お前ら飲みが足らんのちゃうか
僕は知っている。
関西人は女性を前にした時、体を張って笑いを取りに行く。
何故だろう?
何故かしら?
僕にも最初それがわからなかった。だけど、この日の後藤と前田を見て、はっきりとわかった。彼らのそれは求愛行動なのだ。
彼らの向こう見ずな行動は、どこか儚いカゲロウを思いださせる。
いや、ごめん。ちょっと話を盛り過ぎた。リップサービスは時として人を駄目にする。
訂正しよう。
紐が切れかけているバンジージャンプというのが正確だ。失敗したら痛すぎる。ショックの余り死ねる勢い。地獄の底までのフリーフォール。
僕達は今、名古屋までの工程を半分以上踏破した。前田はすっかりいい気分になってしまっていた。と言うより調子に乗っていやがった。
「もう、ここまで来たら、もう少しやで。後はあれあれっちゅう間に着いてまうで」
「前ちゃん、絶好調やな」
「何か、キモいんですけど」
「あれあれ?どうちたのかな二人とも。そんな事ではいけないでちゅねぇ。もうすっかりおねむの時間でちゅかあ?まるで赤ん坊のようでちゅねぇ」
こいつウザすぎ。
僕と後藤の二人は今日の夕食の為、広い原っぱを駈けずり回ったのだ。もう息をするのも面倒臭い。流石の後藤もボケる気力がないようだ。今日はよく眠れそう。
だけど前田はそうじゃなかった。彼が元気なのもわけがある。この町に彼の彼女が居るらしい。
いつも冷静沈着で泰然自若な僕は何とも思わなかったし、感じなかったけど、嫉妬の余り髪の毛が逆立つ思いだ。
怒りは湧いてこなかったけれど、悲しみに打ちひしがれたりしなかったけど、僕の拳は小刻みに震えた。
「ああ、前ちゃん、エリカちゃん所に行くのんか?」
「さあ、どうでしょうねぇ。それは一体どうなんでしょねぇ」
「いっそ、死んでしまえばいいのに。この地球なんか木っ端微塵になってしまって、皆滅びてしまえばいいのに」
「おやおや、アラやんさん。そんな言葉を吐いてはいけまちぇんねぇ。人を呪わば穴二つと言いまちゅからねぇ。そんな事では女はできまちぇんよぉ」
人間が血の涙を流せるのなら。この時の僕は屈辱の余り、それを流していただろう。それほどに前田の言葉は癪に障った。
アドバルーンのように無様に浮かれた前田が立ち去って一時間後、歯を磨き終わって、洗面所から戻ってきた後藤が驚いた。
「ア、ア、ア、アラやん。なんちゅう顔してるんや?」
「何スカ?」
「それは人の顔やない。獣の顔や。アラやん、何か良からん事考えているやろ?」
「ヒヒヒ。そんな事はありませんよ。何を言ってるんスカ?僕はしっかり正常ッスヨ。多分、百五十パーセントぐらい余裕で正常ッスヨ?」
「何かヤバそうや。今日のアラやんは触らん方がええようや」
「ゴットーさああん!」
「ひぃ!何や!何や!何が欲しいんや?」
「僕は愛が欲しいんスヨ。ただ、それだけなんスヨ。ヒヒヒヒヒ」
「怖い。怖いて、アラやん!堪忍や!堪忍してくれ!」
後で後藤から聞いた話だと、僕の形相は鬼のようだったらしい。
「ゴットーさあん。人間とは醜いもんなんですわ。ねじけた卑小な生き物なんですわ。汚くて醜い心を奥に奥に隠して、ドブの中でキィキィ泣き喚く、そんな哀れな生きもんなんですわ。わかりますかあ?あなただったら、わかるでしょう?ねえ、ゴットーさん?今日、前田の野郎が浮かれているのを見て、ゴットーさんはどう思いましたかあ?ああん?」
ここも良く覚えてないけれど、後藤の話だと、僕の口から長い舌が飛び出てきて、顔中を舐めまわす勢いだったらしい。
「ホ、ヒ、ちょっとだけ。ええなと。ちょっとだけええなと、心の片隅で思ったりしてしまいました。神様ごめんなさい。僕が悪かったです。すんません。すんません。ほんまにすんません。生まれてきてごめんなさい」
