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First Letter

作者: 結月一華

First Letter



(第一章)


 ―――――夢を、見ていた。

 ゆっくりと瞼を持ち上げて、目を覚ます。

 眠っていたというのに、今日はやけに憂鬱だった。

 怠さを感じた身体は、とある並木道沿いのベンチの上にあった。

 よく晴れた、心地の良い気候。

 青空を仰ぐと、雲ひとつない透き通った空色に重なるようにして桜の花が見えた。

 満開の桜の樹の下のベンチの上。

 私はいつから此処にいたのだろう。

 そんな些細なこと、然れども、どうでもいいことに思える。

 鉛のような身体を起こすことも億劫で、無気力のまま桜を見つめた。

 何時間、此処に留まっていただろうか。

 不意に、右の方から足音が聞こえた。

 木々が風に揺れる、自然の音に満たされていたというのに、その足音はやけに甲高い。

 ちょうど上を見続けるのも飽きてきた頃だったから。

 だんだん大きくなる足音の方へ目を向けると、女性がひとり、こちらへ向かっていた。

 長い髪を風になびかせて、ゆっくりと、一歩一歩、進む姿。

 私は、それがとても綺麗だと思えた。

 その女性(ひと)は私の前を通り過ぎで去ってしまった。

 挨拶くらいすればよかった。一抹の後悔が残る。


 ―――――翌日。

 目が覚めると昨日と同じベンチに座っていた。

 相変わらず満開に咲き乱れた桜は美しい。

 けれど、それ以上に美しいと思えた、その女性が現れた。

 軽やかな足取りで。昨日と何も変わらず雅に。

「―――こんにちは」

 彼女が、目の前を通り過ぎようとした、そんな刹那。

 意を決して声を絞り出す。このひと言に心臓は早鐘を打つように加速した。

「こんにちは」

 短い返事。ふっ、と柔らかく微笑んだ彼女は私を見ると、また去ってしまった。

 その背中を見送って、小さく決心する。

 もしも明日も会えたら―――、明日は二言、話をしよう。


                              (第一章END)



【 ⒈ 】


 五月中旬。

 都内の外れにある霊園には、心地の良い風が吹き抜ける。

 平日の昼下がり。境内のとある一角に、制服姿の女子学生が佇んでいた。

 そよ風に揺れる線香の煙。小さな花束と、紙パックのジュース、お菓子などを供えられた墓石の前。脇腹に松葉杖を挟んだ彼女は、レポート用紙に書かれたその小説を読み終えてから、次に便箋を取り出した。


  ――――――拝啓  お兄ちゃん

   遅くなりましたが、誕生日おめでとうございます。

   拝啓から書き始めるなんて堅苦しくて私らしくないんだけど、

   二十歳の記念にはふさわしい言葉だと思ったの。

   お兄ちゃんはお変わりないですか?

   こっちは相変わらずです。

   お父さんの仕事も順調らしく、お母さんもポジティブで明るい性格のまま。

   弟の拓也(たくや)は塾に通い始めて、この前のテストでは満点獲ってたんだよ。

   おかげで私も点数上げなさいってお母さんに小言いわれちゃってホント迷惑……

   私は高校生になって、あっという間に一ヶ月が経ちました。


   そうそう、始めに言っておくけど、今日のお手紙は珍しく長くなります。

   今年の春は、不思議な出会いがあったから、

   それをお兄ちゃんに聞いてもらいたいんだ。

   ドラマとか、おとぎ話に出てきそうって思うかもしれない。私もそう思うから。

   だって――――、出会いの始まりは小さな落し物だったから。



         ◆◆◆



 三月二十日。中学生最後の春。

 十五歳の中学生、皆川(みなかわ) (ひじり)は制服の胸ポケットに赤いコサージュを飾って卒業式を迎えた。ついに長かった義務教育に終止符(ピリオド)を打つ日。

 あいにくの曇り空。雨が降っていないのが奇跡に思える空模様。都内遠足も、修学旅行も雨や暴風に振り回された思い出があったから、たぶん雨男、雨女が多い学年なのだと思う。聖自身も七割方、雨が降られるタイプだった。

 聖の背後には要人警護でもするかのように保険室の先生が付き添い、卒業式後にようやく解放された。ひとり出遅れて教室に辿り着くと、すでに教室は動物園の檻の中のように騒音が飛び交っていた。

卒業アルバムに爆笑する男子の声。手紙を渡したり、連絡先を交換したりする女子達。別れを惜しんですすり泣く湿った音。今日に限っては担任教師も叱り文句を挟まずに教卓から教え子の様子を黙って眺めていた。

「あー、やっと帰って来た!」

「ひじりー写真撮ろう!」

 聖の姿を見付けたクラスメイトが、聖の車椅子を囲んで出迎える。

「じゃあ小顔効果で、ハーイチーズー!」

 自撮りモードのスマートフォンを斜め上に構えて、頬にピースサインをあてた顔痩せ効果を狙っての撮影会。小顔といっても画面いっぱいのアップ写真のおかげで車椅子も少しはトリミングされたことに聖は安堵して笑った。

 ほんの数週間、学校を不登校したせいで聖の周囲には絶えず人が集まった。

 日頃から脚光を浴びるほど目立つ存在ではなかったが、車椅子や入院という、日常からズレたものに興味を持った人達がこぞってやって来る。娯楽の少ない病院生活を送っていたせいか、聖は久しぶりに口角を上げた気がした。普段通り笑っているつもりでも、頬が突っ張ってすべてが愛想笑いに見えてしまうのではないか心配したけど、門出の日に、気にする者はいなかった。


「ひーじーりっ、おひさぁー」


 人の群れの中を、ずかずかと、それでも優雅にすり抜けながら聖の前に来る人がいた。

 彼女は、聖を陣取るようにして近くの机の上に腰をかけ、その長い足を組んだ。

 聖との会話待ちをしていた女子生徒は彼女の登場に遅れをとり、その場から遠ざかるのが視界の端に見える。はじめからそれが狙いだったように、彼女――――、堀井(ほりい)紅美(くみ)は満足に笑みを浮かべた。

「紅美……、『おひさ』って朝も会ったじゃん」

「卒業式中は席が遠かったからさ、数時間ぶりの再会に感極まってるワケですよ。それに、わたくし聖嬢の救済に参りましたー」

 ウィンクをして敬礼ポーズする紅美。互いに、お腹をかかえて笑い合う。

 彼女は中学で出逢った友人。出席番号が隣同士で、席も聖のひとつ前。紅美の方か振り返って声を掛けてくれることが多くて、親しくなるのに時間は掛からなかった。長身で姉御肌で平然と冗談を口にする紅美と聖の性格は、似つかわしい所がほとんどなかったけど、逆に新鮮味があって一緒にいてお互いが飽きない間柄。進学先の都立高校も、奇跡的に同じところになれていた。

「聖、疲れてるでしょ?」

「バレた? 久々の外出だとちょっとねぇ……。でも久々にみんなに会えて嬉しいよ」

「入学式までには間に合いそう?」

 紅美の質問に疲労感溢れた顔でほくそ笑む聖。

「その為にリハビリ頑張ってるんだよ。松葉杖で登校することは確実なんだけどね……」

 聖の左足の骨にはボルトが入っていた。雨の日に駅の階段で足を滑らせた結果、手術が必要なほどの骨折をしたのだった。

「松葉杖かぁ、か弱さポイントが男子の注目の的だね。傍観するのが楽しみだ」

「ちょっと、からかわないでよ……」

「あはは、じょーだん♪ 退院日決まったら連絡してよ」



【 ⒉ 】


 三月二十三日。案の定、雨天日。

 三日間の一時帰宅を経て、聖の生活は都内の大学病院へと戻った。

「あらぁ、おかえり~。寂しかったわよー」

「そんな言われてもねぇ、病院に帰って来たいんじゃないんだからさぁ」

「……あははは」

 病室は相変わらずの光景。聖が一時帰宅している最中に新入りがひとり増えて、今朝ひとり退院したらしく、次に来る入院患者の為に看護師と清掃スタッフが手際よく掃除をしていた。病院内はやっぱり目まぐるしい。

 話し掛けてきたお婆様ふたりの様子も相変わらずで、聖も変わらず独特のテンポに付いていけない。世代を感じる会話に、聖の母親はなに食わぬ顔で交じった。

「いつも娘がお世話になってます~、お土産です、よかったらどうぞ」

 と、洋菓子を配り始めた。

「あらやだ、太っちゃうわ~。でも私はチョコがいいわ」

「お世話だなんて、こっちこそ、いつもうるさくしてごめんなさいねぇ、はははは」

 聖よりも入院期間が長いお婆様方は、明るく楽しい毎日を送っているようにみえて、聖はなんとなく羨ましく思う。



         ◆◆◆



「聖ちゃん、お疲れ様」

 リハビリを終えると担当看護師の佐久間さんが顔出しに来た。今日は夜勤当番で出勤したばかりらしい。

「調子はどう?」

「松葉杖にまだ慣れないです。でも高校の入学式までには間に合わせたいので」

「まあ無理はしないでね。ところで卒業式どうだった? 楽しかった?」

「うーん……、疲れました、友達に会えて嬉しかったけど」

「若いっていいなあ。女子高生って響きに特別感あるものー」

 佐久間さんも、まだ二十代で若いと思うけど。そんなことを思いつつ、車椅子に移る聖。

 後ろから、佐久間さんが押してくれた。

「このまま病室でいい?」

「あ…………、ちょっと図書室に寄ってもいいですか? 気晴らしに……」

 病室に戻っても、あのお婆様方に「卒業式どうだった?」などの会話がリプレイされることは容易に予想できた。お喋りは嫌いじゃないけど、やけに億劫な思いから出た口実だった。

 エレベーターホールまで来た所で、聖は後ろを向く。

「一人で行けますから、ここで大丈夫ですよ」

「あらそう?」

「夕食までには戻りますから」

「気を付けてね。何かあったらナースコール押すのよー」

 聖が車椅子を動かし始めると「それから」という声に止められる。

「図書室では携帯の電源切ってね。機械入れてる患者さんもいるんだから」

 胸の上辺りをぱたぱたと叩くジェスチャーをすると、佐久間さんは手を振って見送った。

 そうして聖はカタツムリのように、のそのそと動き出して、三号棟を目指した。


 皆川聖とうい人間は誰が見ても優等生の容姿をしていた。目上の人には正しい敬語を遣い分け、答えも曖昧にしない。それなりに授業は集中して、課題の提出期限を守る。決して勉強ができる訳でも成績がいい訳ではなく平均値を保つ最低限度の学習を淡々と繰り返す、それが聖の学校生活(ループ)

 ただそれだけのサイクルを行うだけで、優等生に見られてしまうのだった。物静かで気性も平坦。争い事を避ける平和主義のせいもあるだろう。小学校、中学校の教師もそうだが、主治医や看護師たちも優等生には手を焼かない。

 はたから見ればつまらない人間と言われるだろう。大人の操り人形とでも蔑まされるかもしれない。それでも聖が望んだことだった。荒波に呑まれることのない航海の軌跡を選ぶ、ということを望んで好んだ。羽目を外さない保険付きだから認められた放任権。その欲した権利を手に入れることができたのはいつの日だっただろうか――――。


 入院して間もなく一ヶ月。

 聖は初めて図書室に出向いた。書籍はこれといって好きな訳でも嫌いという訳でもない。小学生の時も読書の課題に上限が決められていたり、中学生の朝には読書の時間が設けられていたりした為、本を手にする習慣はあった。『課題』といわれれば馬鹿正直に受け入れるし、期限が決められていれば尚の事、本を読み終えることは苦にも思わない。

 そんな聖が、自分の意志で図書室に来たことは、気分転換とはいえ甚だ珍しいことだった。

 佐久間さんに言われたように携帯電話の電源を切って入るが、ほとんど人はいなかった。中学校の図書室よりも広いが、棚と棚の空間が広い為、書肆数は多く感じられない。喫茶店に似合いそうなピアノの曲が程良い音量で流れる、古い紙の匂い漂う空間。

「こんにちは」

 入口付近で中の様子を窺っていると不意に受付のスタッフに挨拶されて、動揺しつつぺこりと返礼する。気まずく感じながらも奥へ進む。

 目当ての本があるはずもなく、上を見上げながら少しずつ車椅子を動かす。

 比較的に文庫本が多い気がした。それから難しそうな教典も並び、子供向けの児童書コーナーなど、多種にわたる。窓際には休憩スペースも常備してあって、白髪のおじいさんが、本を膝に置いたまま居眠りをしていた。

 ―――学校の課題では何を読んだだろうか。

 勉強では、好きなものや興味深いものだけ印象深く自分に蓄積される。課題も同じく期限と達成が第一条件で、その中身は自分に必要なものだけ残っていた。読んだ書籍のタイトルがあやふやなのは―――、そういうことなのだろう。

 なんとなく覚えているのは世間で話題になった物語。魔法使いや吸血鬼など、非日常のファンタジーが流行っていたと思う。分厚い本だったけど聖も流行りに合わせて読みきった。でも話題作というものは早々に映画化され、文字でストーリーを追っていくよりも、映像でストーリーに付いて行く方が自分には合っていると感じた。

 そんなことを回想してしまったせいか、なかなか本棚に手を伸ばすことができない。ぼうっと棚を見上げるだけの無意味な時間。このまま眺めていようか、病室に戻ろうか悩んでいた時――、ピアノの音楽が次のトラックに切り替わる、そんな時だった。

 男性専用の浅黄色の患者衣を着た人が、聖の横を通りすぎる。


 ―――――コトンっ


 乾いた、小さな音。

 過ぎ行く間際。彼の手元から光る物が滑り落ち、バリアフリーの平らな床に鳴る。

「……?」

 何が落ちたかは見えなかった。ちょうど車椅子の死角に入ってしまったから。それに気づかない持ち主はすたすた歩いて行ってしまう。

「あ、あのっ………!」

 焦って声を出したが、静粛とした空間に憚った声は小さい。それでも、その呼び止めに彼は気付いてくれた。たぶん彼がおじいさんだったら声は届かなかっただろうに。

 振り向いたその人は学生だろうか、若い人だった。でも聖よりは幾分年上に見える青年。

 有料借用の患者衣を着た細身の背格好。肩に引っ掻けるように紺色のパーカーを羽織る彼は、右手に本を数冊、左腕に包帯を巻いて三角巾で固定していた。少し髪の毛が長く、耳まで隠れていた。入院生活が長いのだろうか、でも、だらし無い印象は感じられない。

