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その一〜そのニ

その一


朝早く、足の音で目が覚めた。上体を起こして音のする方向に目を向けると、小柄な女性が台所で朝食を作っている姿が目に入った。何の変哲も無い、いつもの朝だ。


「ん?お早う。」


妻がこちらに気付き、優しく声を掛けてきた。


「お早う。…ごめん。今日は朝飯いいや。なんか食欲がないんだ。」


「そう。昨日から体調悪そうだったもんね。今日は仕事休めば?」


妻は心配そうに此方をみて言う。


「ちょっとした偏頭痛だよ。よくある事だから大丈夫。」


僕はそう言い残すと、すぐに洗面所に向かい、目の前の鏡に映った自分の顔を見て少し驚いた。鏡の中には、坊主頭の端整な顔立ちをした男がいた。目の下には、昨夜までには無かった、どす黒い色の隈が出来ている。


(次の休みに病院に行った方がいいな。)


僕はそう思いながら、蛇口から出る冷たい水で顔を洗った。


「今日も帰りは遅いの?」


台所で、何やら摘み食いをしている妻に聞かれた。どうやら、僕の朝食として作られた筈の料理が、そのまま妻の朝食になってしまった様だ。


「うん。今月中に仕上げなくちゃいけない現場があるからね。」


「無理はダメだよ。一家の大黒柱さん。」


「はいよ。」


力無く答えた僕の返事に、妻は又しても心配そうな表情を浮かべる。僕はその表情には敢えて触れずに、作業着の入ったリュックを背負い、玄関に歩いて行った。そして作業用の安全靴を履き、何気なく後ろを振り返ると、小柄な女性が笑顔でこちらを見つめている事に気付いた。


「行ってらっしゃい。気を付けてね。」


「はいよ。行ってきます。」


いつも通りにアパートを出た僕は、いつも通りではない頭痛に少し不安を抱きながらもアパートを後にした。


僕は現在、ビルやマンションを対象にした、空調機の設置を行っている会社に務めている。空調機と言っても、よくある家庭用のエアコンとは違い、大型施設用の大きな空調機を然るべき場所に設置しているのだ。

その仕事は、当然電気に関する知識が必要だし、太い電線を引いたり、壁に穴を開けたりと、なかなか力のいる仕事でもある。

僕は新しく建設される、大型ショッピングモールにてこれらの仕事を任されていた。

恐らく、頭が痛い原因であろう現場だ。本来ならば2ヶ月後までに仕上げれば良い現場なのだが、上の人間に今月中に仕上げる様にと、急遽指示を変更されたのだ。いわゆる大人の事情なのだろうが、お陰でこちらは毎日終電帰りであり、酷い日には現場で泊まり掛けの作業になる事もある。


駅の改札を抜けてホームに出ると、端の方に迷彩服を着た、見るからに体格の良い男が数人目に入った。


(なんかの訓練でもあんのかな。でも明らかに浮いてるな〜。)


都心から近い事も有り、電車はすぐにやってきた。車両の中は満員電車とまではいかないが、全ての座席がうまり、立っている者がちらほらいる程度には混雑している。僕は前から三両目の車両に乗り、ドアに肩をあて体重を預けた。いつものポジションである。ふと、車両の前方に目を向けると、僕と同じ様に立っている、知った顔が目に入った。あちらも僕に気付き、軽く会釈をしてくる。僕は一応会釈を返したが、すぐに外の風景を眺める事にした。


彼の名前は神崎正。同じ職場で働く同期の男で、身長は高くないが、筋肉質でガッチリとした体格をしている。彼の顔からは、見るからに人の良さそうな雰囲気が滲み出ていた。雰囲気だけでは無く実際に性格も良い。現場で重い荷物を運んでいた時に、彼に助けてもらった事は一度や二度では無い。だが、わざわざ歩み寄って話す程の間柄でも無かった。

何より今は頭が痛い。


外の風景をなんとなく眺めていると、電車は一つのトンネルに差し掛かった。辺りが薄暗くなる。


そこで僕は気付いた。僕の記憶では、通勤電車でトンネルに入る場所は一つも無かった筈だ。新しく出来たにしても、こんな所に作る理由が分からないし、昨日は影も形も無かったトンネルが、1日で完成するなんてあまりにも不自然だ。それに誰が考えても不可能だと分かる。周りを見てみると、何人かの僕と同じ考えを持った者が、困惑した表情浮かべていた。


