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思えばあの頃が、人生でもっと幸せな日々だった。
彼とその両親は、私を実の子供のように可愛がってくれたのだ。
家の概観からもわかるように、彼の家は代々名の知れた財閥一家であった。
彼の名前は、アーサー・フィニステール
中々子供を授からなかった後両親、たった一人の愛息子であると同時に
親戚一同の期待を一身に受けた、フィニステール家の待望の跡取りであった。
忙しい両親に代わり、アーサーはにはいつも、物腰柔らかな例の老執事が付いていた。
しかし、口を開けば彼はいつも
「アーサー坊ちゃん、歴史のお勉強のお時間です」
「さあ坊っちゃん、バイオリンの先生がいらっしゃいましよ」
「お早くお支度下さいませ、語学学校に遅れてしまいます、アーサー坊っちゃん」
アーサーを急かしてばかりいた。
アーサーは本を読むのが好きだった。
特にシェイクスピアや、ゲーテ、時にはモーツァルトのオペラまで
何処か論理破綻した、それでいて美しい(と彼は言う)古典の舞台劇を好んで読んだーーそのせいか、彼の言動はどこか舞台俳優じみている。
そんな彼の唯一の趣味を楽しむ余暇すら、奪っていく周囲の大人たちを、私はどうしても許せなかった。
学校から帰ってきた彼の足音を聞きつけると、私は決まって玄関に走っていって、彼に飛び付く。
しかしその至福の時も、許されるのはわずか数分足らず。
すぐに例の執事が音もなく現れては、さあ坊っちゃん、と勉強部屋へ促す。
私は老執事を思いきり睨んだあと、
アーサーの後を追いかけて言った。
「どうしてみんな、アーサーさんにお勉強ばっかりさせるの?
本を読んだり、歌を歌ったり、その時のアーサーさんの方が、よっぽど素敵なのに!」
するとアーサーは、急にぐっと大人びた顔付きで
「それが、生きるということなんだよ」
と答えるのだ。
それでも納得のいかない私を見ると、そっと手招きをして隣に座らせ
「さあ、また面白い本を見つけたんだ。コシ・ファン・トゥッテだよ、君にはまだ早いかもしれないが…僕の隣にで読んでおくれ」
と優しく頭を撫でた。
正直なところ、私には彼の言っていることも
その矛盾だらけな物語の面白さも、全く理解できなかった。
それでも、私が側にいるときだけ、彼の顔が少しばかり和らぐのを知っていた。
私は黙って頷くと、数学の宿題に取りかかるアーサーの横で
分厚い本をめくり始めるのだった。
彼が当時、ちゃんと幸せだったのかは分からない。
どれほどの重圧が、まだ幼い彼にのし掛かっていたのか
今ならその痛みを推し量ることができるけれど
それでも彼は、いつも笑っていた。
疲れたときは少し儚げに、オペラを口ずさむ時は少し得意気に
私はその顔が、数学より物理より、好きだった。
時折困ったように空を見上げながらも、それでも彼は、日々を懸命に生きていたのだ。
しかし
そんな彼を支える足元が、一瞬にして崩れ去る出来事が起こる。
彼の両親が亡くなったのだ。
交通事故だった。