 彼は不思議そうに佇んだまま。聖はハッと気付いて慌てて声を上げた。

「あ………、えっと、落としましたよ?」

 滑り落ちた物が見えていないせいで語尾は自信なく疑問形。

 本来なら落とし物を拾って手渡ししたいところだけど、車椅子では身動きに限界があるし、不用意に動いて踏んでしまっては大変だ。落とし主の彼も片腕が不自由だというのに、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 彼は聖の脇で徐にしゃがむと、持っていた本を膝の上に置いて、落し物に手を伸ばした。ひとつひとつの動作が丁寧過ぎるほどゆったりと動く。体の一部分でも機能が欠けると動作すべてに影響が及ぶ。聖も足を手術して経験し得たこと。もしも自分がせっかちだったら入院生活で気に病むか、自身に腹立たしく感じたと思う。病棟内では行動、動作、時間の流れまでも外部とズレが生じている。

(嗚呼……、だから時差ボケして、今日は億劫に感じるのか―――)

 そう聖は心の中で納得して、自嘲した。

「私、踏んでませんでしたか?」

 車椅子を一ミリも動かしていないが、そう言葉を繋いでみた。

「大丈夫だよ、ありがとう」

 大丈夫という証に、彼は落し物を見せてくれた。

「これって……?」

「ブックマーカー。フランスの銀メッキメーカーがつくった栞だよ」

 と、楽しそうに、言い慣れたように彼は言う。

 聖は「栞」と聞いただけで、長方形の厚紙を思い浮かべてしまったのは普段から読書をしないせいだろうか。けれども彼のブックマーカーは楕円形で、先っぽには大きなビーズの付いたタッセルが飾られてあった。楕円の中には蔦のしなやかな模様が刻まれてあり、指紋を付けるのも躊躇ってしまいそうなほど柔らかく輝いていた。カトラリーやシルバーアクセサリーを専門とするブランドらしく、高級品とは疎遠の聖でも素直な感想が溢れる。

「綺麗ですね」

「うん、大事にしているものなんだ。声かけてくれて本当にありがとう」

 彼は嬉しそうに微笑んで、父親が海外へ出張した時のお土産だと話してくれた。それを膝の上の本に挟んで、ゆっくりと立ち上がる。細身の上に患者衣を着ているせいか、本を持つ姿が似合うからか、どう見てもインドア派の文学青年。二人の会話は淡々としながらも続いた。

「君、大学生?」

「いえ、四月から高校生になります」

「へぇ、大人っぽいね。同い年かと思ったんだけど、少し残念………」

「……あはは」

 大人っぽい――、言われ慣れているが、聞き慣れない言葉。肯定するほど自信家ではないし、否定をすると面倒くさいのでいつも苦笑いして逃避するか、あえて話を反らすようにしていた。

「大学生なんですか?」

「うん、十九歳。ああでも受験の時期にも入退院していてね、結局は通信教育で学んでる」

「……やっぱり、同じ世代の患者さんって少ないですよね」

 少し声を潜めて言う。若いくせに入院している方が低確率で変則的なのだけど。

「じゃあ―――」

 と言って、彼は、わざわざ持っていた本を棚の端に立て掛けて、右手を差し出した。

北瀬(きたせ)智尋(ちひろ)です。これも何かの縁だし、よろしくね」

「あ、皆川聖です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 反射的に聖も手を出す。人懐っこいひとだと思いつつ、智尋と名乗った彼と握手する。

「ひじり? 良い名前だね」

 聖は無粋気に薄く微笑む。名前を褒められるのは―――、嬉しくないことだったから。

 智尋は上下関係を好まない質らしく、敬語は不要だと年下の聖に伝えた。知り合った傍からそんな困ったことを言われ、上下関係を考慮してきた聖には違和感でしかないが、年上の智尋が言ったことだからそれに否定はしなかった。

 お互いの名前も敬称なく呼び合うことが決まった時だった。

「聖、そういえば、ここ来るの初めて?」

 こことは、病院ではなく図書室を指していた。初対面の人に名前を呼ばれて少しだけむず痒い。思った以上に敬語NGは喋る言葉も悩ませる。

「入院はもうすぐ一ヶ月になるけど、図書室は初めて……だよ?」

 悩み悩み話した末に疑問形で締めてしまった。ぎこちない談話を智尋は気に留めていないようだ。

「やっぱり。俺は毎日来てるけど初めて会ったから」

 毎日? と鸚鵡返しに呟くと、小説が好きだと智尋は答える。その顔は大学生とは思えないほど無邪気な、幼さを含んでいた。こんな笑顔は、内向的になりやすい入院患者とは思えない。


 ―――どうして、そんなに笑っていられるの? そんな、些細な感想、だった。


「………私ね、あんまり本読まないの。オススメあったら教えてほしいな」

 真似をしようと思って、聖も笑って訊いてみた。

「いいよ。好きなジャンルとかある?」

「流行りものしか読んだことなくて……、智尋は、なに読んでたの?」

 名前を口にしてみて、内側が粟立つ感じがした。身内以外の男の人を、呼び捨てで呼ぶのはやっぱり違和感だ。

 智尋はさっきまで持っていた本の表紙を向けて、「文字ばっかりで面倒くさい本だよ」と苦笑する。訊ねた聖も、背表紙に寄り添う、ブックマーカーのタッセルの方に目が泳ぎ、タイトルには関心が向かなかった。

「いきなり長編を読むより、読みやすい方がいいよねぇ」

 独り言をつぶやく智尋は、本棚に整列された背表紙をきょろきょろ見回す。

 迷惑だっただろうか。聖は思ったが、遠慮したくない気分にもなった。なんとなく智尋の横顔が楽しそうに見えたから。

「一晩で読み切れるものが――――、あ」

 なにか思い至ったのか、けれどきょとんとした顔で、智尋が言う。

「聖って、イヌ派? ネコ派?」

「イヌ派だよ……?」

「誕生日いつ?」

「え? 来月の十四日だけど………?」

「あ、ほんと? 近いね。じゃああの本にしよう」

 智尋の中でひらめきが起きたらしく、図書室の端にある本棚へ向かう。

 のろのろ後ろを追う聖は、驚くことに児童書コーナーに来ていた。まだ十五歳だったが、だからといって子供向けのスペースには躊躇する。智尋はおかまいなしと、あいうえお順の棚からいとも簡単に探しものを見付けたらしい。

「これオススメだよ」と、はにかんで本を手向ける。反射的に差し出されたものを受け取りつつ、聖は目を丸くする。

「え? 絵本?」

 その大学ノートよりも広い表紙には『たんじょうびの ふしぎな てがみ』と書かれていた。だから誕生日を訊ねたのか、と納得する。とはいえ、まさか絵本を薦められるのは予想外だった。

「気に入らなかったら、別のを探すけど」

 控えめだけど、彼は満足そう。断る理由もなく、我がままを言うのも苦手な聖は、最初の一冊を、この絵本に決めた。

 智尋は借用手続きの流れも教えてくれて、受付のカウンターに借りたい本と、身分証である診察カードを渡して、本のバーコードをパソコンに読み込ませて完了。中学校の紙の図書カードに名前を記入するというシステムに、あらためて時代遅れを感じた。

 智尋は、面倒くさいと称した単行本を二冊。

 聖は、幼少時以来、読んでいなかった絵本を一冊。それぞれ借りて図書室を出た。

「二号棟?」と聖が包帯の巻かれた腕を見つつ問うと、「五号棟」と智尋は残念そうに答える。不思議に思ったけど、訊きすぎることは失礼だと思った。だから、にっこり笑って。

「正反対だね」

「……うん」

 淡々とした会話。なんとなく惜しむような、春の雨の空気がする。

「今日はありがとう、本探してくれて嬉しかった」

「こちらこそ。拾ってくれたお礼ができて良かった」

 と、智尋は顔の横で、ブックマーカーのタッセルを揺らす。

 それが手を振っているように見えたから、聖も「またね」と、卒業式の日に同級生に言ったように、曖昧に手を振る。

 そして、二人は正反対に進んでいく。

 ゆっくりと車椅子を動かす聖。少し大きな絵本を膝に乗せて。

 入院生活も間もなく一ヶ月を迎える。初めて図書室へ来て、初めに手にしたものは紙の本ではなかった。

 北瀬智尋との握手―――――、これが聖の始まり(ファーストブック)。



         ◆◆◆



 聖が絵本を開いたのは、就寝時間の直前。枕元の電球を付けてカーテンで周囲を隔て、静かになる時間を選んだのだ。

 静かな分、本をめくる音が丁寧になる。

 タイトル『たんじょうびの ふしぎな てがみ』

 アメリカの絵本作家による作品。ビビッド色で描かれる絵。なんの画材で描かれているのだろうか。水彩絵具には見えない、アクリル絵具だろうか、それとも聖の知らない画材? 絵本を一ページめくってみて、そんな感想だった。

 主人公はチムという青い目の少年。誕生日の前日、★や■などの暗号で書かれた不思議な手紙をみつける。その手紙には記号と共に道順が書かれ―――、『そこに びっくりするような ものが まっていますよ。』と締めくくられた。

 絵本のページ自体が暗号の形になっていて、主人公のチムは暗号を追って進んでいく。

「あ―――――」

 最後の暗号は長方形。ページの中央に空いた、その穴の奥にある『びっくりするようなもの』に、聖は驚いて目を丸くした。


         

【 ⒊ 】


 次の日。

 聖は午後のリハビリを終えると、病室に戻ってから、図書室へ向かった。

 目的がないよりも、目的があった方が、日常は変化する。たとえ小さな事でも、無よりは違う温度がある、違う空気がする、違う色が見える、――――――。

 車椅子を動かす聖の手も、いつもより力がみなぎっているように感じた。

「―――こんにちは」

「あら、昨日の」

 昨日と同じ受付カウンターのおばさん。今日は聖から先に挨拶をしようと決めていた。首から下げたネームプレートには『図書スタッフ・波木』と書かれてある。

 昨日、初めて借用する絵本は、少し躊躇いがあった。けれども彼女は嬉しそうに「あら、懐かしい。私の息子が小さい時に一緒に読んだわ」と世間話をした。この大学病院には幅広い年代の患者が入院しているが、やっぱり児童書が借りられることは少ないらしく、彼女は「良かったわね」と子供の頭を撫でるように絵本をさすった。それが、聖には印象深かく残ったのだ。

「この絵本、私も好きになりました。ありがとうございました」

「そう、良かったわね」

 目元の皺を深くして、本を受け取る。彼女の仕草には愛おしさが滲み出ているようで、それが素敵だと聖は思った。

「今日も来てるわよ」

「……はい、ありがとうございます」

 窓際の方を指差される。少し驚くように照れて、それを隠すように笑って礼を言う。


 ――――目的がないなら、それを探せばいいだけ。

 どこかの詩人が言いそうな台詞が、聖の胸の中で根をはる。


「――――智尋、」

 ぱたぱた手を上げて挨拶をする。休憩スペースのソファで読書していた彼が顔を上げる。

 昨日と変わらず、浅葱色に紺色のパーカーを羽織って。

「やあ、聖。――――今日はいい天気だね」

「いつから来てるの?」

 昨日よりも、ため口は楽になった気がする。

 智尋の持っている単行本は、半分は越えているようだった。

「お昼食べてからずっと。とくにリハビリとか無いから、暇だしね」

 銀色のブックマーカーを本に挟んで、穏やかに笑った智尋は言う。

「今日も聖が来るんじゃないかって思って、気長に待ってた」

「うん、今日も来ちゃった」

「……昨日の絵本はどうだった?」

 聖が、車椅子をソファの脇に寄せていると、控えめな問いがする。

「絵本って久々だったけど面白かったよ。イラストも素敵な色合いだったし。それにね、びっくりしたことがあったの! 私ね、五つ年下の弟がいるんだけど、私が十歳で弟が五歳になった年に、二人でおねだりして誕生日に犬をかってもらったの! でも、なかなか両親が納得しなくてね――――、」

 気付くと、自分の誕生日のことを一方的に喋っていた。でも彼は楽しそうに聞いてくれている。

「昨日、イヌ派か、ネコ派を訊いたのは、そういう意味だったのね?」

「うん、でも犬を飼ってるとは思わなかったから驚いた。偶然だけど、嬉しいなぁ」

 智尋の親戚も犬を飼っているらしく、そのあとは犬の話をした。スマートフォンには犬の写真がいっぱい入っているが、電源を入れられない図書室内では、写真を見せることができなくて少しもどかしさを覚える。

「今日はどうする?」

 智尋の穏やかな問いだった。でもその手は小説を包んでいたから。

「今日は少し、自分で探してみる」

 昨日に引き続き、読書の邪魔はしたくないと思った。

「でも悩んだら、またオススメ教えて」

「うん、喜んで」

 再び本を開く智尋。邪魔にならなくて良かったと胸を撫で下ろして、児童書コーナーへ向かう。文字ばかりの書籍より、絵がたくさんある絵本の方に興味が沸いた。

『十一匹のねこ』『ぐりとぐら』『はらぺこあおむし』『人魚姫』『赤いくつ』

 遠い昔に、読んだことがあるタイトルが並ぶ。横長の『はらぺこあおむし』を引き抜くと、思わず「あっ」と声をあげる。作者「エリック・カール」は昨日読んだ絵本と同じ人物だったから、目を見張ったのだ。だからページに細工してあったのか、となんだか楽しくなる。

 気になった絵本を膝に積み重ねて、休憩スペースのテーブル席へ戻る。智尋は黙々とページをめくっていたから、不用意に声をかけるのはやめた。

 時刻は夕暮れ時に傾いていた。

 智尋がソファーの背凭れに沈む動作が見えた。とりわけ智尋を気にしていた訳ではないけど、突然動いたから反応してしまっただけ。智尋の本は閉じられていた。ブックマーカーを挿まずに。それを察して「読み終わったの?」と訊くと、溜め息まじりに頷く智尋。何を読んでいたかは知らないけど、昨日借りた本は文字が多くて面倒なやつと言っていた。

「疲れたの?」

「ちょっとね、集中しすぎた………」

「どんな物語だったの?」

 智尋の様子を見て、読みたいとは思わなかったけど、疲れる本の中身は気になった。

「ジャンルでいうと、サスペンスとホラーの中間かなぁ。心霊現象と殺人事件が起こる感じのやつ」

 サスペンス系の物語は母親がテレビドラマでよく見ている。物語背景の雰囲気はわかるけど、文字では読んだことがなかったし、殺人現場を文字で淡々と説明されるのは気分が悪くなりそうだ。