「…ーン」


突如、何やら耳障りで不快な音が聞こえた。


「キーン」


何かの飛行物体が近づいてきているかの様に、音はどんどん大きくなる。


「ギーン」


頭が割れそうなぐらいの、大きな音が鳴り響く。あまりの音の大きさに、意識を失い倒れる人が出始めた。


そして、一瞬の内に辺りが白く明るくなる。僕はトンネルを抜けたのか気を失ったのか一瞬わからなかったが、どうやら前者の様だと理解した。


不愉快な音が聞こえなくなり安堵したのも束の間に、僕は辺りを見て驚愕する。


そこは大木が並び、緑が溢れる見た事も無い森の中だった。


その二


「何だ。何だよここ。どうなってんだよ。」

喚き散らしている少年がいる。その他にも不安の声を上げる乗客が多数いた。


電車は森の中の、少しひらけた場所に止まっている。それもその筈、線路が無くなっているのだ。動ける筈がない。しかし、先程まで正常に運転していた車両が、何事もなく佇んでいる事には違和感を覚えなくもない。


「みなさん落ち着いて下さい。冷静になりましょう。」


周りの人間に声を投げかけている女性がいる。身長が高く、スタイルの良い女性で、端の尖ったメガネとスーツを上手く着こなしている。何だか、スーツのCMに出てきそうな雰囲気だ。


「何が起こったのかはわかりませんが、こういった状況で一番危険な事はパニックになる事です。」


スタイルの良い女性が声を張り上げている。それだけで、日常ならば話を聞かない男はいないだろう。


…日常ならばだ。


「うるせぇ。先輩との約束に遅れちまうんだよ。関係者出て来やがれ!」


先程、喚き散らしていた少年だ。しかし、この状況で先輩とは。余程その先輩とやらを尊敬しているのか、恐れているのかのどちらかであろう。

僕はふと足元を見ると、眼下で老婆が倒れている事に気付いた。どうやらスーツの女性と少年の口論が気になって、気付くのが遅れてしまった様だ。


「大丈夫ですか?」


声を掛けて、頬を軽く叩くと老婆は目を覚ました。恐らく先程の音で気を失ってしまったのだろう。


「ああ〜。ごめんね〜。」


老婆はまだ状況を理解出来ていないのだろう。極めて冷静だ。

ゆっくりと上体を起こし、その場に座り込んで外の景色を見ると、状況の変化に気付き、目を丸くさせた。


「あらあら〜。どうなってんのかね。とうとう呆けちまったかな。お兄ちゃんは大丈夫かい?」


「はい。僕は大丈夫です。体調が優れないならまだ横になっていた方が良いですよ。」


そう言った後に、自分の体調がおかしい事に気付いた。

あれ程僕の頭を悩ませた頭痛が全く感じられないのだ。


(本当に何が起こってんだよ。)


周りを見渡すと、みんな混乱しているのがわかる。先程の少年に触発されたのか、喚き散らす者が増えてきた。スーツの女性も事態の収集を諦めたのか、苦虫を噛み潰した様な顔をして何か考え込んでいる。


「五月蝿い!静かに出来んのか!馬鹿たれがぁ!」


事態を収集したのは以外にも、僕が介抱した老婆であった。


「大の大人が揃いも揃って情けない!倒れている人を助けるのが先じゃろうが!このお兄ちゃんみたいに!」


全員の視線が僕に向けられる。僕は突然の注目になんだか恥ずかしくなって俯いてしまった。しかし流石は年の功、経験を多く積んだ者の声は重みが違う。正直僕も、先程の穏やかだった老婆の変化に驚きを隠せないでいた。


「でもよ〜。じゃあどうすりゃいいんだよ。車掌も誰も出て来ねぇし。」

少年の言葉は老婆ではなく、何故か僕に向けられた。

その言葉と共にまた視線が僕に集まる。


(…僕に聞くなよ)


「取り敢えず、倒れている人の介抱をしましょう。後、体調が優れない人がいた時の為に、休める場所も確保した方が良いと思います。」


内心の声は出さずに冷静を装って言った。みんながキョトンとした表情で僕を見る。


「ほれ。ぼけっとせんで早くやるんじゃ。」


老婆の声で、みんなが我に返った様に一斉に動き出した。


(この婆さん、何者だよ。)


