一
「――じゃあ、座ってて」
「う、うん」
少女は、友人の女性を家に招いた。
この容姿端麗であり、あどけない表情が愛らしい少女の名は「早川由衣」という。
「コーヒーでいい?」
「うん」
由衣は数年前、改名していた……元の名を「早川文彦」という。名前から察する通り、元は男性であった。数年前、原因不明の奇病によって、少女の姿に変わってしまったのだ。
事の発端は、世界中で突如として発症し始めた病気『老化』。人が急激に年を取ってしまう恐ろしい病気である。それからすぐに、反対に身体が若返ってしまう『若返り』という症状まで出てきた。
この症状を発症した人達を現在では<発症者>と呼ばれるようになった。由衣は<発症者>であったのだ。
由衣——早川文彦は、通常とは少し様子の違う『若返り』を発症し、その際の身体の苦痛に苦しめられつつも、症状は次第に悪化していった。その苦しみの果てに、文彦は衝撃の結果が待ち受けていた。
それは『性転換』という、性別が変わってしまう症状だ。そして文彦は現在の姿、女性――いや、少女というべきか――の身体になってしまっていた。
長く苦しんだが、それでもなんとか退院できるまでに回復した。まったく変わってしまった身体からくる不利をも克服し、再就職まで果たして仕事に打ち込んだ。しかし、その職場でも考え方の違いもあって、わずか数年で辞めてしまった。
それから数ヶ月経ち、ついこの間……数日前にとても良い友達ができた。それが今日、自宅に招いた女性なのだ。
「……由衣。本当にありがとう」
「もう、何言ってんの早紀。わたしにしてもその方が助かるし」
その女性は、白鳥早紀という。二十代前半くらいに見える女性で、とにかく目を引くのが、その容姿だ。
とても美しかった。艶やかな長い黒髪に、端正で穏やかな眼差し。一七五センチの長身に、素晴らしく魅力的なプロポーションである。
実は、彼女も<発症者>だった。実年齢は由衣より二歳若い四十四歳である。とてもそうは見えないが。
彼女は過去に辛い人生を送っており、その関係でずっと苦しんできた。両親を殺されて、人生を狂わされてきた。
すべてを解決させた今、早紀はこれからは幸せになるべきであった。由衣もそれがわかっているから、そして早紀に対する特別な感情もあって、自分と一緒に住んでくれるように提案したのだった。
「やっぱり家が一番落ち着くなあ」
「うふふ、そうね」
あの事件の後、由衣達はとても大変だった。事件の現場からとりあえず、マンションまで戻ってきたのだが、山陽医大から連絡があり、すぐ検査をしたいという事を伝えられた。
その為、すぐにパトカーで山陽医大に送ってもらった。そして検査を受けたのだ。ふたりとも特に怪我らしい怪我もなく、体調も問題がないという事で、帰っていいという事になった。
山陽医大は、由衣がこの病気の治療を担当した病院で、現在でも毎月定期検査を受けている。今回は大きな事件もあったので、どうしても検査をしておきたいのだそうだ。どこから由衣が巻き込まれていることが伝わったのかは不明だが、朝早くにもかかわらず準備も整っているという。大したものである。
「やれやれ、やっと終わったよ」
「お疲れ様、由衣」
検査室から出てきた由衣に、早紀が声をかけた。
ひと通りの検査を終えて、総合内科の診察室からナースステーションのところまで出てくると、向こうからよく知っている看護師がやってきた。
「あらぁ? 由衣じゃないの。あれ、今日は定検の日だったけ?」
「あ、原田さん。おはようございます」
由衣は笑顔で挨拶した。
「ええ、おはよう。どうしたの?」
原田と呼ばれたこの看護師は、由衣が発症した際の入院時、担当の看護師のひとりとして、由衣は随分とお世話になっていた人だ。明るくサバサバした性格で、由衣はよくいじられるが、悪い気はしなかった。
「実は……いろいろとありまして」
由衣は説明が面倒で、ごまかそうとしていると、原田は隣にいた早紀の方を見て言った。
「ふぅん、そうなの。――そちらは? 由衣の友達?」
「ええ、友達です。一緒にいろいろあって……」
「白鳥早紀と言います、初めまして」
早紀は笑顔で小さく頭を下げた。
「初めまして、白鳥さん。まったく、由衣はどこでこんなすごい綺麗な人と知り合ったわけ?」
原田はニヤニヤしながら由衣を見た。
「そんな……」
早紀は、頬を染めて苦笑いした。
「いい感じの人じゃない。由衣、あんたやるわねぇ」
原田は、由衣の頭を撫でながら笑った。それに苦笑いしながら尋ねた。
「……原田さんは、今出勤してきたんですか?」
「違うわよ。これから帰るのよ。ダーリンの元にね」