「病院なのに、そんなネガティブな本があるんだね………」

「あはは、確かに。でも小説もオススメだよ。この本だって群像劇がなかなか面白かったし。本ってさ、ただの娯楽品だと思われるかもだけど、それを仕上げた著者が何時間も、何十時間もかけて仕上げたって思うと、娯楽以上の価値があるように思えるんだ。単行本や漫画だって一冊、数百円で手に入るのは有り難いと思うけど、僕はもっと値段が高くてもいいと思うんだ」

 不意に出たそれが、智尋の価値感だった。

 それから本を読み終えた時の気持ちも教えてくれた。

「名残惜しくなるんだ………」

 物語の内容を探るように読み始めて、内容が発展してくると先が気になって猛スピードで読み進めて、クライマックスが近付くと読書ペースを落として、丁寧に読むのだという。夢から覚めるように、その物語から離れるのが名残惜しくなってしまう、そう智尋は語った。

「切ないって言うのかな……。ブックマーカーを挿まずに本を閉じる瞬間、ちょっと寂しくも思うんだ。―――ごめん、口下手だからさ、わかりづらかったよね……」

「ううん、大丈夫だよ」

 聖は少し笑って智尋を見つめた。いつもは聖に喋らせるような質問会話だったけど、本を語る今の彼は驚くほど饒舌だった。

「本が好きってことが十分、伝わったよ」

「………ありがとう」

 智尋の頬は少し赤く染まっていた。でも照れ隠しもせずに笑う彼に合わせて聖も笑った。

「私も小説読んでみようかなぁ、読むの遅いんだけどね」

「………………」

 独り言を漏らしたつもりだったけど妙な間が生じた。智尋が微かに顔を反らしたことが不自然で、気掛かりに思えた。

「智尋、どうかしたの?」

「なんでもないよ……、じゃあ今日もオススメの本を探してあげるね」

 そう言って立ち上がる智尋は、昨日と同じ棚―――、児童書コーナーへと向かった。

(どうしたんだろう、まずい事でも言っちゃったかな………)

 取りまく空気が変わった気がしたけど、何も言わずに智尋の後を追うと、少し文章の多い絵本を手渡される。ドイツ作家、ミヒャエル・エンデ作『ゆめくい小人』――――――。


         

【 ⒋ 】


 三月二十五日。

 図書室の窓辺に智尋はいた。めずらしく本ではなく、窓の外を見据えている。

 横顔だけでは表情までわからないけど、なんとなく話しかけていいものか躊躇った。

(昨日のこと……、悪いのが私だったら謝りたいな)

 昨日、智尋の表情が変わったことが気になって、聖はなかなか寝付けなかった。考えすぎなのかもしれないけど、せっかく仲良くなったのだから、入院している間は良好な関係を続けたいと思っていた。

 タイミングを見計らっていると、不意に智尋が振り向いた。


「―――やあ、聖」


 振り向いた、その顔はいつもどおりの笑顔。

 少し鼻で笑って、「声かけてくれればいいのに」と。

 つられて聖も微笑みを返す。考えすぎていた自分が馬鹿だと思った。

「黄昏てたようだったから。何か見てたの?」

 安堵に包まれながら、智尋の隣まで車椅子を寄せてみるが、聖の目線からは到底、窓外の様子は窺えない。見えて、少し眩しい曇り空だった。

「桜の樹を見てたんだ。来週から四月だから、そろそろ咲くかなー、って思って」

「私ね、春って苦手、なんだよね………」

「花粉症とか?」

 無邪気な質問に、聖は躊躇って「偏見もたれやすいんだけど」の前置きを添えた。

「………桜が、好きじゃなくて」

「へぇ、珍しいね。日本人はみんな好きだと思っていたけど」

 聖の意外な台詞に、虚を突かれたように目を見開いていた。

 それでも、否定や拒絶はしない。意見を合わせることもなく、ただ自身の想いを述べる。

 穏やかな、困ったような笑みで。

「俺は桜が好きだよ、―――――憂鬱になるくらい」

 そう、空を仰いで言う。

 その想いの奥にある意味を、聖は訊かない。訊く為の言葉がわからなかった。

 智尋はゆっくりとした動作で窓枠に寄りかかると、楽しそうな顔をして聖を見る。

「じゃあさ、何の花が好き?」

「え………」

「退院祝いに贈ってあげるよ。きっと俺より早いと思うから」

(そういえば、智尋はいつから入院しているんだろう)

 聖よりも長そうな事は言っていたけれど。

 好きな花を考えるフリをして、智尋のことを考えた。聖の足の骨折よりも智尋の腕は重症なのだろうか、と。でもいつもニコニコ笑う智尋の様子からは怪我の度合いが想像できないのも事実だった。智尋は話しやすい雰囲気をもっていたけど、決して饒舌ではなかった。まだ知り合ったばかりのせいもあるかもしれない。女性と違って、男の人は自分のことをペラペラと話さない。聖の両親もそんな感じだった。

 時間がもっと多く過ぎることを聖は願った。もっと智尋と会話を重ねてみたい、そんな些細な願いを込めて、聖は頬を緩ませる。

「桜以外なら何でも喜ぶよ? じゃあ、楽しみにしてるからね」

 くすくす笑う、穏やかな時間が心地よかった。


 でも――――そんな話をしていたからだろうか。

 翌日の検診で、聖の主治医は嬉しそうに『退院話』を持ちかけた。

 数日前までは早く退院したくて仕方が無かった。早く自由になりたくて。友達と遊びに行きたくて。仕方が無かったはずなのに、心の中では確実に戸惑っていた。

 その日のリハビリ以降、車椅子を卒業して松葉杖で行動するようになった。

 図書室へ入ると、入り口のカウンターで本の整理をしていた波木さんと目が合った。

「あら! 聖ちゃん」

 視線を上下するようにして松葉杖を見て、波木さんの顔が明るくなる。

「松葉杖になったのね。退院も近いんじゃない?」

「……はい、来週に決まりました」

 酷く情けない顔をしていたらしく、肩に手を置いてくれた波木さんも、困ったように眉を下げる。

「そう、良かったわね」

 どうにか引きつった顔で苦笑して、聖も頷くことしかできない。

(智尋にも伝えないと。でもどんな顔して言えばいいのかな……?)

 そんなことを考えていると、波木さんはぽんぽんっと肩を叩いた。慰めのような、合図のような仕草に始めは理解できなかったが、後方に人の気配を感じて、首だけ振り返った。

「あ……………」

「――――やあ、聖。今日は晴れだね」

 智尋。彼の涼しげな笑顔に、聖は面食らってしまう。

(もしかして、今の会話聞いていたかな?)

 あからさまに戸惑う聖の受け答えを待とうともせず、智尋はカウンターに単行本と、診察カードを置いた。

「波木さん、借用手続きお願いします」

「はいはい、ちょっと待ってね。この前もこのシリーズだったわね」

「なかなか読みづらいですけど、ハマっちゃいまして」

「ふふ、私もハマったことあるわぁ」

 たぶん、この間のサスペンスホラー小説の会話。内容の知らない聖は楽しげなその会話には入れない。手続きが終わったら智尋は帰ってしまうだろうか。この時間に借用するのだから、そういうことなのだろう。二人の会話が終わったら、智尋と話そうと決心をしていると。

「聖ちゃんは? 返却ある?」

「へ? ……あ、はい! あります」

 不意打ちの波木さんの声に、慌てて返事をして、ショルダーバッグから絵本を取り出した。

(あっ―――)

 と、心の中で喘ぐ。カウンターから若干離れた所で本を取り出してしまった為に、手が塞がって松葉杖が持てない。これからは些細なことでも考えて行動しなきゃ……と溜め息が溢れそうになる。慣れないこの不自由さは相変わらず億劫に思う。

「貸して」

 おどおどしていると手が伸びてくる。半ば強引に、聖の本を引っ張ったのは智尋だった。身動きが取れない聖に何か言いたそうだったけど、その代わりに苦笑した声が落ちる。

「波木さん、聖のです」

「はーい、どうもね」

 返却本を受け取った波木さんは事務作業に戻るようにして、カウンターデスクに着いた。

(智尋って、こんなに背高かったんだ……)

 車椅子の時は気にも止めなかったのに、松葉杖になっただけで、見えるものがこんなに違うとは思わなかった。聖の方へ向き直った智尋は顔を傾いで笑う。

「どういたしまして」

「……え、まだ何も言ってない」

「そう顔に書いてあったから」

「……………………」

 こう笑われると何も言えなくなる。智尋に伝えたいことがあるというのに。

 こんなに穏やかで、他愛ない空気をつくってしまう智尋が、やけにズルいと思う。

「聖、ちょっと付き合ってくれない?」

 思い掛けない誘いに驚いたけど、こくり、と素直に頷く。智尋は行き先も言わずに、ゆっくりと図書室の出口へ向かう。波木さんに一礼して図書室を出ると「甘酸っぱいわねぇ~」と鼻で笑う声が聞こえたような、空耳だったような………。

 智尋は五号棟の方へ向かった。五号棟といえば智尋の病室がある病棟だったから、忘れ物でもしたのかと思って、智尋の背中に問う。

「智尋の病室にでも行くの?」

「………はあっ!?」

「えっ? ………あ、えーっと、五号棟ってそうでしょ?」

 突然振り返った智尋に聖はびっくりして慌てる。不意打ちのような行動よりも、いつもと違う智尋の表情の方が驚いた。わたわたしていると、彼は小さく溜め息をついて、少し小声で言う。

「あのさぁ……、何もないとはいえ男だらけの病室に呼ぶ訳ないだろう。病院で逢い引きしてるって噂にでもなったら大問題でしょ………」

「っ!」

(あ、あああ、逢い引きっ!?)

 思い掛け無い単語に、顔面が熱くなる。

「ご、ごめんなさいっ、そんなつもりじゃ!」

 しどろもどろになりながら弁解と謝罪を繰り返す。軽率な発言に怒ってはいないようだけど、少なからず呆れられた様子。松葉杖さえ持っていなければ熱をもった顔を覆いたい気分だ。

「まあ、意図はないって察したから大丈夫だよ。それより落ち着いてから歩いてね。これじゃあ転ばれても受け止められないんだから」

 と、智尋は自分の左腕を指差す。

「はい…………、以後気をつけます、色々と」

 思えばこんなにも感情が乱れるのは久しぶりかもしれない。学校では紅美にからかわれて遊ばれていたけど、病院では優等生キャラの聖で遊ぶ人物もいない。

「ふふ、純粋だってことが十分わかったよ」

「……!」

 意味深な微笑みのままエレベーターへ乗る智尋を追うと、彼は最上階のボタンを押した。

「ゆっくりでいいから気をつけて」

 ―――五号棟六階。少し狭い扉口を通ると、そこは屋上だった。

「わあ! 屋上始めてきた」

「二号棟にはないからね、晴れた日はここで読書してるんだ。周りはビルだらけで見晴らしは悪いんだけど」

「でも、気持ちいい。今日の天気はうってつけね」

 好きなベンチに座っていいよ、と智尋に言われて日当たりの良い席を選んだ。

「甘いので良かった?」

 近くの自販機で智尋は電子マネーで手際よくジュースを買ってくれた。パックのカフェオレとココアを差し出されて、素直にココアを受け取る。

「ありがとう」

「ここじゃあ、これぐらいしか奢ってあげられないからね」

 隣に座った智尋は、器用に口でストローを引っ張ると、パックを膝に挟んでストローを差した。

「器用だね」

「片腕の生活も慣れたもんだよ。利き手じゃないことが幸いなぐらい」

 そんな会話をしていると二人の間に心地よい風が吹き抜けて、髪の毛を弄ばれる。

「………ん?」

 風の隙間。智尋の耳に光るものが見えた気がした。聖が目を見張ると、それに智尋は首を傾げた。

「どうかした?」

「智尋ってピアスしてるの?」

「ああ、うん、してるよ。……最近、髪伸びてきたからね」

 そう言って、男性にしては少し長い髪の毛を耳に引っ掛けると、右に一つ、左に二つのやわらかい紫色をした宝石のようなピアスが煌めいた。アレルギー体質らしく、非金属製だと言われるまで気付かないほど、そのピアスは綺麗な色を帯びていた。

(ちょっと意外かも……。患者衣姿しか見たことがないから、智尋の私服がまったく想像できないけど、もしかしたらお洒落に気を遣う大学生なのかな?)

 隣に座っている分、まじまじと見入ってしまう。

「そんなに珍しい?」

「そうじゃなくってね、中学って色々と校則が厳しくって、ピアス禁止だったから、退院したら開けようって決めててね………………」

 そう言って、あからさまに言葉の先を詰まらす。地雷を踏んで自滅した気分だ。

「いつになったの?」

 と、思いがけず、平然な問い。

「三十一日に……」

「おめでとう、もう直ぐだね」

 温度を変えない声だった。聖は俯いてしまい、表情は見なかった。気になったけど、両手で握り締めたココアから顔を上げられずにいた。高校へ進学するにあたって準備諸々を配慮して、早めの退院を提案してくれた主治医には感謝した。

(でも、素直に喜べない)

 智尋と親しくなってしまったから。もっと話をしてみたかったから。本について教えてもらいたかったから。それに智尋より先に退院するのが、申し訳なく感じる。生意気かもしれないし、迷惑な考え方なのかもしれない。平然としている智尋からすれば、他人の退院など気に止める事柄でもないのかもしれない。

(独りよがりもいいところだよね…………)

 聖が黙ったせいで、小さな沈黙が続いた。

 横に並んで飲み物を飲む音が、やけに耳につく。智尋はベンチに置いた本を読もうとはせず、陽が傾き始めた、雲が流れる空を仰ぐ。


「―――聖は、神様って信じる?」

 まるで上の空のような囁き。

 困って、出した返事は曖昧になる。

「……どうだろ」

「俺も同じ感じかな」

 くすっと溜め息みたく鼻で笑う智尋を、横目で見る。

 相変わらず、視線は空の果てを見据えている。

「もしも神様がいるとしたら、意地悪だと思うんだ。同じ病院で寝泊りしてるんだから、もっと早くに会わせてくれてもよかったのに、って」

 もっと早くに聖と会えていたらな。そのひと言に胸の奥が痛んだ。

「寂しくは思うけど、聖の退院は嬉しく思ってるから」

 どっちつかずの事を言って、智尋はようやく苦笑顔で聖を見た。

(なんとなく、同じことを考えていたんだ)

 それだけで報われた気がする。横柄で、無鉄砲な思考かもしれない、でも今の聖にはこれしかできないのだ。

「退院まで毎日晴れるといいな。図書室も落ち着くけど、此処も好き」

 智尋がいるから。たぶん、ひとりで居たら、つまらない場所。殺風景なビルの間に夕陽が眩しくなり始めて、交通のガヤガヤした音が無音を生むことはない、都会の空の下。


         

