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市街地を囲む海を越え、更に一つ小さな山を越えると
中性のヨーロッパを想わせる長閑な田園地帯が現れる。
その中に古びた洋館がただ一つ、悠然とそびえ建っていた。
黒ずんだレンガがその歴史を物語っている。
それこそが雪洞・F・ケイマ邸だった。
近隣―と行っても一番近い家でさえ屋敷から徒歩10分ほどかかるのだが―の人々は、
かの有名な雪洞の邸宅の名にふさわしいほどの大豪邸を指差しては
『実は地下に遺跡が眠っている』とか
『家中にからくりが張り巡らされている』とか
『地球の危機が来ると変形してロボットになる』とか
思い思いの噂話をして楽しんでいた。
そんな近所の奥様方のかっこうのネタになっているとはつゆ知らず
壮麗な屋敷の主人を乗せた真っ白な車が、バロック調の壮麗な庭園にゆっくりと降り立った。
車が止まったのを確認すると、フランシスがドアを開ける。
庭で風に揺られる花々もびっくりの、しなやかで無駄の無い動きだ。
促されるままに立ち上がった雪洞は、差し込む昼間の太陽に目を細めた。
車に車庫へと戻るよう指示を出したフランシスが、
雪洞に声をかける。
「お疲れ様でございました」
この日、雪洞は朝から例の被害者家族らとの
示談に向けた非公式な会議に出席していた。
「本日は御同行できず申し訳ありませんでした。
お話は滞りなく進みましたか?」
「うん、和解は正式に成立したわ。
でも思ったより、慰謝料を取られた。
向こうがなかなか腕の良い弁護人を抱えていたの。
…詳しくは後で話すわ、今は少し何も考えないで散歩したい」
かしこまりました、と頭を下げるフランシスに先立って
雪洞はゆっくりと庭園を歩いていく。
まだ昼前と言うのに、少し肌寒くなった秋の空気を吸い込みながら
雪洞は綺麗に整えられた花壇を眺めていた。
ふと、その中でひっそりと咲く
秋桜が目に入った。
「お前、今年も咲いたの」
雪洞はしゃがみこむと、そっとピンク色の花弁に触れた。
疲労のせいかぼんやりとした視界に
いつかの映像が映し出される。
―――ああ、あの日もちょうど、こんな晴れた日だったな。
真っ白な道をいつも二人で歩いた。
あの人は歩くのが少し遅くて
私は振り返ってばかり居た
あの人は花壇に咲く花を見るのが好きだった。
そして、咲いたばかりの秋桜を見つけると
囁くように言ったの――
「ここにも居た…私の雪洞。
儚くも、強い花」
「お嬢様」
フランシスの声で雪洞ははっと顔をあげた。
「呆けておられましたが、大丈夫ですか?」
「ええ…少し、花を見ていたの」
フランシスは雪洞の手元にある秋桜に目をやった。
「コスモス、ですか」
「うん」
「菊科の一年草でメキシコ原産。観賞用として花壇に栽植するのに好まれ、現在は品種改良により20種も色がございますね。
別名アキザクラ、秋の季語として用いられ、花言葉は『少女の純真』『真心』」
「…」
「しかし、お嬢様に似ていらっしゃいますね」
「え?」
思わずどくんっと鼓動がする。
「ご覧になってください」
フランシスは秋桜の葉を一枚手に取った。
葉の上には青虫が乗っている。
今日の雪洞は、桜色の髪に若草色のピンをさしていた。
--…捻り潰したろか
雪洞はふてくされた様にスタスタと歩き始めた。
「軽食をお持ちしましょうか?」
何食わぬ顔で微笑みかけるフランシスを横目で見ながら、
「いや、いい。それより早く恵永の料理が食べたい」
とぶっきらぼうに答える。
「では早急に恵永に料理を作らせましょう。
何をお召し上がりになりますか?」
「何でもいいから美味しいもの」
「ではそのように伝えましょう」
フランシスは胸元から携帯電話を取り出すと、『屋敷へ』と告げた。
しばしクラシック音楽が流れた後、空中に三次元化された屋敷内の映像が現れる。
しかし、しーんとして何も聞こえない。
「故障か?」とフランシスが顔を近づけたときだった。
「ガッシャーン!!!」
辺りに不快な音が響き渡った。
「またか…」
ちっという舌打ちとともにフランシスが呟く。
多分、というより確実に犯人は恵永だろう。
――今度は何を割ったのかしら。何にせよ、今月はこれで三回目ね。
片付けに時間がかかりそうだ、少しゆっくり行ってやろう。
正門から屋敷まで5分ほどの道のりを歩きながら、フランシスの隣で雪洞が苦笑する。
何か騒ぎながらがちゃがちゃと陶器を片付ける音がして
今度は男の映像が現れた。
いかにも人のよさそうな顔立ちの東洋系の男である。
「あっあの、お呼びでしょうか」
「…総料理長の恵永、お嬢様がお帰りだ。お食事を用意してくれ」
フランシスがいかにも苛立たしげに言った。
つられて恵永の顔も恐怖でひきつっていく。
いつもの光景だ、見なくても分かる。
「は、は、は、はい。何を作ればよろしいでしょうか」
「とにかく美味しいもの!」
すかさず雪洞が答える。
「あ、お嬢。わかりました!」
雪洞の顔を見た恵永の顔がぱっと安堵で輝く。
しかし、それもつかの間
「…にしても恵永。今度は何を壊した!?」
主人の肩をぐいとどけてフランシスが再び顔を出した。
――こいつ、仮にも主人を。
「皿を…」
「どの…!」
お前は先日、ヴェネツィアから取り寄せたガラス皿を壊したばかりだろう、と思わずフランシスが身を乗り出すと、
「片付けは後でいいから、食事の用意をお願いね!」
とだけ言って雪洞は回線を切ってしまった。
「お嬢様!!」
「ふ、あははは」
血相を変えて怒るフランシスを見ていた雪洞が、腹を押さえて笑いだした。
フランシスは不思議そうに雪洞を見る。
「だって、銃器を持った大の男たちに襲われても微塵も動じないあんたが、
こんなことでこんなに怒るなんて…」
その長閑さがなんだか可笑しくて、雪洞は久しぶりに声をあげて笑った。
「お嬢様…笑いごとではありませぬ」
「まぁ、今に始まったことじゃないでしょう」
雪洞は目尻の涙をぬぐって言った。
たかが数十万の皿の一枚や二枚。
それよりも今、彼の料理が食べたいのだ。
そしてなにより、ご飯を作って待ってくれる人が居る。
帰りを待ってくれる人がいる。
それが嬉しいのだ。
やっと手に入れた
大切な「家族」。
少しだけ
今だけはここで羽を休めても、良いよね―――
まだ何か言いたげなフランシスが言葉を探していると
「おかえりなさーい!」
と、シャナとニコラが屋敷から走ってくる音が聞こえた。