなぁ!」
由衣は珍しく大きな声を出したが、長井の「まあまあ……」という声に落ち着かせた。
「違うんすか? だって元は男だって……」
「病気のせいで変わってしまっただけだよ。不本意ながら」
「じゃ、付いてないんですか?」
またとんでもない事を言う。デリカシーとかないんだろうか? と由衣は思った。
「……あのね、体の構造がまったく変わったんだから当たり前でしょうが」
「なんかすごいっすね。オレなんかの頭じゃ、いまいちよくわかんねえっす」
「わからなくていいと思うよ」
「まあ、俺が教えてやるよ。<発症者>だしな」
黒田は自慢げに胸を叩いて言った。
「マジっすか? さすが黒田さんっす」
由衣は、吉木と黒田のやり取りを見て、吉木が変な方に、黒田の影響を受けなきゃいいけど……と思った。
「吉木くん、どうして辞めたの? あの時、まだ頑張るって言ったよね?」
「ああ、それは……でもアイツが許せねえんっすよ。ウダウダ理屈ばっかりこねやがって。結局、そのまんまだと、ぶん殴っちまいそうだったから、やっぱ限界だって」
吉木は以前から不器用で、その当時優秀な同僚に、その不器用さから、仕事が遅く、一部から目の敵にされていた。
「でもね、本当に辞める前に一度相談して欲しかった。何も言わずに、いつの間にか辞めているし」
「まあ……それは申し訳ないなって思ったんすけど、やっぱここはオレの職場じゃねえやって思うと、なんか早川さんに会わせる顔がなくって……」
吉木は申し訳なさそうな顔でうつむいた。そしてチラリと上目遣いに由衣を見た。
「まあ、わからないでもないけど……どうあれひと言だけでも言って欲しかったな」
「いやはや、すいませんっす」
「……今はどうなの? やりがい持って仕事してる?」
「今はバッチリっすよ! 倉岡はいい職場っす……給料以外は」
「やっぱりそこだねえ……」
長井は苦笑いしていた。
今日の「Y&H」は客の数が多い。八割くらい席が埋まっている。それにしても、由衣のいるこのテーブルのところだけ、やたら賑やかである。
由衣は、店長の中村に声をかけようと思ったが、忙しそうで遠慮した。
「そういえばさ、吉木くんはどこの所属になったの?」
「オレは黒田さんと同じ設備保全っす」
吉木はそう言うと、黒田と肩を組んで先輩後輩をアピールした。随分と仲が良さそうである。設備保全は、工場内の設備や機械のメンテナンスを業務とする部署だ。由衣のいた工事部門とは、班が違う。
「設備の方に行ったんだねえ。設備は前から人手不足だったね」
由衣は思い出す様につぶやいた。
「うん、早川さんが辞めてから、ひとり入社したけど……平田さん、覚えてる? ベテランの。平田さんが腰を痛めてねえ、結局やめちゃったし」
「平田さん、もう七十歳近いんじゃ……辞めたんだね。じゃあ結局ひとりしか増えてないの? 確か二、三人ほしいとかって……以前に誰か言ってた様な」
「そうなんだよ。うちは安いから募集してるけど、全然だね……吉木くんが来たのも、本当に奇跡かと思う様な事でね。はははっ」
長井は笑いながら頭を掻いた。
「長井さん、俺達に任しといてくださいよ。俺達がいれば万事問題無し!」
黒田はまた、調子のいい事を言っている。が、実際、黒田は取引先からも、能力面で信頼を得ており、すでに頭角を現していた。
「はは、まあなんとかやってるよ。彼らもいるしね」
長井は苦笑した。
ふと由衣のiPhoneが鳴った。見ると、早紀だった。
「ちょっと電話……」由衣はそう言って電話に出た。
「もしもし、早紀?」
「由衣、そろそろ言ってた時間だけど、もう迎えに行った方がいい?」
「おっと、本当だ」
由衣は、午後三時くらいには終わるだろうと思って、そのくらいに早紀に迎えに来てもらう様にしていた。そしてその後、一緒に夕食の買い物に行こうと計画していたのだ。
「うん、じゃあ迎えに来て――うん、じゃあ」
由衣は電話をきった。そして長井達を見て言った。
「そろそろ二時間くらい居座ってるし、お開きにしよう」
「えぇ、もう?」
黒田は不満げである。
「そうだね。早川さん、これから用事あるの?」
「うん、買い物に行かなきゃ」
「早川さん、今日はありがとうございました。久しぶりに会えて、楽しかったっすよ」
吉木はニコニコしながら言った。
「わたしも久しぶり会ってよかったよ。そういえば、末森くんとは会ってるの?」
「末森とはしょっちゅうっすよ。よく飲みに行くし」
「そうなんだ。吉木くんはお酒で問題起こしてるんだから、気をつけなよ」
吉木は酒癖が悪く、それが原因で問題を起こしていた。
「大丈夫っすよ! 今のオレは昔のオレとは違うっす。ねえ、黒田さん」
「そりゃそうさ!」
相変わらず仲が良さそうだ。由衣はそんなふたりを見て微笑んだ。
長井達は黒田の車で来ていたらしく、一緒に帰ると言って、店を出た。由衣は早紀が迎えに来るのを待った。
「――どうだい? 昔の知り合いに会った気分は?」
ふと後ろから声がしたと思ったら、中村だった。客の数がだいぶ減った事で、少し由衣の相手をする間ができたらしい。
「……なんていうか、不思議なんですよね。みんな変わってなくて。吉木くん以外は、もう何年も経ってたりするんだけど。前に山陽医大のお世話になった看護師の人達と会った時は、すごく時間の流れを意識したんですけどね」
「そうかい。変わっていくもの。変わらないもの。いろいろあるものだね」
中村はそう言って、長井達のコーヒーカップなどをトレーに乗せて片付けていた。
「わたし達……いや、まあいいや」
由衣は、言いかけた言葉を飲み込んだ。それからすぐにひとり入ってきた。早紀だ。
「由衣、お待たせ」
「うん、じゃあ帰ろうかな」
由衣は席を立った。