【 ⒌ 】


 四月三日

 高校の入学式まで、一週間はきっていた。

 中学校の卒業式以来の自宅はやっぱり落ち着く。時間に縛られず自由に行動ができるから。夜遅くに紅美と電話することだって、躊躇せずできることに気が楽だった。それでも病院生活の規律が癖になってしまい、昨夜も「聖、眠そうだね」と紅美にバレて、九時には電話を切ってしまった。

「お母さん、クルミの散歩行ってくるー」

「はいはい、気をつけてね」

 早く就寝した分、早起きも得意なものになった。退院して以来、リハビリや運動不足対策の為に、朝七時にはラブラドールレトリーバーのクルミと散歩するのが日課になっていた。

 聖が十歳の誕生日にやってきたクルミ。智尋が薦めてくれた絵本の内容と、犬の話をした時の彼の表情を思い浮かべる。

 退院してまだ数日しか経っていないというのに、妙に遠い思い出に感じてしまう。

 体の一部のように同化してしまった松葉杖を駆使して、玄関を出ると、決まって郵便受けを覗く。これも習慣化していた。

(あっ………)

 新聞や広告で満たされる中に、白い便箋を見付けた。

「クルミ、公園行こう!」

 便箋をポーチに入れて、愛犬の一歩前を歩く足取りが軽いのは気のせいだろうか。

 自宅から五分くらいの場所に、小さな公園があった。木のベンチに座って、聖は颯爽と便箋を取り出す。表には『皆川聖様』と書かれ、裏には、


 ――――――『北瀬智尋より』。


 智尋からの手紙だった。初めての手紙だった。

 なぜか、そわそわと緊張して、頬が緩みそうなくらい嬉しい。丁寧に封を切ると、彼の手紙の頭文字は『拝啓』だった。少し堅苦しくて十代の学生同士の文通らしくないが、なんとなく智尋らしい気がした。書き慣れている整った字で綴られた手紙を見つめる。


  ――――拝啓

   改めまして、退院おめでとう。

   元気かい? こっちの病院生活は普遍的な毎日だよ。

   グリードの曲で六時に起床して、八時に朝食が来て、

   回診が来たら昼食まで暇してる。

   本を読めることは幸せなことだけど、聖がいた頃は楽しかったんだなって、

   今頃になって気付いたよ。入院中はありがとうね。

   聖と話していた時間は本当に楽しかったよ。

   高校の準備は忙しい?

   松葉杖での通学が大変そうだけど、無理はしないようにね。

   なにか楽しい事とかあれば教えてよ。

   気が向いたらでいいから、返事送ってくれると嬉しいな。

                                 草々



 手紙を丁寧に封筒にしまって、聖は小さく微笑む。

 退院日のことを思い出した。前日まで晴れていたというのに、早朝から雨がパラつき始めて、「雨女だね」と、からかうように智尋に笑われた時のこと。

 午前中に退院しなければならず、朝食を済ませた後は私服に着替えて、母親が迎えに来るまでの間、図書室で過ごそうと決めていた。

「あら、聖ちゃん。私服になると美人ねぇ」

「……そ、そんなことないですよっ」

 ほんの数日で慣れ親しんでしまった図書室に入ると、カウンターを挟んで波木さんと智尋が談話を楽しんでいた。

 開口一番に波木さんから褒め言葉をぶつけられて、慌てているところを智尋に笑われた。こんな和やかな雰囲気とも今日でお別れ。歯がゆいほど名残惜しい。でも、そう惜しむことができる時間を過ごせるとは思ってもみなかったから、病院生活も振り返れば悪くなかったと思う。

 波木さんは「午前中は利用者少ないから」と言って、パイプ椅子を出してくれた。

 智尋はカウンターにもたれ掛かりながら、聖の名を呼ぶ。

「手、出して」

「?」

 言われるがまま片手を差し出すと、上から重ねるように智尋の手が落ちた。

「退院祝いだよ」

 智尋の手が退くと、掌にすっぽりと収まる包装された箱が置かれていた。

「約束したでしょ? 退院おめでとう」

「え、あ、ありがとう! 開けてもいい?」

「どーぞ」

 くすっと笑われて、顔が熱を持つ。でもそれ以上にプレゼントが嬉しかった。

 早る気持ちを抑えて、慎重に赤い包装紙を捲る。箱の中には白い花をモチーフにしたピアスが入っていた。小さいけど花弁が多くて、耳から下げたら揺れるような、大人っぽいデザイン。

「可愛い!」

「あら素敵ねぇ。智尋君、センスあるじゃな~い」

 嬉しいのに「可愛い」「素敵」を繰り返して、喜ぶことしかできなかった。まだ耳にピアス穴を開けてもいないのに、今すぐ飾ってみたくて仕方がない。

「退院日、突然決まったから……間に合ってよかったよ」

 騒ぎ立てる聖に、困ったように苦笑する智尋。少しだけ頬が染まっていた。彼ご愛用のアクセサリーカタログから選んで注文してくれたらしく、女性物ピアスを選んでいる智尋の姿を想像して、笑ってしまった。

「智尋、ありがとう! 今から付けるのが楽しみ!」

 付けたところを見せられないのは残念だけど。頭の片隅でそう思ったけど、仕方のないこと。病院は一抹の時間で、思い掛けずあっさりと終わってしまう場だから。思い出ができただけでも幸せなのだから。今の聖にとっては両手の中に『宝物』までを包んでしまったのだから、これ以上の我がままはバチが当たるように思えた。

 それでも嬉しい感情が鳴り止まず、聖はお礼の言葉を口にする。波木さんは何か言いたそうな顔をしてニヤリと微笑んで、二人を見守りつつ、仕事を始めた。

 時刻は間もなく午前十時。そろそろ聖の母親が迎えに来る時間だった。連絡も入れずにほっつき歩いていたら、退院早々に叱られてしまいそうだ。そう思っても、帰路が重く感じて、小さな箱を握ったまま立ち上がれない。

 幾分の沈黙の中、ピアノの曲が二人の間を取りまく。

(そろそろ、行かなきゃな……)

 と、松葉杖で立ち上がろうと思った時――――

「聖、差し支えなければ住所教えてくれない?」

 手紙送ってもいい? と予想外な言葉だったことを思い出す。

 驚くことに、智尋は携帯電話を持っていなかったから。


         

【 ⒍ 】


  ――――智尋へ


   ちょっとだけ久しぶり。お手紙ありがとう。

   こんなに早いとは思わなくて少しびっくりです。

   私は今日、入学式を終えて女子高生になりました。

   新しい制服にテンション上げたいところだけど、

   あいにくの雨天だし、足に包帯巻いてるから残念だらけ。

   ブレザーも松葉杖の跡がつきそう(泣)

   でも校内にエレベーターがあるし、学校の車椅子も特別に貸して

   もらえることになったから思ってたより苦労は少ないんだよ。

   友達も色々と気を遣ってくれるから、毎日感謝してる。

   高校の図書室はまだ行ってないんだけど、

   今度友達つれて行ってみようと思うんだ。

   だからまた、オススメ教えてね。

   春は気温の変化があるので、体調には気を付けて。


   PS / ペットの写真入れるね。

   ラブラドールレトリーバーのクルミ、五歳です。


                            聖より (四月七日)   


「…………………」

 自室の机に肘をついて、指先で耳たぶに触れる。開けたばかりでまだ慣れない、透明のファーストピアス。それを軽く弄りながら、書き終えたばかりの手紙を何度も何度も読み返した。

 何年ぶりかわからないくらい手紙を書くのは久しぶりだった。年賀状くらいは書くけど年々送る枚数は減っていたし、文字だって学校の授業や勉強以外で書くこともない。誤字脱字にも気を配るけど、文章の内容や量もこれでいいのか悩む。

(普段のメールと同じ感じで、いいんだよね……?)

 携帯電話やパソコンのメールで躊躇って打ったことはないのに、紙に書くとこうも違うのかと内心そわそわした。幾度か不安がループして、ようやく封筒へ入れる。

 手紙の内容よりも宛名を書くことの方に手が震えたと思う。智尋は入院中の為に、宛先は病院だった。住所、病院名、病棟、部屋番号、智尋の名前―――と表に書くことが多すぎて困る。でも、智尋と連絡が取れることが、嬉しい。ただ、そう思った。

 こうして、聖と智尋の文通は始まった。



  ――――聖へ


   返事ありがとう。

   それに高校入学おめでとう。

   門出の時期はおめでたい事がいっぱいで、こっちまで嬉しくなるよ。

   犬の写真もありがとう。かわいかった!

   親戚が飼っているのは柴犬だから、ちょっとだけ大型犬って憧れるなあ。


   部活は決めた? そもそも高校って部活あるんだっけ?

   読書部なんてあればいいのにね。

   図書室の本を読みあさってから帰宅って部活あったら、絶対に入部するなあ。


   あ、そうそう。

   少し悩んだんだけど、聖に見せたいものを同封するね。

   いや……もしかしたら、だいぶ悩んだかもしれない。

   戯言に近いんだけど、俺ね、将来作家になりたいって思っているんだ。

   ただの希望だから、本気にしないでもらいたいんだけどね。

   勉強不足だし、自信なんて皆無だし、ただの夢だから。

   だから、聖に評価してもらいたいと思って、

   絵本をモチーフにしたシナリオを同封してみたんだ。

   だいぶ昔に書いたものだから、字も汚くて申し訳ないんだけど……。

   でも、聖には見せてもいいかなって思えた。笑われても納得すると思うし。

   学校も始まったばかりで、勉強とか忙しくなると思うから、

   無理してまで読まないでね。負担にならないように。

   でも、返事待ってるね。緊張しながら(笑)

   というか、やっぱり、自信ないな…………。


   『アコーディオンの物語』同封。

                            智尋より(四月九日)   



         ◆◆◆



(将来の夢かぁ……)

 智尋の手紙を読んで、深い溜め息を吐いたのは今朝のことだった。散歩の途中で立ち寄った公園で絵本のシナリオも読み切った。アコーディオン弾きのおじいさんと、その音色に魅了された若い男の物語。

 その日の放課後、紅美を誘って図書室に出向いていたら、不意に思い出し、頭の中で物語が流れだしたのだった。

「取りたい本、ありますか?」

「え………?」

 不意に後ろから声が落ちて、聖は肩をびくつかせて首だけで振り向く。

 声の主は眼鏡をかけた細見の男子生徒。学年ごとに色分けされたネクタイから彼は三年生。文系男子の肩書きが板につく風貌だけれども、その紺色のネクタイをゆるく着崩していた。

 目を丸くした聖と先輩の目が合うと、聖は慌てて弁明する。

「あ、いえ……見ていただけなので………」

(び、びっくりした………)

 突然の呼び掛けに心拍数は跳ね上がる。車椅子の向きを少し動かして会釈した。

「ありがとうございます……、お気遣い」

「俺も子供の頃に骨折の経験あるから、不自由さは共感できると思ってね。――――まあ、ついでに宣伝させてもらうけど」

 手渡されたのは一枚のチラシ。そこには、

『うぇるかむ☆文芸部! 部員大大大募集!』と紙の半分を占める見出しと、棒人間の――たぶん、似顔絵を思われる部員紹介が描かれていた。

 モノクロ印刷のわりにインパクトが強すぎて、思わず吹いてしまう。

「文芸部の部長さんですか?」

「いや、副部長だよ。俺が部長だったら、そんなオチャラけた宣伝は作らないから。部長は少し変わり者でね………」

 そのお粗末な似顔絵画も、部長の力作だという。輪郭の中に眼鏡らしき絵が描かれている人物の横に『りょーた』と書かれていたから、たぶん先輩の名前だと思った。

「チラシの裏に活動内容は書いてあるけど、本好きが集まって、小説の話をしたり、執筆したりしているんだ。基本まったりした部活だけど、本が好きなら歓迎するよ」

「でも―――私、絵本が好きなんです」

 零れ落ちることが当たり前のような本心を、聖は吐露していた。幼稚だと思われても反論できる自信があるくらい笑みを浮かべて。

 先輩は眼鏡の奥で見開いた目を聖へ向けていた。

「子供っぽいって思いました?」

「いや……ちょっと予想外だったから。……絵本かぁ、うちの部員に執筆する奴はいないな。絵本だと文芸部というよりは美術部寄りかもな」

「美術は好きな方ですけど、上手くは描けないのでハードル高いですよ」

「いいんじゃない? クズみたいな小説を自信満々に発表するバカ部長がいるくらいだから。部活動なんてなんでも有りだと思うよ。それに同じクラスに美術部の部長がいるんだけど、部員不足って嘆いてたから案外、丁度いいかもね」

 まあ考えておいて、そう軽く笑って先輩は行ってしまった。その横から「りょーたーりょーたー口説き成功かあー?」と大声を上げる男子生徒が近付くと、先輩が持っていたチラシで蠅を潰すように彼を叩いて図書室を出て行った。

(……たぶん、あの人が部長さんなんだろうな)

 遠目でやり取りを見て、十中八九は当たっている気がした。チラシにもう一度目を落として頬が緩む。智尋なら即スカウトされて、即入部しそうだと思ったから。この面白くてユニークなチラシも智尋に見せて、笑ってもらいたいと思った。

 さり気無い日常でも、自分の目に映るものは、智尋に伝えたいことで溢れている―――そう思って、早く手紙の返事を書きたくなった。

「…………まったく、」

 車椅子の後ろから溜め息が聞こえる。

 背後にはいつの間にか紅美がいた。呆れたような声のわりに顔がニヤついている。

「隅に置けないんだからぁ~」

「……何のことやら」

 と、白を切って図書室を後にした。



  ――――智尋へ


   高校にも部活あるよ。まだ決めてないんだけどね。

   入学早々オリエンテーションばっかりで退屈だったけど、

   部活紹介は面白かったんだよ。

   智尋の言う、読書部はさすがにないね(笑)

   この前、学校の図書室に友達つれて行ってみたけど私の好きな絵本は

   一冊もなかったんだ。ちょっと残念だけど当たり前だよね。

   そこでね、個性的な文芸部の人達が勧誘してたんだ。

   物語書くなんて私は無理だから、絵本が好きですって断っちゃった。

   でも、智尋には向いているだろうね。

   アコーディオンのお話、素敵だったもの。

   心が温まる感じがして、この物語にはどういう絵が似合うのかを

   想像しながら読んだよ。私はこの物語好きだよ。

   ステキなお話をありがとう。

   私もね、高校にいる間に将来の目標を見つけたいって思ってたの。

   まだ、頭の中はふわふわしてるけど、

   智尋の目標聞いたら、ちょっと元気でたよ!

