三
「暑くなったなあ……はあ、はあ」
由衣は暑さのあまり、ヨロヨロと歩いていた。まだ本格的な夏は来ていないが、日が経つにつれて次第に熱くなっている。今日など、実は三十度にまでなっていた。
由衣は汗をかきにくい体質になっているが、それでも額に、背中に、汗がにじむ。
「由衣、大丈夫? どこかで休んだ方がいいわ」
由衣と早紀は、遊びに出てきていた。由衣が普段あまり外を出歩かないので、早紀がたまには外に遊びに行こうと、少し強引に引っ張りだしたのだった。
「……それにしても暑いね。雨でも降ればもうちょっとすづしくなるのに」
「そうね。とりあえず、どこか涼しいところに入った方がいいわ」
ふたりは今、表町商店街の北の端シンフォニーホールの近くにいた。
「シンフォニーホールに入ったら、冷房が効いていると思うわ。さあ由衣」
「う、うん」
「——いやあ、涼しいね。生き返る」
由衣は建物の中に入った途端に涼しい空気に包まれて、清々しい気分だった。
「由衣、何か飲み物を買ってくるね。何がいい?」
「じゃあ、スポーツドリンク系のやつ」
「わかったわ」
早紀は奥に入っていった。ふと早紀は飲み物が買えるところがどこにあるのか、知っているのだろうか? と考えてしまった。まあいいや、と思って待っているが、やはりなかなか帰ってこない。
十分ほど経ってようやくペットボトルを持って帰ってきた。
「ごめんなさい、なかなか無くて。随分探したのよ」
「だろうね。正直わたしもどこにあるか知らないし」
由衣は早紀からアクエリアスを受け取って、ひと口飲んだ。
「やっぱりいいね。生き返る!」
由衣は半分ほど飲んで、ベンチから見える書店の売り場を見た。
「そういえば、ここ。シンフォニーホールに来たのなら、「新昭堂」に行ってみないと」
「新昭堂」とは関東を拠点とする大手書店である。国内十八店舗あり、どれもかなり大型の店舗となる。岡山にはシンフォニーホールの一階と地下に店舗があり、現時点で岡山県下で最大の店舗面積を誇る。
由衣は何度か行った事があるが、ここには無料の駐車場がない事で、結局あまり行く事はなかった。
「もうちょっと来やすかったらなあ。今のマンションからでも、簡単には行けないし」
由衣にとって簡単に行ける店というのは、無料の駐車場があって、気軽に店舗に入れる店の事の様だ。
「大きな本屋さんね。何がどこにあるのか……地図が欲しいわ」
「そうだね。わたしも最初来た時、どっちが北でどっちが南かわからなくなったし」
「由衣は何か買うの?」
「どうしようかな。まあちょっと店内を歩いてみようと思う」
「あ、これは。さすが新昭堂だなあ。こんな本まであるとは」
由衣は文庫の売り場で、よく行っている門田書店には置いていない本が普通に売っていたのに感心した。
「やっぱり大きい店は違うよ」
早紀はふと、見憶えのある文庫を見つけて言った。
「あ、これはこのあいだ、由衣が取り寄せてもらっていた本では?」
「うん? ああ本当だ。こっちでは売っていたのか……」
このあいだ手に入れた小説文庫と同じものを手にとって、やっぱり本屋は大きいに限るのかなあ……などとしみじみと考えた。
そうしていると、ふと聞き覚えのある声が聞こえた。
「……早川さん? 早川さんじゃないですか、お久しぶりです!」
そう言って現れたのは、難波歩美だった。難波は、由衣の勤めていた企業「フジイ」の元社員だ。由衣をリーダーとする設計開発部門の所属で、要するに由衣の部下だった。数多い部下達の中では一番の古参であり、会社が大きくなる前の、必死に頑張っていた頃からの付き合いで、由衣はとても信頼していた。
しかし去年の夏、難波が趣味でやっていたイラストが出版社に評価され、プロになる道を選び、会社を去った。
その後、お互い忙しく、なかなか会う事もなく、今日久しぶりに再会したのだった。
「難波さん、久しぶり」
「お久しぶりです。変わりない様で何よりです」
「はは。まあ私はいつも通りだね。でも会社辞めて大分よくなったと思う」
「そうですか。わたしは忙しくて大変です」
「そんなに忙しいんだ? 人気者だからかねえ」
由衣はニヤニヤしながら難波を見た。
「そ、そんな事ないです。でも仕事の依頼が多くて本当に大変なんですよ」
「いいじゃない、忙しいのはいい事だよ」
「あはは、まあそうですけどね」
ふたりは、そう言って笑いあった。
「……そういえば、こちらの人は? 早川さんのお友達ですか?」
「ああ、白鳥早紀っていうんだ。友達だよ」
「白鳥です。どうも初めまして」
早紀は微笑むと、手を差し出した。難波も笑顔で「こちらこそ」と言ってその手を握った。
「綺麗な方ですね。ふふ、羨ましいなあ。私もこのくらい綺麗だったら……」
「……いえ、そんな」
早紀は顔を赤くして言葉を濁した。
「早川さん、フジイを退職したって聞いてたから、どうしてるんだろうって思ってたんですけど……案外、気楽にやってそうですね」
「まあね。お金の心配はないし、楽しく生活してるつもりだよ」
「そんなに稼いでいるんですか?」