「それで十分かあ?後藤ぅ!それは全然正解じゃないわぁ。それは全く自分に正直でないわぁ。お前の心の声を良く聴いてみろや。聞こえるか?聞こえるやろ?お前は嘘つきや。最悪の嘘つきや。嘘つきの心臓は食べてしまわんとあかんわなあ。ムシャムシャ音をたてて食べてやらんとあかんわなあ」
「そうですね。ほんまアラやんさんの言う通りです。アラやんさんの言う事はいつだって何だって正しいです。だから、お願いやから、僕の命だけは助けたって下さい。僕は死にたくありません。僕の命だけは助けったって下さい」
こうして僕達は前田の逢引を邪魔する事にした。
後藤の話だと、僕はかなり常軌を逸した行動をとっていたみたいではあるが、旅の疲れが僕にそういった異常行動をとらせたのだと推測する。多分、若干脚色されているであろうこの事実を私達人間は真摯な気持ちで受け入れるべきであろうと思うのだ。
後藤に連れられて僕はバーにやって来た。窓からのぞくとカウンターにいるのは前田だけ。他には誰もいなかった。
「あれっ?エリカちゃん、おらんのんちゃうか?どないしたんやろ?」
「えっ、どうかしましたか?」
「ほらあそこ。前ちゃんおるやろ?」
そこには悲しそうな顔をしている前田が居た。彼の顔は下を向き、まるで絶望の淵にその身を投げてしまいそうだった。
「前ちゃん…」
僕は後藤の肩を掴んだ。今は何も言うべきじゃない。
「アラやん…。前ちゃんな、ほんまにエリカちゃんが好きやってん。ココに来るのに、無理やり理由つけるんは、正直、俺もかなわんなあとは思とったけど。こんな姿の前ちゃんは見たなかったなあ。アラやん。もう俺ら帰ろ。何も見いひんかった事にして、帰ろうや」
僕は首を振った。
後藤が止めるのを振り切り、僕は店に入って行った。後藤が僕の体に引きずられ、後から一緒に入ってきた。
「アラやん。それにゴットーちゃんも。どないしたん」
白い膜が張ったような目をしていた。前田という花が今にでも、この瞬間にでも散ってしまいそうだった。それだけは絶対に許せない。前田がエリカちゃんとイチャイチャしているより許せなかったんだ。
だから、僕はウィスキーのボトルを前田の口に突っ込んだ。
「何すんねん!アラやん、どないしたんや!おい、ゴットーちゃんも何か言うたってくれ!このままやったら俺殺される」
「アラやん。やめろ!やめろって!」
「なんやあ、ゴットーちゃんも飲みたいんか!そうやったら飲ませたらあ」
前田の口からウイスキーのボトルを引き抜き、後藤の口に押し込んだ。
「おい!アラやん。勘弁してくれや。死ぬ、死ぬ、死んでまう」
「何や、何や。二人とも情けない。全然、飲みが弱すぎや!こうなればしゃーない。俺が酒の飲み方っていうのん教えたるわ」
前田の方を見てみると、彼の目から白い膜が消えていた。それで十分だった。それだけで僕は十分だった。僕だって、あんな前田を見たくはない。
「見とけよ!」
僕がウィスキーを全部飲み干した時。二人がウィスキーの瓶を手にしているのが見えた。前田は少し泣きそうな顔をしていたけれど、涙を浮かべてクシャクシャな顔をしていたけれど、彼の口は笑っていた。いつもの前田だ。もう彼は大丈夫だと思った。
乱痴気騒ぎのスタートだ。
僕達がわあわあ騒いでいると、その騒ぎを聞きつけたのか、女の子が扉を開けて、声をかけてきた。
「何か楽しそうやん!何かええ事でもあったん?」
僕と後藤と前田。僕達三人は求愛行動をした。
女性の為にくだらない事で笑いを取りに行くというのは、紐が切れかけているバンジージャンプのようなものだ。
でも、同時に儚いカゲロウのようでもあると思う。
僕達は店から追い出されたけれど、僕にはその記憶がない。
僕の記憶にあるのはこれだけだ。
「あっ!目覚ましよった」
「ほんまや!ほんまや!」
二日酔いの頭を振りながら、僕は目を開ける事にした。
そこには見知った顔がある。