   いつになるかわからないけど、私の目標が見つかったら、

   絶対に智尋に報告するね!


                          聖より (四月十三日)   



  ――――聖へ


   そういえば、誕生日は四月十四日って言ってたよね。

   最近は、おめでとう続きだね!

   前回送ったシナリオ、読んでくれて、感想まで書いてくれてありがとう。

   ホント嬉しかったし、ちょっとだけ緊張が緩んだ感じ。

   人に読んでもらうのは滅多にないから。


   聖、ひとつだけ謝りたいことがあるんだ。

   入院中オススメの本を選んでいたけど、

   もっとオススメしたい本はいっぱいあったんだ。

   でも、白状すると一晩で読める簡単な本を選んでた。

   次の日も図書室に聖が来てくれることを願って……。

   なんか、ごめんね。ハッキリそう言えばいいものを。

   子供みたいに変に悪巧みして。

   だからこれからは色々な書籍の話をしとうと思う。

   もしも気に入ったものがあれば、聖にも読んでもらいたい。

   でも学校も始まったばかりで大変だと思うから、

   優先順位は間違えないようにね。

   課題をほったらかして読書に明け暮れた後悔がある、俺の教訓だよ。


                           智尋より (四月十五日)   



         

【 ⒎ 】


 四月十七日。

 昨夜から降り出した雨は明け方には止んだらしいが、道路はまだ濡れていた。

 雨上がりの朝の空気は四月にしては肌寒く、通学中の路面バスの中はじめじめと湿っぽい匂いがした。雫の跡が残る窓ガラス越しに、聖はぼーっと景色を眺めた。

 二日前に書いたという智尋の手紙。今朝、郵便受けに入っていて、読んでから登校したけど、なんとなくスクールバッグの中へ入れて来た。学校で読もうとは思わない。でも、智尋の本心が書かれたこの手紙を傍に置いておきたい気分だった。手紙の入った鞄を膝の上で抱いて、聖は智尋のことを思い出す。『白状する』と書かれた文字は、緊張したように固い印象があった。

 濡れた景色を虚ろに見据えて、返信の内容を考える。書きたいことは決まっていた。足りないものは彼に伝える一抹の勇気だと思う――――。



  ――――智尋へ


   最近、雨続きで肌寒いけど、体調はへーき?

   手紙、ありがとう。

   智尋のオススメ本の紹介、楽しみに待ってるんだからね。

   私ね、頭よくないから智尋の思惑に全然気が付かなかった。

   智尋が渡してくれる本にいつも満足してたもの。


   じゃあ、私も白状するよ。

   あんまり人に話したことないんだけど、私が桜嫌いな理由。

   私にはね、四つ年上の兄がいたんだって。

   桜が蕾をつけた頃に生まれて、でも桜が咲き始めた時には

   天国へ旅立ってしまったらしいの。

   両親は兄に『聖也』ってつけた。

   生まれる前から考えてた名前で、思い入れがあったから、

   次に生まれた私に同じ漢字を使ったらしいよ。

   あとは兄の分まで生きてほしいって、願を込めて。

   親戚にも言われ続けて育ったし、名前を呼ばれると不意に思い出す。

   桜を見ると、よけいに兄の存在が色濃くなった。

   それが嫌なわけじゃない。

   実の兄だから嫌じゃない、だけど私一人の体には重すぎたの。

   兄の分まで生きる方法が、全然わからない。意味がわからない。

   ……だから桜を、見るのは苦手なの。

   毎年のように億劫な時期が春だった。

   でもね、今年は違ったの。

   今年の春は智尋に会えたから。

   ただでさえ入院して気落ちしてたのに、今年の春は楽しかった。

   智尋のおかげなの。

   図書室で本を探すのも楽しかったけど、

   智尋に会えることの方が私は嬉しかったんだよ。

   不意にね、智尋の隣にいた時、聖也が生きていたら

   たぶん、こんな気持ちなんだろうなって考えていたの。

   ごめんなさい、勝手に……。


   来週、外来に行くから、お見舞いに行くね。

   また会ってくれると嬉しいです。


                          聖より (四月二十日)


         

【 ⒏ 】


「聖、イライラしてる?」

「え?」

 金曜日のお昼休み。聖は紅美と教室でお弁当を食べていた。

「怒ってるというよりは、朝からソワソワしてるみたいに見えるよ?」

 鋭い分析力で紅美は観察するような眼差しを向ける。意識も自覚もなく、その指摘に狼狽えつつも、たぶん図星だと思った。

 あの長文手紙を出してから六日が過ぎた今日。未だに智尋からの返事は届かない。

 聖よりも返信が早い智尋にしては、珍しいと思った。その珍しさが心配で、どうも心が落ち着かない。………内容を重くしたからだろうか。迷惑なことを書いたのかもしれないし、困らせたのかもしれない。返事が届かないから、そう思わずにはいられなかった。

 体調を崩しているのではと怖くもなった。嫌われてしまったとも考えて、震える思いがした。

 紅美は親友だけど、この気持ちを伝える自信がなくて口篭ることしかできない。ちょっとだけ、変な罪悪感が翳りをみせる。

「ごめんね、変な空気にしちゃって……」

「恋煩い?」

「違うっ!」

 思いがけず大きな声を出して顔を赤らめる。策士の顔をした紅美はけらけら笑った。「ごめんごめん、冗談だよ」と、食後のポッキーを開けて差し出す。

「いいように餌付けされてるみたいなんだけど…………」

 と言いながらも、ポッキーを三本もらった。

 恋煩い、なんかじゃない。智尋との距離が遠のくのが怖く感じるだけ。手紙を読んで、どう思ったかが気になって、智尋を気に掛けすぎて、落ち着けないだけ――――。

 隠し事をしているのは気付かれていると思う。ポーカーフェイスではない自信があったから。それでも紅美は敢えて話を逸らしてくれた。

「じゃあさ、気晴らしに甘いもの食べに行かない? 駅ビルにオープンしたパンケーキ屋さん、ちょっと気になってたんだよね~」

「いいけど、明日は病院なんだよね……」

「じゃあ午後からは? あたし今夜は夜更かしする予定だから丁度いいかも」

 夜更かしって予定するものかな、と疑問に思っていると、疑問符が顔に出てしまったらしい。やけにニヤニヤしながら紅美はスマートフォンを横向きにして、画面を見せてきた。

 そこには………、

「乙女の恋愛、イケメン恋人は…………………はぁっ!?」

 想定外に口元が歪む。馬鹿正直に読もうとして恥ずかしくなった。

「ちょっと、これって………」

 恋愛シュミレーションアプリの画面。イケメン男性が並ぶイラストを見せつけて、満面の笑みになる紅美。

「ねぇねぇ~、誰がカコイイと思う~?」

「……え、誰って言われても………。夜更しの理由ってこれ?」

 紅美と出会った時から、少女漫画やケータイ小説が好きなのは知っていたけど、ついにシュミレーションゲームにまで手を出していたとは知らなかった。非現実世界に没頭しているように見せながらも、紅美は生粋のリア充タイプだから本当に抜け目ない。聖も変な心配はしていないけど、今回はさすがに驚いた。高校入学前に彼氏と別れたと言っていたから、たぶんアプリのイケメン男性は繋ぎの存在だと思うけど。まがい物の優等生とはいえ、聖には関わりのない分野だった。

 お気に入りのイラストを見つつ、紅美の顔は幸せそうにほころぶ。

「女子高生は恋するべきだよ。このアプリ、めっちゃキュンキュンするんだから」

「でも、そういうのってお金かかるんでしょ?」

「ストーリーが十話で、三百円くらいかな。色々あるからマチマチだよ」

「やっぱり買ってるんだ、しかも複数…………」

 にっこり笑って「恋はお肌にもいいし、ダイエットにも効果的なのよ~」と誇らしげに言う。恋愛とアプリが等しい効果作用があるのかは置いておくとして、確かに紅美は手足も長く痩せていた。そのスタイルの良さに、聖も羨ましいとは思うが……。

「生真面目な聖さんにはおススメのツールですよ? まあ、課金制のアプリはボッタクリ感があるけれど、試しに一つくらいやるといいよ。楽しいし、ハマるし、読み終わって買う価値があったなーって思えるもん!」

「……!」

 価値があった―――、その言葉にズキッと、胸の奥の方が痛んだ。

 不意に顔を思い出してしまったから。智尋も、小説を読み終わって似たようなことを言っていた。包帯の巻かれた腕で、不自由ながらも満たされたように微笑む智尋の顔。

(……どうして、智尋を思い出すだけで、胸が痛むの)

 胸騒ぎにも似た感情を言い表せない。頭の片隅で「違う」という声がしている気がした。

「〝お金〟と〝恋〟は天秤にかけちゃダメだと思うよ?」

 自信満々にそんな名言みたいに言われて、聖は目を見張る。まるで心の中を読まれているような紅美の台詞。言われた方が恥ずかしくなったけど、否定までしない。これが紅美の価値感だと思ったし、淀みのない意見をハッキリ言える彼女に、なにより憧れた。

 再びスマートフォンの画面を見せられると、黒髪で意地悪そうに微笑むイケメン画像と目が合った。傲慢そうな彼が、紅美のお気に入りらしい。

「聖お嬢様もいかが~? モヤモヤした気持ちが吹き飛ぶかもよ?」

「はあ………、どーしよーもなく気が向いたらにするよ」

 少しだけ火照った顔を横へ反らす。壁掛けの時計を見上げると、あと少しで昼休みも終わる。

 そわそわして落ち着きのない気持ちも、氷が溶けていくように静まっていく気がした。

「……紅美、ありがとね」

 聖は、尊敬する親友に微笑む。わかっているような顔をして、なんのこと?とニヤける紅美に、聖はつくづく頭が上がらない。

 次の教科のテキストを鞄の中から漁っていると、不意に思う。

(でも………、ゲームやるんだったら、私は物語を、小説を読みたいかな)

 心からそう思った。本を、両手で包んで、紙の匂いに安心したい気分だったから。



         ◆◆◆



 翌日。外来日。

 手紙を読んでくれただろうか。

 言葉足らずだったらどうしよう。

 郵送してしまえば読み返すことも出来ず、『既読』機能のない紙での文通はやっぱり不安だらけだ。

 退院して以来、病院へ来るのは久々だった。外来の日付は手紙で伝えたけど、待ち合わせ時間と、場所までは決めてない。ましてや一方的すぎて、会う約束にもなっていなかった。

 診察が終わっても躊躇っていた。けれど、図書室の前へ来てしまった。

 受付の波木さんがいればいいな、そう思いながらスマートフォンの電源をオフにしようとした時だった。

「――――――あっ! 聖ちゃーん!」

 後ろから声にびくっと反応して、首だけ振り向く。そこには入院中、担当看護師だった佐久間さんが小走りで向かって来た。

「よかったー、まだいて」

「これから処方箋もらって帰るところでした」

 といっても、それは智尋に会ってからだけど。担当だった佐久間さんが来たということは、病室に忘れ物でもしてしまったのだろうか。それとも書類関係か。

「あのね、四号棟に入院していた北瀬智尋くんのことなんだけど、聖ちゃんお手紙出したでしょ? でも北瀬くん、もう退院しちゃっててね………」

「……え、退院?」

 聞いてない。そんなこと。

 聖は、嫌な汗が滲むように肌が粟立つ。

「本来なら聖ちゃんの所へ返送するんだけど、北瀬くんに電話で確認してみたら自宅に送ってほしいって頼まれたの。少し遅れたとは思うけど本人の所に届いたと思うわ」

 それを伝えたくてね、と安心して息を吐く佐久間さん。

「そうだったんですね。届いたならよかったです………」

 なかなか返事が来なかった理由を知って納得はできた。けれど胸が苦しい。久しぶりに会えるかもしれない、そんな無邪気な期待が打ち砕かれた瞬間だったから。

(……もう、会えないんだ)

 隣り合わせに並んで、本を読むことは、もうできない。

 でも、快気祝いだけでも伝えたい。手紙でも構わないから。

「あの…………、智尋の連絡先って教えてもらえませんか?」

 思えば、智尋のことは何も知らない。大学生で、左腕を骨折していて、アレルギー体質だけどピアスをつけていて、本が大好きで作家を目指している。それぐらい。それしか知らない自分が無性に腹立たしくて泣きたくなる。

 聖の切実さに、佐久間さんは苦い顔をして口篭った。



         ◆◆◆



 午後からは紅美とお茶する予定になっていた。なんとなく気分が乗らない。でもせっかく誘ってくれたのだから、遅れずに待ち合わせ場所へ行こうと思った。


「―――――で、どう思ってるの?」


「へっ?」

 聖はキャラメルナッツのパンケーキを食べながら、頓狂な声を出す。

 入院中に知り合った、北瀬智尋という入院患者のことを紅美に聞いてもらっている最中だった。図書室で偶然出会ったこと。手紙のやり取りを続けていたこと。彼が退院して連絡が途絶えてしまったこと。

 最後に送った手紙の内容までは話せなかったけど、胸の奥で霧がかったものを、聖は吐き出していた。誰かに話を聞いてもらえれば楽になると思ったから。

 ミックスベリーのパンケーキを注文した紅美は、ベリーを一粒ずつ食べながら話を聞く。喋りっぱなしの聖の食べるスピードに合わせてくれているようだった。一通り話し終えた時、彼女は開口一番に、智尋に対する気持ちを訊いてきた。少しだけ詰問されているみたいで、聖は面食らって何も言えなくなる。

 紅美のことだから、好きか嫌いか、気になるか気にならないかの選択問題ではなく、感情の割合を明確に訊いているのだと思った。それによって異性として見ているのか、友人として見ているのかを判断しようとしているとわかった。でも、紅美と違って、恋愛をしたことがない十六歳の高校生がパーセンテージを測れる訳がない。なんで自分の心にゆとりがないのか、焦っているのか、意味が全然わからない。こんな苦しみが、辛くて仕方が無かった。

「………よく、わからない」

 それが、搾り出した答え。あやうく『お兄ちゃんみたいな人』と言いたいところを、ぐっと堪える。手紙を出してから、それを禁句にした。聖自信も自覚していた。自分の兄と、智尋を勝手に重ねて、憧れてしまっていたこと。距離を縮めようとしたのは聖の方だった。聖から智尋に近付きたいと願ってしまった。

