願い事。
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誰もいなくなった放課後でのこと。
茜色に染まった校庭で、彼女は言った。
「ねぇ。この石をさ、空に向かって投げるから、石が地面に落ちる前に今一番の願い事を言ってみて? 勿論、願い事は三回復唱するの」
「どうして?」
「いいからいいから。じゃあ、いくわよ」
「――ちょっと」
彼女は、僕の制止が不服だったのか苛立ちに似た感情を瞳に宿し、振り上げた腕を斜めのまま指先で小石を握り直した。
僕は慌てた。その鋭い視線から、彼女を怒らせてしまったのではないかと思ったから。
彼女はたまに不思議なことを言い出す。それは僕にすれば意味の無さそうに思えることが多い。その度に僕は首を横に振り、彼女は理解し易いとは決して言えない理屈をならべては、押し切るように僕を納得させようとする。
「なんで願い事を? それに三回願い事を唱えるのは流れ星に向かってじゃないか」
靴の先で地面の砂に円を描いていた彼女に向かって、とりあえずの疑問を口にしてみる。それは、僕から彼女への明らかな挑発行為だと受け取られることだろう。
それを聞いた彼女は、つまらなさそうに腕を下ろすと、少し棘のある口調で僕へと詰め寄ってきた。
「君はさ、制約されたわずかな時間に魅力を感じない? ロマンチックだと思わない?」
そろそろ始まると思っていた彼女の持論の展開。
勿論、その引き金を引いたのは僕自身だけれど、もしこれが漫画だったのなら、僕の頭の上にはいくつものハテナマークが浮かんでいて、口が半分以上も開いていることだろう。
なんとなく想像した自分の顔はあまりにも間抜けだった。
「願い事自体や、その対象にロマンチックさは感じるけど。時間に魅力って?」
「流れ星なんていっぱい流れるじゃない。それに私なら、流星群に向かって願い事をするわ。そのほうが効率的よ。一、二秒にもに満たない一瞬の間に願い事を三回も早口で言い終わらせるなんて、ほとんどの場合が無理よ」
彼女は「そうでしょ?」と言いたげな表情で僕を見遣る。
反論の余地はある。でも、僕はそれをしない。彼女は、僕の質問に答えただけだ。彼女の価値観に干渉するつもりは始めからないのだ。
沈黙が二人の間に訪れる。
校舎へと吹き抜ける風が砂を舞い上げ攫い、迫りくる帳へと伸びる二人の影が視線の先でゆっくりと重なっていく。
そして、彼女が再び口を開いた。
「それでもね、時間が大切なの。それも制約があってこそ。流れ星が消えるまでに、石が地面に落ちるまでに、そんな一瞬の時間に願い事をすることがロマンチックだと、私は思うな」
うつむき加減でそう言った彼女は、足元の円に二本の線を足した。そして何の躊躇いもなく、その時計らしき図形を元の砂へと戻していく。
「――だから、してみてよ。願い事」
「色々と矛盾しているよ」
彼女は、一瞬の間に願い事を唱えることを無理だと言った。しかし、制約された時間には――。
「細かいことは気にしないの。じゃあ、いくわよ」
思考は咄嗟の中断を余儀なくされる。
それは僕の返事を待たずして、夕日を背に立ち上がった彼女が野球のピッチャーを思わせる構えで腕を大きく振りかぶっていたからだ。
「今一番の願い事を言ってね」
小石が地面に落ちるまでの間に、おそらく僕は願い事を三回も言えない。
それもそのはずで、彼女の見よう見まねの投球ホームはひどく滑稽で、それでいて、その投げ方では上ではなく前へと小石は投げ出されるだろうから。
彼女はゆっくりと足を踏み出し、体を少し捻りながら腕を前へと送り出す。
指先から放たれた小石は緩やかな放物線を描いていく。
――しまった、まだ願い事を思い浮かべてすらいなかった。
「早く!」
地面へと落下していく小石と僕へと振り返った彼女の姿。
それらをスローモーションのように視界に捉えながら、なるべく早口で、それでも噛まないように気をつけながら、僕は一回だけ願い事を口にした。
それはすっと心の底から溢れ出てきた、今一番の願い事だった。
「君とずっと一緒に居られますように!」