端から見たら、混乱を鎮めたのは僕の様に見えるのかも知れないが、実際はこの老婆が言った事を、僕が言い直しただけに過ぎない。この老婆の言葉には不思議と強い説得力を感じる。

一通り介抱が終わった所で、またみんながそわそわと僕の方を見始める。指示を待つ者の目だ。介抱と言っても、幸い気絶した者は、声を掛ければすぐに意識を回復したし、体調不良を訴える者もいなかったので短時間で終える事が出来たのだ。


(中には体調不良が改善されたと言う者もいたけど…)


「おっさん。次はどうすんだよ。」


少年がこちらを見て言った。


(おっさん…僕はまだ25だぞ。)


僕はその声を意図的に無視して怒りを表した。


「あの、初めまして。私、上條と申します。」


今度はスーツの女性が僕に話し掛けて来た。


「僕は後藤です。初めまして。」


(しめた。この人に指示を仰ごう。さっきもまともにみんなを纏めようとしていたし。僕が指示するよりはみんなを正しい行動に導ける気がする。)


「上條さんはこれからどうしたら良いと思いますか?」


「そうですね。助けを待つのが無難かと。周りも暗くなってきましたし、外に出るのは危険だと思いますから。」


(確かに僕もそうした方がいいと思う。え?…暗く?僕がアパートを出たのはたしか午前7時でまだ30分ぐらいしか時間がたっていないはずだけど…。)


僕の腕時計では、まだ7時35分を指している。暗くなる筈がない。しかし、外を見ると明らかにもう夜だと言わんばかりの暗さだ。そして、夜の森は不気味な雰囲気が漂っている。


「えと、まだ時間は…」


「ギャー!」


口を開いた瞬間、僕の言葉は女性の叫び声でかき消された。


「後ろの車両からだわ。」


「おい、なんだあれ。」


少年が指差した方に目を向けると、電車から30メートルほど離れた所に奇妙な生き物が立っているのが確認出来た。

何故奇妙だと感じたかと言うと、それは今までに見た事のない生き物だったからだ。なんとその生き物は半分馬で、半分人間の様な形をしていた。

それだけ言えば、よくゲームや漫画に出てくる「ケンタウロス」を思い浮べる人が多いのだろうが、その生き物はそれとは決定的に違っていた。

なぜならその生き物は、下半身が人間で上半身が馬なのである。

その生き物は片手に松明を持ち、片手に人の頭ぐらいの大きさの石を持っていた。


「ヴモォー!」


馬人間がそう叫ぶと、後ろの大木の影から呼ばれる様に同じ姿の生き物が3人、匹?出てきた。


「おっさん!なんだよあれ!」


(知るか。こっちが聞きたい。)


僕はまた少年の言葉を無視した。

馬人間達は何やら内輪で話している様子であったが、しばらくすると仲間を呼んだであろう一匹が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「見た目はアレだけど。助けに来たのかしら。」


ぼそりと上條が言う。


(こいつ正気か。どうみてもやばいだろ。ゲームや漫画で言うと、確実に誰か殺される様な奴だぞ。)


馬人間はどんどん近づいてくる。残り5メートル程の距離で、僕は馬人間の全身を見て腰を抜かしてしまった。

馬と同じ頭部の口からは涎が溢れ出ている。それに、人間で言う瞳の部分は両目とも上を向いていて、血管が浮き上がっていた。一番の衝撃は人間と同じ下半身だ。この生き物が何を性の対象にしているのかは知らないし、知りたくもないが、股関が隆起している。

勃起しているのだ。


(こいつはやばい。何か決定的にやばい!)