難波は少し驚いた。確かに優秀な人ではあるけど、就職したとは聞かないし、どうやって稼いでいるんだろう? と思った。
「今は投資だよ。高騰しそうな株を買って、上がったら売る。これで儲かる」
由衣は、より多くの情報、詳細な情報があればあるほど、その凄まじい頭脳を使って正確な予測ができる。投資などは、由衣にとっては簡単極まりない稼ぎ方であった。
「ええ? 早川さん、それで稼げるんならすごいですよ。早川さんにトレーダーの才能があったとは……でも惜しいですね」
由衣は不思議そうな顔をした。
「何が?」
「私、早川さんのデザインとか、モノに対するこだわりとか、とても素晴らしいと思っていました。できたらデザイナーも続けてもしかったなあって」
「まあ、ね。今でもやりたいって思う事はあるよ」
ふいに難波から目を離し、ガラスの向こうの街の景色を眺めた。流れる人の波を追いかけながら遠い目をした。
「でも、もう終わったんだ。もう……」
「——難波さん、今日は買い物?」
「ええ、そうです。というか、これのためです」
そう言って、難波は手に持っていた本を由衣の前に出した。
「実はこれ! じゃん!」
そう言って由衣の前に差し出したものは……画集だった。
「『七色の街』? ……誰の、って「なんばあゆみ」?」
由衣は画集と、難波の顔を交互に見て、驚きの表情になっている。
「そうです。実は私の初画集が発売されたんです」
「ええ? す、すごい……」
「まあ、プロになる以前の絵が中心なんですけどね」
難波は去年の夏頃にプロデビューし、以後様々なイラストの仕事をしている。由衣の買った小説の表紙を描いたりもしている。
柔らかい線と淡い色彩で、独特の作風を持つ難波のイラストは、デビュー後早々に注目を浴びる様になり、この冬などはまともに休みが取れないくらい多忙だったという。
「でも本当にすごいなあ。わたしもプロのイラストレーターを知っている事になるとは」
由衣は少し興奮気味だ。サインをもらおうかと思った。
「そんな大したものではないですよ。新人だし」
難波は照れて頭をかいた。
「私の場合、同人時代にそれなりのファンを持っていたのと、描いたイラストの点数も多かったから。知名度が上がった瞬間を逃さない様にっていう判断で、早々と発売する事になったんですよ」
「――今、フジイはどうなんでしょうね」
難波もやはり、古巣の現状に少し関心がある様子だ。
「ちょっと厳しいみたいだね。でも大きい会社になってるし、少々の事では何も問題ないんだろうと思う」
「私が入社した頃は、小さかったですけどねえ」
「わたしが入った頃は、本当にただの町工場だったなあ。あの雰囲気がよかったんだけど。向井さんとか、今何してるんだろう?」
向井は元フジイの社員だ。会社の方向性が自身と違う方を向いて行き始めた事から、適当な時期を見計らって退職した。面倒見のいい職人で、現在も違う町工場で職人仕事をやっている。
「腕のいい職人さんだから、仕事に困る事はないんでしょうけど。機会があったら会ってみたですよね」
「そうだね」
「——社長がね、やっぱりさあ。能力偏重主義なのをどうにかしたほうがいいと思うけどね。藤井さん、優秀ならどんな奇人変人でもお構いなしだし」
「それは言えてますね」
フジイの社長である藤井は、日本では珍しい極端な能力偏重型の人材集めをしている。由衣の言う通り、変人だろうが優秀で、会社に利益をもたらしてくれる人物なら、何も問題ないという方針だ。そもそも少女にしか見えない、由衣をスカウトする様な人間である。しかも当時、素性もはっきりしていないにもかかわらずだ。
「もうちょっと社員の感情を汲んでほしいね。それができる様になってれば、まだまだ伸びていくと思うんだけど」
由衣は割と感情論を重視するところがある。それが、次第に効率に走るフジイに居辛くなっていく原因だった。
「ですよね。岡崎さん、まだいるのかな? 彼女なら、それでも何とかまとめていってくれると思うんだけど」
「うん、わたしもそう思う。岡崎さん、優秀だからね。会ってないから、何してるかわからないけど」
岡崎はかつての由衣の部下だった女性だ。彼女も<発症者>で、優れた能力を持っていた。特に由衣の不得意分野である、指揮管理能力は優秀だった。
今も能力を発揮して活躍しているのだろうが、由衣も特に連絡を取ったりしているわけではなかったので、どうしているかは不明だった。
「岡崎さんにも会ってみたいな。また今度、電話してみようかしら」
難波はそう言って笑った。
「じゃあ、早川さん。また連絡しますね」
「うん、またうちに遊びにおいで」
由衣は難波と別れた。
「さあ、早紀――どうしよう?」
「由衣。もうこんな時間だわ。そろそろ夕飯の買い物に行かなきゃ」
「え? もう――って、六時過ぎてるじゃないか」
いつの間にか、ずいぶんと長いしていた様だ。外はまだ明るいが、夕暮れが近い空だった。
「じゃあ、帰りましょうか」
「そうだね。……今日の晩ご飯はは何かなあ?」
「うふふ、出来てからのお楽しみよ」