「誰かに話し聞いてもらったら、少しは晴れると思ったんだけどな……。馬鹿だな、私」

 雨は降らないものの、心の中は暗雲が立ち込めている気分だ。

「恋愛か、友人止まりかは置いておくとして……」と意味深気なことを漏らして「でも、大切に思ってるんだね?」そう紅美の確かめるような言葉に、素直に頷く。頷くだけで精一杯だった。それを先読みしていたように、くすりと笑う声がした。

「……あたし達ってさ、恵まれてると思わない?」

 紅美は、テーブルの端に置いてあったスマートフォンを弄るような持ち方をして、角を頬にぽんっと当てる。

「ケータイって話したい相手と直ぐに電話もメールもテレビ電話だってできる。あたしのスマホの中には二次元の彼氏がいるんだよー。ひと昔前だったら早くても家電(いえでん)か電報でしょ? 現代っ子には考えられない世界よね……」

 私は絶対むり~! と、脱力した声でスマートフォンを寵愛するように撫でる紅美。聖も十分なまでに現代っ子だった。紅美の意見に肯定せざるを得ないほどに。四歳年上の智尋が携帯を持っていないと言った時、特別な理由があることは察しがついた。だからこそ、心配で心配で仕方がなかった。

 泣きたい気持ちをぐっと堪えて、膝の上で握りこぶしをつくった。泣いたって智尋に会えはしないし、なにも解決しない。話を聞いてくれる紅美を困らせたくもない。

「手紙を出したら、返事が届くまで相手のことを想い続ける。……それって、すごくロマンチックだと、あたしは思うな」

 紅美のその言葉に、聖は目を泳がせた。


「私ね……ただ、不安なだけだったの」


 毎朝、愛犬のクルミと散歩に行く際にポストを開ける瞬間が、息苦しく思えた。今日こそは入っていますように、そう神頼みでもする思いで、智尋の手紙を待ち望んでいた。

 街中で郵便配達員を見掛けるだけで、手紙の内容を思い浮かべるほど、もう重症状態ってことはわかっていた。それでも―――――――。

「でも智尋は返信をくれると思うんだ。時間がどんなにかかっても」

 優しいひとだから。根拠は虚しくもそれだけ。

 愛想が尽きたから手紙が途絶えたとも考えたけど、智尋の性格なら、その理も文章に綴ってから終わりにさせると、予知していたから。

「だから、待ってみようと思う」

 喉元につかえていた感情の塊を呑み込んで、ようやく親友に御礼を言える。

「紅美、ありがとう」

「ふふっ、聖さん健気な女子だねぇ。まあ待つしか出来ない状況だしね。でも聖が可愛くなっていると、紅美さんは少し心配かな………」

 ぱくりと、パンケーキを頬張って、なんで?と首を傾げる聖。

「恋焦がれている顔ってこと」

「! もおー、だからあ――っ!」

 いつもの紅美の調子に乗せられる。でも淀んだ靄に晴れ間が訪れた気がして、からかわれ続けても悪い気はしなかった。



         

【 ⒐ 】


「おかえりー、病院どうだった?」

「順調らしいよ」

 帰宅するとお母親がキッチンから顔を覗かせる。

 正直なところ、紅美と本音を交えた会話をしたせいか、病院を受診したことが遠くに感じた。

 玄関から直接、二階の自室へ向かおうとすると母親が妙なことを言い出す。

「『ともひろ君』から速達で手紙きてたわよー。テーブルの上に置いてあるから」

「………誰?」

〝手紙〟というワードに過剰反応した瞬間を、そそくさとリビングへ入る母親に見られずに済んだのは幸いだったけど、聞き覚えのない名前。

「え? じゃあ知らない人から来たの?」

 これーっと渡された、速達のスタンプが押された封筒の裏。

 一瞬、胸の奥が掴まれたように痛んだ。聖は母親に気付かれないように目を伏せて、

「違うよ……、『ちひろ』って読むの」


 ―――――― 差出人、北瀬智尋。


 ただ、読み方を間違えただけだった。

「へぇ、男の子みたいな名前ね」

「………………」

『ちひろ』と聞いただけで、女の子を連想したらしく、会話がちぐはぐになる。

 病院で知り合ったことも、ピアスを貰ったことも、文通をしていることも、まだ秘密にしていた。少しでも言ったら好奇心で食ってかかって面倒になるのは目に見えていたから。

 智尋には悪いと思ったけど、女の子を連想してもらえたおかげで、取り立てて興味を持たれないことを良い事に、聖は自室へ急いだ。


 智尋からの手紙。それは謝罪文だった。

 ほんの少しの期間だというのに、音信不通になったことについての謝罪。他人想いで真面目な智尋らしいけど、文面は短く、少し荒んでいるような文字が聖には気掛かりだった。

 その夜。机に向かって白紙の便箋と対峙していた頭が煮詰まっていた時、スマートフォンのバイブが鳴り響く。液晶画面に映り出された電話番号は、フリーダイヤルでも携帯電話の番号でもなく、知らない市外局番だった。聖は非通知の電話に戸惑ったけど、五回ほどコール音を聞いて、出るだけ出てみようと思って通話ボタンを押す。

「…………もしもし?」

 声は強張って少し高くなる。怪しい電話だったらブツ切ろうと思ったが―――。

『もしもし……、聖の携帯ですか?』

「えっ……!」

 聞き覚えのある声に、聖は思わず飛び上がる。

「………ち、智尋? 智尋なの?」

『……うん、久しぶり』

 変わらない穏やかな声。言いたいことは山積みだった。退院したこと。小説の内容。あの、本音を書いた手紙のこと。

 けれど、長電話はできないと断りを入れてから、智尋は切り出した。

「聖、これから我がまま言うけど、無理はしてほしくないんだ。でも今返事を聞きたい」

 だんだん声が弱まっている気がした。気のせいだろうか。笑顔だった彼の表情が歪んでいるのを想像してしまう。

「ねえ、智尋? 大丈夫なの……?」

 聖は固唾を飲む。怖かったから。智尋の姿が見えないで話すのが初めてだったから。


『聖、我がまま言ってごめん。でも会いたい、会いに来てほしいんだ……!』


 弱々しいけど、はっきりと熱のこもった言葉。

 告白でも何でもないのに、聖の胸の奥がざわめいた。

『本当にごめん。迷惑だとは思うんだけど……会いに、来てくれる?』

「当たり前じゃない!」

 間髪いれない聖。拳に力が入る。

「智尋が呼んでくれたんだから行くに決まってるじゃない!」

 受話器から漏れる笑い声。少し疲れたような、安心したような、苦笑じみた声。

『ありがとう。詳細はメールで送るよ。手紙だと時間かかっちゃうし』

 会いに行く約束をしたのに、この電話が切れたら、もう終わってしまうような気がした。

 約束を信じない訳ではない。ただ、最後の別れの言葉が遠く聞こえたから。

 先に電話を切ったのは智尋だった。


 ツー、ツー、ツー、ツー…………


 別れの音を聞いて、遅れて聖も電話を切る。

 意味もなく泣きたかった。込み上げる感情があった。久々に声を聞けて、安堵できると思っていたのに、胸の奥に暗雲のような翳りが残る。



         ◆◆◆



 それから直ぐに、智尋の叔父だと名乗る人からメールが届く。

 智尋は携帯電話を持ってないのだから当然だった。

 その夜、聖は両親に頭を下げ続けて、どうにか智尋のところへ行く許可をもらった。

 聖自身も、両親たちも驚くことに、智尋の自宅は新幹線を利用するほど地方にあった。もちろん反対はされた。目上の人の言葉には従い続けてきたけれど、今回ばかりは一歩も引く気にならず、感情的に反抗を貫いた。「今、行かなきゃ絶対に後悔する!」その、聖の熱意に父も母も面喰って、反対できずにとうとう折れたのだった。

 そして五月の連休。出発日は予想通りの雨。

 聖は新幹線に乗って待ち合わせ場所まで向かっていた。

 なんとか両親が指定席をとってくれて、見送りも駅のホームまで来てくれた。少し過保護だと思ったけど松葉杖の子供が一人で遠出するのだから心配するのも無理はない。

 満席の車内で、聖は鞄の中から手紙を取り出した。電話で話した後に、智尋が送ってくれた手紙。手紙といっても、『聖へ―――――― 智尋より』以外は白紙の便箋と、レポート用紙が四枚入っているだけで物語以外の文面はない。まるで伝えたいことは物語の中にある、という意味を表しているみたいだ。

 その物語のタイトルは―――、


『 Last Letter 』

(第二章)

 ――――――翌日。

 桜の樹の下で目覚めて、彼女に会う。

「こんにちは。……良い天気ですね」

「こんにちは。ええ、そうね」

 微笑んで、頷く彼女も素敵だった。

 明日は三言、話をしよう。三言、話せた翌日には四言を。

 それが達成できれば翌日にはひと言ずつ増やし、さらに翌日にひと言増やす日々が続く。

 彼女はいつも穏やかな顔で微笑んでいた。

 私との会話にも嫌な顔ひとつ見せなかった。

 だから、もっと長く、彼女と話がしたいと思ってしまった。

 そう思って、恐る恐る最後に付け加えてみた。

「良かったら、隣に座りませんか?」

 口調の柔らかな彼女が、笑顔で頷く姿が容易に想像できた。

 そう考えていたからこそ、私の心の中は、暗く翳ってしまったと思う。

 その美しい女性は言った。ゆるやかに微笑んで。

「―――いやよ」

 そうして私は取り残されてしまった。

 翌日も多くの言葉を交わして、最後に昨日と同じ台詞を口にする。

 昨日は悲しかったけど、諦められなかったから。

「―――いやよ」

 私の心が荒んでいくのが、手に取るようにわかった。

 普段の会話中に彼女は決して否定することはなかったのに。

「隣に座りませんか?」と誘った時だけは、拒絶する。

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 言葉数は増えるというのに。


「―――――いやよ」


 揶揄されていると思えた。でも彼女の朗らかさから、そんなこと考えられない。

 なら、どうして。

 去り際の後ろ姿を追うようにして見つめる。

 嗚呼、今日も行ってしまった………、そう思った刹那のことだった。

 満開だったはずの桜が大きく揺れて、花弁が宙を舞う。

 髪や肌に花弁を掠め、息が止まりそうな光景。

 景色が桜色に薄めいた瞬間。

 その女性は振り返っていた。

 優美な笑みをつくって、目尻に涙を溜めて。



 私の方へ見返って、さらに色濃く微笑むと、ついに涙は頬へ滑り堕ちる。



 微笑んだまま彼女の唇は小さく動く。まるで最期のメッセージのように。

 それを見た時、私は地面を蹴っていた。

 あんなに倦怠感に苛まれていた身体とは思えないほど、勢いよく駆け出していた。

 その綺麗だと思った女性の元まで走った。

 ただ無心で、がむしゃらに。

 自分の短い腕を必死になって伸ばした。

 彼女に届きたいと強く願った瞬間、視界は白く染まる。


(第三章)

 次に目が覚めた時、視界は真っ白な天井だった。

 冷たく乾いた空気漂う中、視界の端に桜の樹はない。

 幾分経って、此処が病院であることを知らされた。

 目覚めて、状況を理解することは思ったより容易く、我ながら驚いたものだ。

 ただ、何も変わらず、憂鬱なままだ。

 目を閉じれば広がる風景があった。

 消せないほど脳裏には焼き付いていた。だから、またあの女性に会えると思った。


 けれど何日も、何日も、何日も……どれほど待っても、あの女性は現れない。

 瞼を閉じた先には質量を増した暗闇しかない。

 絶望感に苛まれる。憂鬱以上にそれは重たい。

 あの女性を思い描く。

 最後になんて言ったのだろう。

 置き手紙のように、最後にどんな言葉を残したのだろうか。


 会いたい。会って話がしたい。あんな泣き顔をさせたくない。

 彼女に届きたくて、彼女の光に似た色に触れたくて、必死で手を伸ばしていた。


 私は思う。もう待ち続けるのではなく、――――あの女性に会いに、行きたい、と。

 それはまるで、果てなくも、儚い、小さな願望。

 けれど、気付けば彼女に寄り添いたいと思うだけで、私は立ち上がっていた。

 立って歩こうと思えた。

 生きていれば、きっと会えるはず。

 希望を胸に抱いて、春を目指して、私は再び歩み始めた。


                  『 Last Letter 』 END




【 ⒑ 】


 夢を見ていた。内容は曖昧な断片しか覚えてないけど。たぶん過去の記憶。

 木の香りと、雨上がりの土の匂い。馴染んだ香りは落ち着く。

 まだ覚めきらない瞼を擦った手を、目の前に掲げたまま静止してしまった。親指の付け根から肘まで巻きつけられた白い包帯。好んでもいないのにそれを凝視してしまう。あまりにも数年前と重なっていたから。まるで追体験のような白い光景だと―――、智尋は思った。

 大学病院の医師は取っ付きにくそうな雰囲気を出していたが、骨折した腕の古傷を見て献身的な態度へ返上したときは、酷く滑稽に思えて嘲笑ってやった。

(はあ……、夏は嫌いだ……)

 この包帯が取れたら……を想像しての感想。渡り鳥の逆で、一年中寒い国を目指して飛べたらどんなに楽だろう。そんな馬鹿げたことを思って、シーツの上に腕を振り落とす。

 日本家屋の天井を見つめながら、智尋の意識は回想へと流れゆく。

 この家――、叔母夫婦の家には中学生の時から世話になっていた。両親が海外に離職することになってから智尋はこの田舎へ越してきたのだ。本当は両親と一緒に行こうとしたけど、お互いに距離が必要だと思って、此処に留まることを選択した。

 仕方がなかった。自分のせいだったけれど。どうしようもないことだった。

 あの日――、病床の前で両親は泣いていた。母親は自分自身を責めて、父親は息子に絶句して、涙した。その泣き顔を見ることができない智尋は、ただぼんやりと左腕の包帯へ視線を落としていた。

 その夜、通い慣れて勝手を知ってしまった病院を抜け出して、しばし徘徊してから屋上へ上った。フェンスに身を預けて、夜空を仰いで、そこでカッコ悪く泣いた。

 はらはら流れる涙を一度も拭わず、首筋まで辿って濡らしてゆく。

 悲しいとか寂しいとか辛いとかではない。不甲斐なかった。

 思い通りに動かない体は先天性だった。不可抗力だとわかっていたこと。

 だから、この涙は、諦めだった。

 もう、泣かないと決めた、日だった―――。

 それでも、頑なに決意をしても、人の感情は歪みやすく、智尋も気を抜けばあっという間に淀んでしまう。自覚をしていても上手く誘導できるほど器用な心情をもっていなかったせいだ。それでも他人に迷惑は掛けたくないと願った。こんな迷惑は自分だけで十分だった。