「みんな!反対のドアから逃げるんだ!急いで。」


僕が叫んだと同時に馬人間が右手に握った石をドアに叩きつけてきた。


「ガツン!」


鈍い音と共に、ドアが内側にへこむ。そしてドアの中心部に、人の拳ぐらいの大きさの隙間が出来た。


「どけ!早く行け!」


「嫌だ!死にたくない!」


馬人間の破壊的な一撃で、乗客の大半がパニックに陥っていた。全員が反対側のドアから出ようと、もみくちゃになりながら集まる。しかし、ドアは開かない。冷静に考えればドアの横に付いている、非常用のレバーを引けばドアは開く筈なのだが、我先にという人間の焦りがそれをさせない。


(ドアが内側にへこむなんて。)


僕は腰を抜かしたまま、馬人間の怪力を目の当たりにして愕然とし、馬人間とドアを挟んだ状態で座り込んでいた。


「ズゴン」


鈍い音がした。二撃目が放たれたのだ。

さらにドアが内側にへこむ。もう、二つのドアの間に人間の赤ん坊ぐらいの大きさの隙間が生じている。


「違う車両だ!違う車両に逃げるんだ」


少年の声だ。声の方に目を向けると、少年が非常用のレバーを引いていた。だが、何故かドアは開かなかった様だ。今度は逃げようとドアに集まった人達が、一斉にもみくちゃになりながら車両の前後に分かれた。


馬人間は手に持っていた松明と石を地面に投げ捨てると、先程生じた隙間に手をかけた。

馬人間の怪力をもってすれば、ドアが引き剥がされるのは時間の問題だろう。僕は死を覚悟した。


「後藤!何やってんだ!早く逃げろ!」


逃げ惑う人達に揉みくちゃにされながら、声を上げたのは同期の神崎だった。


(もう無理だろ。腰抜けて立てないし、どうせ全員死ぬだろ。てかおまえ今まで何処いたんだよ。)


「おまえが死んだら嫁さんと腹の中の子はどうするんだよ!」


(…は? 子供。何言ってんだ?妻は妊娠してないぞ?)


一瞬困惑したが「嫁さん」と言う言葉に妻の笑顔が頭に思い浮かぶ。見る人、全てを暖かい気持ちにさせてくれる笑顔だ。

それは、僕の気持ちを鼓舞させるには十分な笑顔だった。


(…死ねない。死ぬわけにはいかない!僕は一家の大黒柱だ!)


「バキバキ!」


「ヴモ、ヴモォー!」


馬人間は既に半分以上ドアを引き剥がしている。しかし、僕の足はまだ言う事を聞かない。


(ドアが開いたら最後だ。僕なんて簡単に捻り潰されるだろう。)


「止めろ。こっちにくるな!やめろぉー!」


もうどうしようもない、と言う心からの叫びだった。僕の目からは冷たい物が流れている。

その時。

されるがままに破壊されていたドアが、白く優しく光った。

その光に触れた瞬間、馬人間は音もたてずに後方に吹き飛んでいった。僕は何が起こったのか解らずに、呆然とドアを眺めていた。馬人間は、2メートルはあるであろう巨体を起こし、今度は白く光っているドア目掛けて突進してきた。下半身は人間なので、それなりの速度しか出ていないが、壊れかけのドアを破壊するには十分過ぎる勢いだろう。


しかしドアは破壊されなかった。

逆にもう一度、音も立てずに馬人間は後方に吹き飛ばされる。


「ヴー!」


馬人間は悔しそうに地面に拳を叩き付けた。


(何が起こってるんだ?取り敢えず助かった…のか?)


「後藤さん!目が!」


上條が口に手を当てながら驚愕して言った。


僕は頬を伝う冷たい物に手で触れ、それを目視した。

それは真っ赤で、人間ならば持っていない者はいない液体であった。


(血だ。これは涙ではなくて、僕の血液だ!)


ようやく足に力が入り立ち上がると、僕は酷い頭痛に顔を歪めた。(また頭痛だ。何か身体がおかしい。)


感覚的にそれが今朝と同じ物だと悟った僕は、馬人間に目を向けた。


しかし、そこに巨体は無かった。辺りを見渡すと、この車両にはもう、神崎、上條、老婆、僕の4人しかいないらしい事が分かった。老婆はと言うと、落ち着いた表情で座席に腰掛けている。果たしてこの状況を把握出来ているのだろうか。

もう一度馬人間を探すが、暗いせいもあり、見つけ出す事が出来ない。


「後藤!なんかくるぞ!」


神崎が指差した方を見ると、遠くにいた馬人間3匹が、弓矢のような物を構えている。本来、先の尖った矢尻が付く部分には、丸い大きめの電球の様な物が取り付けられている。


(どうせただの弓矢じゃないんだろ。)


僕は深いため息をついた。

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