そう言って、ナースステーションの窓口の中にいた看護師の方を見た。
「なんで私の顔を見るんですか……」
そこにいたのは柴田という看護師で、この柴田も由衣の担当として、由衣がよく知っている人である。
「あんたも早く結婚しなさいよ」
原田はニヤニヤと柴田を眺めている。
「くっ、できるものなら……ああ、もう自分が結婚したものだから……」
原田は去年の秋頃に結婚していた。一年間の交際の末、晴れて結ばれたわけだが、それによって後輩である柴田はとても焦っていた。未だ彼氏もいない有様で、二度ほどお見合いをした事もあったが、うまくいかなかった。個人的には二十代のうちに結婚したいと思っているが、今のところはその目処は立っていない。
「怖い顔しないでよ、柴田。今度ダーリンの知り合い紹介してあげるわ」
「……ええ? ほ、本当ですか!」
急に表情が明るくなる柴田。由衣はそんなやり取りを苦笑しながら眺めていた。
「……じゃあ、わたし達は行きますね。もう帰らないと」
「そうなの? まあ、何か大変そうだったみたいだし……またね。お大事に」
原田は小さく手を振ってふたりを送った。そんな原田に手を振り返して、由衣達は山陽医大を後にした。
帰りはタクシーで帰ってきた。
「帰ってきたなあ、あの時は本当にどうなることやらって思った」
由衣は昨晩のあの脱出の場面を思い出して、しみじみ思った。
「そういえばセキュリティが破られていたわね」
早紀は昨晩訪れた際に、マンションの入り口が壊されて侵入されていた事を言った。
「ああ、まあそうだろうね。でなきゃ入れないだろうし」
マンションを前に立ち止まって眺めていると、五十歳前後の中年男性が由衣を見つけて近寄ってきた。
「おお、早川さん」
「あ、西岡さん。おはようございます」
「おはようございます。早川さん、昨日は大丈夫だったんですか? 大変だったんですよ。エントランスのロックが破られてて……」
この西岡と呼ばれた男性は、由衣の住むマンションの管理責任者だ。某管理会社から派遣されてきている。もう十年以上ここで働いているらしく、非常に詳しい。
「本当ですか? 怖いなあ」
由衣はちょっと不安そうな顔をした。事情は当然知っていはいるけど、あえて口にはしなかった。
「早川さんとこもやられててね。警察呼んだり、いろいろと大変だったよ」
「そうなんですか?」
「うん、まあ少し部屋が荒されてただけで、それほどでもない様子だったけどね。あそこにも警察の人がいるけど、上の早川さんとこの前にもふたりいるんですよ。聞いたら、しばらく交代しながらいなきゃならないらしくて、大変ですねえ……なんて」
「警察官も大変ですね」
由衣もしみじみ言った。
「早川さんが戻ってきたら警察に伝えてくれと言われているんだ。一緒に行こうか」
三人で、エレベーターで三階にやってくると、すぐ向こうに自宅の玄関が見える。ふたり警察官が立ってる。西岡は近づいて「すいません。早川さんが戻ってきたんですが……」と言った。警察官は、「入りますか?」と言うので、由衣は「そうです」と答えた。警察官は「どうぞ」と言って、玄関のドアを開けてくれた。由衣は「ご苦労様です」と言って、早紀を連れて入っていった。
「うぅん、帰ってきたなぁ」
由衣はリビングまでやってきて、ふと呟いた。そしてソファに勢いよく座った。
「さあ、早紀も座って」
「ええ。由衣、なんだか嬉しそうだわ」
早紀はそう言って微笑んだ。
「まあね。あれだけの事件があって、それでもこうやって家に帰ってこれたんだもの。それに早紀も一緒に住んでくれるんだし」
「でも由衣、本当にいいの? 迷惑じゃない?」
「迷惑なら初めから誘ったりしないよ。……なんていうのか、早紀はどこか特別な感じがするんだ」
由衣は少し照れた表情になった。
「――嬉しいっ」
早紀は思わず由衣に抱きついた。
「さ、早紀?」
突然の事にオロオロする由衣。早紀の柔らかい感触に、身体の奥底からなんとも言えぬ感情がこみ上げてくる。
「由衣……ありがとう」
早紀は由衣を胸に抱いたまま、そっと目を閉じた。由衣もその暖かい早紀の胸の中で目を閉じた。
由衣はシャワーを浴びてくる事にしてリビングを後にした。
「早紀も一度汗を流した方がいいよ」
「うん、そうするわ」
由衣は寝室に入ると、洗濯済みのはずであるバスタオルを手に取って、タンスに入れてる替えの下着を出すと、そのままバスルームに向かった。
由衣がリビングに戻ってくると、早紀の姿が見えない。
「早紀……?」
しかしよく見ると、ソファの座面に倒れこんで寝息を立ているのに気がついた。
――おやすみ。
由衣は心の中で、そっと早紀に向けて呟いた。