 だから、何かに没頭しようと思って『本』にすがった。自身とは異なった物語に触れて、現実から離れる時間を少しでも多くつくった。気まぐれな執筆を始めたのも同じ時期だったと思う。誰かに読んでほしい訳でも、出版社へ投稿することもなく、暇を潰すためを目的とした。この身体では全うな職に就けない自覚もあったから、作家のようなデスクワークがしたいと思っていた。人に読ませる気もないのに作家になりたいなんて本末転倒もいいところだろう。それでも、事実だった。人に読んでもらいたいと願って書いた文章は今までなかったのだから―――――……


『――――進学って不安じゃない?』

 無自覚に回想は進んでいた。

 その台詞は智尋が発した。最近の出来事だから鮮明に思い出せる。

 何故そんな会話をしてしまったのか、今となっては後悔して自嘲すらできた。


「――――そう、かな?」

 年下の彼女は、疑問に疑問符をつけて返答した。

 いつしか居心地のいい場所となった、大学病院の図書室。他愛のない会話をするはずだった。それなのに感情が揺さぶられていることにすら気が付かず、迷惑なことを口にしてしまう。


『慣れ親しんだ場所からわざわざ追い出されるのって、歳を重ねる疲弊だよね………』

 ―― 孤独な人間はよく笑う。孤独な人間はあまりに深く苦しんだ為に笑いを発明せざるを得なかったからだ ――。……その偉人の格言が頭に過ぎった瞬間だった。彼女に〝絶望〟を吐露してしまった。不覚にも顔を窓の外へ逸らした自分がまるでガキのようだと思う。


「―――――でも私は、歳を取るのが楽しみ」


 彼女の言葉は限りなく無邪気だった。まだ若いから言える台詞は純潔そのもの。

 その表情は見ていないが声を聞けばなんとなく知れた。

 優しくて健気で、春先の晴れた日を連想するような温厚な性格をしていたから。


「―――――着々と、昨日とは違う時間へ進んでるんだなって実感できるから」


 立ち止まった智尋には、導き出せない言葉。

 窓の外の〝桜〟を見たせいで、酔い痴れてしまったのだろうか。

 それとも、〝桜〟が彼女を狂わせてしまったのだろうか。


「―――――明日が当たり前に来るって、誰にも保障できないでしょ?」


 違和感。そんな曖昧な電撃が背筋を駆け上がった気がした。

 彼女の声なのに、本人ではないような焦燥感に煽られて、後ろへ振り返る。

 聖は―――、目を伏せて笑っていた。


『……………!』

 柔らかく微笑んで、愛おしそうに絵本を捲る。

 その姿に、ただ、息が詰まった。



「明日を見たくても、見ることができない人だっていると思うから、私は明日を見たい」



〝明日を見たい〟そう断言できる人に、今後も出会う機会があるのだろうか。

 それこそ彼女の言葉を借りれば、「明日へ進み続けていれば……」と、なるだろう。

 凄まじい肯定ができるほど、智尋に楽観的な思考は備わっていない。ましてや信じ続ける勇気を持てるほど強くもないのだ。だから、もう、彼女に似た人に出会うことは二度とないと思った。明日を知り得ない日が、いつ自身に訪れるかわからないのだから。

「彼女の物語を知りたい」……どんなに綺麗な小説よりも、偉人のサクセスストーリーよりも、為になる随筆よりも、それ以上に〝彼女(ひじり)を知りたい〟と思ってしまったのは傲慢だろうか――………。

 問うても回答のない問い。……回想にうつつを抜かしていることに気付いて、何度目かの溜め息を吐いてから、智尋は目を閉じて暗闇と対峙した。



         ◆◆◆



 襖の奥からゆっくりと足音が鳴って、軽い口調が聞こえる。

「ちーひろっ、入るわよ」

 叔母の菜穂子さんだった。随分前から母親のような、姉のような、頼りになるひと。

 戸を開けて早々、ベッドに横たわったままの智尋を見下ろす。

「調子はどう?」

「まあまあ、かな」

「そう、じゃあ起きて。呼ぶから」

 と、智尋の有無を聞かずに、廊下の方に声をかける。

 みちみちみち、とフローリングとゴムタイヤが擦れる音が鳴って、バリアフリーの室内に入ってきた、皆川聖がそこにいた。

 退院祝いに送った花のピアスが真っ先に窺えたけど、俯き気味で髪の毛に隠れて、もったいなく思えた。それでも付けてくれたことが、たまらなく嬉しいなんて……。

 菜穂子さんは早々に踵を返した。

「お茶の用意するから、ぼちぼちリビングにいらっしゃいよー」

「うん、ありがとう」

 そうして、部屋には二人だけになった。

 少し沈黙が流れてから、「やあ――」と、図書室で顔を合わせた時と同じ挨拶をした。

 智尋が留まるところへ、聖がやって来る。

「遠いのに来てくれて、本当にありがとう……」

 彼女が来てくれた。それだけで満たされた気持ちになれて、自然と笑みがこぼれた。


(――――嗚呼、もう泣かないと決めていた)


 ずっと、頑なに、決めていたのに。

 ずるいよ。

「……ち、ひろ―――、」

 精一杯、絞り出された一声。

 泣かないと決めていたのに。

 彼女が泣きそうな顔をしていたから、思わず吊られてしまいそうだ。

「………聖、また会えて嬉しいよ」



         

【 ⒒ 】


 ―――一時間前。

 聖は指定された時間に待ち合わせの駅に着くと、雨上がりの太陽の匂いがした。

 都内でしか暮らしたことのない聖にとって小さ過ぎる駅だった。大型連休なのに利用者もまばらで、都会と違って松葉杖での行動は楽だけど、なによりその痛々しさが目立った。


「もしかして、聖ちゃん?」


 と、女性の声に止められた。待ち合わせ場所には智尋がいる、そう思って緊張して下車したばかりの聖を呼び止めた女性のお腹は大きく、妊婦さんだったからこそ余計に驚いた。

 見知らぬ土地で内心ドキドキしている聖に、彼女はにっこり微笑む。

「あなたが智尋のお友達?」

「あ、はいっ、皆川聖といいます」

 綺麗な人だった。見た目は二十代後半くらいだろうか。明るく華やかな印象で、親しみやすそうな人。なんとなく智尋の雰囲気に似ている気がした、けど……。

「はじめまして。智尋の叔母の樋田菜穂子(ひだなほこ)よ。智尋の母親だと思った?」

 少し試すような言いぐさに、聖は目を丸くしてしまう。

 智尋の母親の、年の離れた妹さん。智尋の両親は海外で仕事をしている為、叔母夫婦と三人で暮らしているのだという。知り合うきっかけをつくった、あのブックマーカーも外国製だったことを思い出して納得する。

「じゃあ行きましょうか。こっちに車停めてあるから。以前まで旦那のお義母さんとも同居していて、家はバリアフリーになってるし車椅子もあるから安心してね」

 初対面とは思えないほど饒舌な菜穂子さんは初産なのだと、移動の合間に話してくれた。待望の子供で、苦労も多いだろうけど家族が増えることを心待ちにしているという。それから、一人っ子の智尋にイトコができることに安心しているとも語った。

 軽自動車の助手席に身を沈めて、話の合間を窺って聖は口を開く。

「あの……」

「智尋から事情聞いてないんでしょ?」

 運転しながら菜穂子さんは聖の内情を察して、切り出してくれた。

「あの子、本音を隠したり大事なことを黙ってたりするクセあるのよ。気に障っていたらごめんなさいね」

「いえ……、その、智尋君の体調は大丈夫なんですか?」

 それが一番気掛かりだったこと。電話口のしぼんでいく声。会いに来てほしいという言葉が切実に聞こえて、胸が張り裂けるぐらい不安だった。

 膝の上で拳が握られているのを見てか、菜穂子さんは赤信号の時に、微笑んで聖の肩に手を置く。

「今は落ち着いてるから安心して。退院後の移動中にバテちゃってね、少し寝込んでたのよ」

もともと身体が弱いから、そう続けた。左腕の骨折も地元の病院で入院してもよかったのだが、精密検査も同時にするために都内の病院へ行ったらしい。そうでなければ聖と智尋が会うことは決してなかっただろう。

「年頃の男の子は、難しいのよねぇ。私まだ子供いないしさ」

 菜穂子さんは智尋のことを話してはくれたけど、確信的なことは避けて話している様子だった。ルール違反な気がして、聖も多くを訊くことはしない。

 智尋のことを聖はよく知らなかった。出会ってからの時間がまだ短いせいもあるし、病院で過ごした期間もほんの七日間。智尋が何かを抱えているのは察していた。いつも嬉しそうに笑っているけど、ふとした瞬間に表情が翳るところを聖は何度か見たことがある。

 知る権限はないけれど、聖は彼の本心を聞きたいと思っていた。遠い場所でも、会いに来たいと強く思ったのもその為。

「そーいえば!」と、菜穂子さんは何かを思い出したような口ぶりで、とんでもない事をさらりと言う。

「聖ちゃんって智尋のこと好き?」

「! ええっ! ……あ、えぇっと……………」

 聖の動揺に大笑いが覆いかぶさる。

「あはははっ、聖ちゃん反応が可愛いわね。智尋がね、珍しく人を呼びたいって、曖昧に言い出すからちょっと問い詰めたのよ。てっきり彼女かと思ったんだけど、『妹みたいな子』って言うから本当にびっくりしたわぁ」

 菜穂子さんは「『妹』ってのは照れ隠しの口実だと思ったけどね」と女の勘というものを口走る。

「……!」

 一気に顔が暑くなる。智尋の彼女ではないし、『妹』と言ってくれたのは聖の手紙が原因だと思った。友達と言っても、顔を見て話したのはたった七日間で、時間にしても数十時間程度。連絡だてまばらな文通だけで、お互いのことを詳しく知らないのが現状だった。

「まあ、普通の友達でも、出会い始めの彼女でも、はたまた妹でも大歓迎だからー。聖ちゃん、智尋に会いに来てくれて、本当にありがとうね………」

 そう言った菜穂子さんの横顔は意味深なまでに穏やかだった。それが不思議に思ったけれど、窓の外の風景をぼんやり眺めて、少しひんやりした風を頬に感じた。


 ――――――、会いたかった人に会える。


 楽しみで震えるほど心が踊っていた。話したいことはいっぱいある。書籍のこと、高校のこと、手紙のこと……、なにから話していいのかわからないくらい、話題は募っていた。

 緊張の再会。携帯でのやり取りはスピーディな分、その人が近く感じるのに、文通は互いの距離を身に染みるほど体感した。

 だから、会うことが恋しくなった。

 会えることが楽しみだった。

 会って、笑い合って、右隣にいたかった。

 あの図書室でそうだったように。

 夕日に染まる、屋上でそうだったように。

「久しぶり」………そう笑って、いつも通りの自分で。明るく言うはずだった。

 それなのに、智尋の顔を見た瞬間、声が出せなくなって、涙が溢れて。

 迷惑を掛けたくないのに、智尋を困らせてしまった。



         

【 ⒓ 】


 陽が傾きはじめた頃。

 少し散歩しよう、と智尋の提案で松葉杖を手に外に出た。家の裏手へ進む智尋の背中を追う。病院にいた時のように三角巾を首から下げていないけど、相変わらず腕には分厚く包帯が巻かれていた。初めて屋上へ行った時の既視感のようだと聖は思う。

 智尋の足が止まり、その脇から見えた光景は手入れの行き届いた、凝った庭だった。

「わ……、綺麗」

「田舎だから敷地も無駄に広いでしょ。叔父が趣味で手入れしている庭なんだ」

 確かに広い。もう一軒、家が建っても余るくらいだ。

 花壇には様々な草花が生え、知らない花ばかり咲いていた。

(趣味にしては、センスがありすぎ)

 日陰にはテラス席も完備され、ここでお茶してのんびりしたら、どんなに気持ちがいいのだろう。花壇に見惚れていると、智尋に名前を呼ばれた。彼は庭の一番奥にいた。

「……藤の、花?」

「うん、今年も綺麗に咲いたんだ」

 藤棚を見上げて、嬉しそうに笑う智尋。木製の囲いの下にできた、まばらな陰の中はまるで美しい秘密基地のようだ。その日陰の中にある木のベンチに智尋は慣れ親しんでいるように腰を下ろす。

「聖もおいで」

 そう、微笑む智尋に頷いて、ゆっくりと彼の右隣へ並んで座った。骨折した左腕にぶつからないように、という配慮がきっかけで、もうこの並び方が癖のようになっていた。

「ここで読書しているの?」

「天気のいい日はね。外出はあんまり出来ないんだけど、ずっと室内にいるのも飽きるからさ。でも暑すぎる日は好きな場所だとしても憚るね」

 智尋の好きな場所。それを見せてくれた表情は、穏やかで嬉しそうだった。

「……智尋」

 呼んではみたものの視線を上げられない。話したい人の顔を見られない。聖に口を割る勇気がまだなかったから。喋り出す気配のない聖を見て、彼は苦笑した声で言う。

「訊きたいことは訊いていいよ。なに言われても怒らないし、答えられないことは黙秘権つかわせてもらうから。……無理もしなくてもいいからね」

 呼び出したのは俺なんだから―――と、どこまでも相手を優先させる智尋の言葉はずるいと思った。小さく、気付かれないように深呼吸した。それでも顔だけは上げられずにいた。最後の最後まで躊躇いが邪魔をするから。


「智尋、病気なの………?」


「―――――うん」

 鼻先を鳴らしたような頷き。頬を強張らせる聖と対称に、智尋ははにかむ。

「大丈夫なんだよね?」

「心配いらないよ」

「嘘じゃないよね?」

 疑っている訳じゃない。本当のことを知りたかっただけ。

「嘘じゃない、だから安心して」

 病気なのに、心配しないで、安心して。質の悪い冗談を聞いているみたいだ。

 そう思っても、穏やかに微笑む智尋の姿が隣にある。病院の図書室でも、屋上のベンチでも、いつも隣にいたのに。私服の智尋が隣にいるのは初めてだったから変に緊張してしまう。

「じゃあ、また会ってくれるの?」

「……うん」

「でも私、我がまま言ってない? 智尋の迷惑になってない?」

 できれば迷惑は掛けたくない。智尋にだけは。

 聖は焦って、必死に言うと、ポンっと頭の上に智尋の手がのせられた。

「聖は謙遜しすぎだよ……」

 もう少し我まま言ってもいいのに、と苦笑を刻みながら聖の頭を撫でる彼の細い指はぎこちないけど優しかった。きっと紅美のシミュレーションゲーム内でもこんなシーンがあるんだろうなぁと、やけに冷静な感想を抱きつつ、とある疑問が浮かんだ。

(でも、言うのやめよ)

「まだ言いたいことあるの?」

「へっ?」

「眉間に皺寄せて、目が泳いだから。なにか隠したのかなーと思ってね」

「ああ、えっとね……極一般の、世間でいう『お兄ちゃん』って『妹』の頭を撫でるものなのかな……て、思ってました、ごめんなさいっ!」

 智尋には敵わない。観念して思った疑問を言ってはみたけど、馬鹿正直すぎて恥ずかしい。火照った聖を見物して智尋は声を出して笑った。

「ははは。―――うーん、でもわかんない。お兄ちゃんになったことないからさ」

「あ……、私も妹になったことないや」

 そのやり取りが無償に可笑しくなって、顔を見合わせて笑い合った。

(智尋の笑った顔、久々に見られたな)

 そんなことを思いながら、日が傾いて行くにつれて、緊張がほどけていくのを感じる。

 菜穂子さんには冗談半分で「ずっと泊まっていっても問題なしよ♪」と言われて焦ったけれども、都心と違って時間に追われないこの土地は好きになってしまった。自然が多くて空気も澄んでいて、夕陽に照らされる藤の花が綺麗で、ずっと見ていたいと思った。

「聖………」

 名前を呼ばれて、頭を撫でていた手が離れると、今度はベンチの上にあった聖の左手に覆い重ねるように握った。その右手は微かに振るえているようだったけど、思いがけず強く握られて、聖は少しだけ背筋に緊張が走った。すかさず智尋を見たけど、下を向いて黙り込んだまま顔を合わせようとしない。

 沈黙に堪えられず口を割りたくになるが、見合った言葉が浮かばない。

「聖……、俺さ、口下手だから上手く伝えられないかもだけど。聖に感謝しているんだ」

 握った手を見つめながら、絞り出された声。

「桜の樹の下で立ち止まっていたのは俺だった。ずっと無気力だったんだ、何もかもが」

 あの『Last Letter』を読んで、聖にも気付いた。正確に答えられる自信がなかったけど、読んでいる時にずっと智尋のことを思い浮かべた。語り手の性別は不明瞭だけど、まるで具現化のようだと思ったから。大学病院で、患者衣を着て、本を開いて笑っていた姿を、聖は思い描く。不思議とそれを羨ましいと思ってしまった。自分が無知で鈍感で、それが無機質な笑顔だと気付けなかったから。

 熱が籠った智尋の手は少し汗ばんでいて、それだけでお互い不慣れなことをしていると思った。それでも視線を俯けたまま、続ける。

「……生きているけど、一人だけ時間が止まったような気分だった」

 ベンチに座ったまま。風に遊ばれても、動けず。呆然と桜を見上げる主人公の影。

 智尋は病気を持っていると頷いてくれた。不謹慎だと思って、やっぱり詳しくは訊かなかった。でも矛盾してしまうくらい智尋のことを知りたいと思った。これ以上、遠くになるのが怖かったから。智尋が笑う姿が見たい。智尋に笑っていてほしいと祈ることしか出来なかった。

「――――でもね、」

 徐に顔を上げて、藤の花を見つめる智尋は……。

「桜の下にいたのは俺だったけど、先を歩いて振り返ってくれたのは、聖だったんだ」

 物語に描かれていたのは、たぶん主人公よりも歳上の女性。本当は聖と同世代の少女を描く予定だったらしいけど、『妹みたいな子』に助けられる設定は、ちっぽけな自尊心が邪魔をして、結局あの形に仕上がったという。

「えっと……でも、」と、今度は聖が思い付いた言葉を漏らす。

「残念ながら、私は綺麗な女性(ひと)じゃないよ?」

 まだ子供だし。お化粧だってろくに出来ないし。

 とりわけ茶化そうとしたつもりはない。気恥ずかしさを隠す為の口実だった。

「数年経てば問題ないさ。大丈夫、俺が保証する」

 聖は綺麗な女性になるよ。不意に目が合うと思えば、彼はそんな微笑みを浮かべて、聖を困らせる。

 桜の下にいた主人公は最後に勢いよく駆け出した。鉛の骸を奮い立たせて。まばゆく桜が舞う中にいる綺麗な女性へ手を伸ばすが、作中では彼女に届くことができなかった。それでも無気力だった主人公には目標ができた。その女性に再び会う為の目標。なら、聖の手を握る智尋には―――、夢が叶った彼には、何が待ち受けているというのだろうか。

「あの手紙」

「……?」

「聖が本音を白状してくれたから。これで『おあいこ』になれたかな?」

「―――――!」

 はっと息を呑んだ時、嫌な汗がじんわり滲んだ気がする。

(そんなこと……、気にしなくて、よかったのに……)

 智尋は故意に、自分の脆弱さを晒してくれたのだった。聖の手紙のせいで。彼に気遣ってもらってまで、本音を溢したいとは思っていなかった。あんな内容を書いて困らせたくないと思うこと自体が強欲で強情で、自分が恨めしくて仕方がない。

「……ごめんなさい」

 ぽつり、雨音みたいな声。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 突然『兄』みたいと言って……。勝手に『聖也』と重ね合わせて。

「迷惑なこと、言って、ごめん、なさい…………」

 卑怯なことして、ごめんなさい。

 涙が頬を伝う。あの手紙を出してから智尋にずっと懺悔したいと思っていた。その理由もあって此処まで足を運んだ。それなのに優しく笑ってくれた。この手を握ってくれた。何度も、何度も『聖』の名前を呼んでくれた。

「謝らないで―――」

 不意に囁かれた声は掠れていた。

「ずっと頑張ってきたんでしょう? あの手紙から聖の頑張りが伝わってきた。お兄さん想いの聖は偉いよ。…………でも『聖』の名前は、聖だけのものだと思うよ」

(―――――違う、違うの……)

 こんなはずじゃなかった。智尋に謝りたかっただけで、慰めてもらうつもりはなかった。

『亡くなった兄の分まで……』そうやって周囲から言われ続けた聖の人生。赤ちゃんの時に亡くなった『聖也』と会ったことないのに、いつも聖の肩の上にいるように存在を強める『兄』。重荷だった。姿は見えないのに邪魔に思ってしまった。でも、辛い時や壁にぶつかった時、『聖也』がいれば状況は違ったはず、『兄』の存在があったら―――、と言い訳をしたいばかりにその存在を利用した。心が晴れることはない。卑怯なことをしているから。卑怯で、愚か者だって思われてもいい。でも、『聖』の中に存在を残すくらいだったら、


 傍にいてほしかった――――――


 叶わぬ願いでも、流す涙はいつもそう願う。

 実現しないものに手を伸ばそうとして、もがこうと抗うから、聖の身体は板挟みのように身動きがとれなくなっていた。この不器用さを誰にも相談できなかった。心の奥にあった暗闇を必死に隠し続けてきた。だから、すがるように智尋の傍にいたいと思った。

「俺は、聖也さんの代わりにはなれないけど……」

 そっと頭に手が落ちると智尋はあやすような仕草で聖を撫でた。指先で髪の毛を梳いて、俯いて垂れた横髪を耳に掛けると、最初からそうしたかったように花のピアスに軽く触れた。泣きっ面を両手で覆うことに精一杯で、智尋のことは見られなかったけど、困った表情でふっと笑った気がした。

「……聖が悲しい顔をするくらいなら、『聖也さん』の代役を引き受けてもいいかな」

「え――――」

 弾くように顔を上げると、目尻を下げた智尋が覗き込む。反射的に視線を反らそうと思ったけど、突然つくられた満面の笑みに驚いて、聖の身体は熱で粟立った。

「俺を救いだしてくれた『綺麗な女性』は、間違いなく聖なんだよ。それだけは何があっても忘れないでほしい。―――――だから、ありがとう」

 その時、一瞬だけ無音になった気がした。けれど心臓が早鐘を打つように煩く高鳴った。

 伝えたいことを伝えて清々しく微笑む智尋と、両頬を濡らして瞬きの回数が増した聖。

 お互い、静止した状態で、この後の言葉を選ぶようにして口を開かない。

「ち―――――……」


「智尋ー、庭にいるのかー? もう直ぐで夕飯だってよー」


 無音を切り裂くように、遠くから男声が聞こえた。

 突然のことに、顔を真っ赤にした聖は動揺して肩を跳ね上げると「叔父の圭佑さん」と智尋は教えてくれた。

「あ、圭さん、ちょっとストップ!」

「――――ああ、悪い。取り込み中だった?」

「うん、そう。できればハンカチかティッシュ持ってきてもらえると助かるかな……」

 藤棚の手前で足を止めた菜穂子さんの旦那さん。眼鏡をかけた真面目そうな風貌の彼と目が合うが、羞恥心が先立ってあからさまに顔を反らす。頭には智尋の手が添えられたままだった。

(は、恥ずかしい…………)

 圭佑さんは腕を組んで、にやりと笑う。

「女の子泣かしたって菜穂に知れたら、怒るだろうな」

「いやいや不可抗力だから。できれば黙っておいてもらえると……」

「口止め料として晩酌付き合え」

「ええー」

 口角を上げた彼は、智尋の返答を聞こうともせず踵を返してしまった。

 聖の耳元で「やられたな……」と自嘲する智尋だったけど、その顔はどこか朗らかに見えた。

 結局のところ、目を赤くした聖の顔を菜穂子さんに見られて、口止めの効果もなく智尋は問い詰められてしまうのだった。




【 ⒔ 】


「おはよう……」

「あれ、今日は早いのねー」

 翌朝。リビングで菜穂子さんと聖が朝食のパンを食べていると、後ろから寝起きの智尋が現れる。

「ふふっ、いつもはお寝坊さんなのに珍しいわねぇー」

「……あのねぇ、聖が来てるのに寝坊してたら申し訳ないでしょう。というか昨日、圭さんに飲まされたから目覚め最悪だよ……」

 溜め息をつく智尋に、ニコニコ顔で浮かれる対称的な菜穂子さん。「低血圧気味だから気にしないで」と聖に耳打ちする。

「朝ごはん準備するから、ポスト見てきてくれる? 酔い覚ましに朝陽浴びて来なさいよ」

「……はいはい」と、ちょっぴり不機嫌そうな智尋。聖にとって意外な光景だったけど、昨夜、缶ビールを持っている智尋もなかなか新鮮だった。

 菜穂子さんは緩んだ頬に手を添えて、わざと満面の笑みをつくる。

「さーてと、戻ってくるのが楽しみね!」

「あの……私、脱兎してもいいですか?」

「だーめ! 今さら何言ってるのよー。というか、逃げ場なんてないわよー」

 温かい紅茶を啜るも、いまいち味がわからないのは気持ちの置き場がないからだろうか。

「……………はあ」

 気が気になれず、大きな溜め息を吐き出して、聖は昨日の道中を思い出していた。

 駅で待ち合わせした菜穂子さんの車で自宅へ向かう最中。


「――――手紙?」

「はい、二日前に出したんですけど普通便で出したので」

 智尋と再会する前にできれば読んで欲しい。そういう思いで送ったのだが、もう既に読んでいるか気になって、心の落ち着く場を求めて菜穂子に訊ねたのだが。

「田舎って配達遅いのよね……」

 その台詞に愕然とする。

(……どうしよう。まさか手紙とバッティングするなんて)

「急用だったの?」

「いえ、そういう訳でも……」

「まあ智尋も、聖ちゃんが来る直前に出していたわね。会いに来てくれるなら直接話せばいいじゃないって言ったら『手紙の方が本音を話しやすい』って言ってたかな」

「それと同意見ですかね……」

 曖昧に笑って誤魔化すと、「今の若者は不思議だわぁ」と、もの更けられる。聖から見れば菜穂子さんも十分に若いはずだったが、さっぱりした性格だから、手紙なんて回りくどいことは好みそうもない。

「聖ちゃん、もしかしてなんだけど、その手紙ってめちゃくちゃ大事なこと書いてない?」

「え…………」

 赤信号を見計らって、菜穂子さんは聖を見つめた。口調は軽いけど、けっこう真剣な顔をして。明らかに目を泳がせてしまった聖は、観念して頷く。

「………本心、書いちゃいました、あはは………」

「なんとなーく、そんな気がしたのよね。なら私が上手く仕向けてあげるから安心して。聖ちゃん可愛いし、私が一肌脱いで協力してあげるわ!」

 ――――という会話をしたこともあり、智尋は郵便受けを開けに行ったのだった。


「あー、でも低血圧だからね、突然沸騰して倒れないかしら?」

「ええっ!」

「あはは、大丈夫よ。その時は病院連れてくから」

 手際良く智尋の朝食をテーブルの上に置きながら、突拍子もないことを菜穂子さんはしれっと言った。

「じゃあ、私は洗濯物でも干してくるかなー。お二人さんごゆっくり~」

「えっ、菜穂子さん居てくださいよ!」

「あははは、過保護じゃないから。甘い方々には甘い物でもどーぞ」

 そう言ってテーブルには、プリンが二つ置かれる。妊婦さんとは思えないほど優雅で今にも踊り出しそうな身のこなしをして、颯爽とリビングを出て行ってしまった。

 取り残された聖。まだ智尋は戻って来ない。

 本当に倒れているんじゃないか疑いたくなるけど、様子を見に行く勇気を持ち合わせていなかった。美味しい朝食を頂いたばかりだというのに胃が痛くなりそうだ。なかなかプリンに手が出せず、溜め息と共に頭を抱えた。


「帰りたい……」


(手紙って、どうしてドキドキするんだろう………)

 口で伝えられないことを、伝えられる手紙は書いている時も、返事を待っている時も、心が振るえるようだった。文通をするまでこんな感情は知り得なかっただろう。

 相手のことを考えて書き出された文字には、ひと文字ひと文字に深い感情が込められることができると思えたのも、智尋からの手紙が、そう教えてくれたから。

 だから、聖も、感情が届くように、願うように、智尋への手紙を書いた。

 きっと、これからも手紙を書き続けるだろう未来(さき)を思って。






   ――――智尋へ


    前回の手紙を忘れてください。


    智尋は私のお兄ちゃんではないから。


    本音をさらに白状します。


    私は智尋のことが好きです。


    初めてのラブレター、受け取ってくれたら嬉しいです。



                         聖より







    『 First Letter 』 END




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