石の記憶 あなたとともに
大学を卒業した頃の榊優里は、 よく笑う子だった。
友人と出かけ。
カフェで他愛もない話をして。
「優里なら絶対ちゃんとした会社入れるよ」
そんな言葉を、 周囲から当たり前みたいに向けられていた。
優里自身も、 そうなるものだと思っていた。
けれど現実は違った。
何社受けても、 返ってくるのは不採用通知ばかり。
最初は、 「次がある」と思えた。
でも、 何度も何度も続くうちに、 少しずつ心が削れていく。
友人たちは次々と就職していった。
SNSには、 新しい職場の写真や、 研修帰りの投稿が並ぶ。
優里は次第に、 それを見ることすら苦しくなっていた。
――私の何がダメなんだろう。
その言葉ばかりが、 頭の中を回っていた。
やがて優里は、 家へいる時間が増えていく。
外へ出る理由が減り。
人と会うのも怖くなり。
気づけば、 部屋へ閉じこもる日が当たり前になっていた。
父親の弘和は、 そんな優里へ厳しかった。
「逃げてばっかりじゃ駄目だ」
「やる気があれば仕事なんて出来る」
典型的な昭和の父親だった。
言葉は厳しい。
けれど優里も、 父親の言っていることが全部間違いだとは思えなかった。
このままじゃ駄目だ。
ちゃんと働かなきゃ。
前へ進まなきゃ。
そう思っている。
なのに、 身体が動かない。
求人サイトを開いては閉じ。
面接のことを考えては、 胸が苦しくなる。
「……向いてないのかな、私」
ぽつりと漏れた声は、 誰にも届かなかった。
そんな優里を、 母親の由香里だけは静かに見守っていた。
「焦らなくていいから」
「少しずつでいいのよ」
無理に励ましたりはしない。
ただ、 温かいご飯を作り。
優里の好きなお茶を置き。
黙って隣に座ってくれる。
だから優里は、 なんとか壊れずにいられた。
ある夜。
優里はベッドへ寝転びながら、 ぼんやりとタブレットを眺めていた。
最近はよくアニメを見ている。
子供向け。
冒険もの。
スポーツ。
昔の名作。
ジャンルは関係なかった。
ただ、 そこにはいつも、 前へ進む主人公たちがいた。
失敗しても。
傷ついても。
泣きながらでも、 立ち上がる人たち。
優里は、 そんな主人公たちへ自分を重ねていた。
現実の自分は、 部屋へ閉じこもっているのに。
画面の中では、 一緒に戦っていた。
一緒に冒険していた。
仲間と笑っていた。
だからアニメを見ている間だけは、 少しだけ呼吸が出来た。
アニメソングも嫌いではなかった。
特別詳しいわけじゃない。
歌手の名前も、 ほとんど知らない。
それでも、 作品の終わりと一緒に流れる歌は、 不思議と耳に心地よかった。
その日も、 何気なく再生したアニメだった。
オープニング映像が流れ始める。
走り出す主人公。
空へ伸ばされた手。
そして、 歌の中で何度も繰り返される言葉。
――アイオライト。
優里はふと瞬きをした。
“アイオライト”。
聞き慣れない言葉だった。
普段なら、 曲名なんて気にしない。
けれどその日は違った。
「……アイオライト?」
小さく呟き、 優里はスマホを手に取る。
検索欄へその名前を打ち込んだ瞬間、 画面いっぱいに青紫色の石が表示された。
「……え、これ宝石の名前だったの?」
ページには、 鉱石としての説明が細かく並んでいた。
けれど優里の目は、 そんな文字をほとんど追っていなかった。
ただ、 その色へ惹かれていた。
夜みたいな青紫。
静かな色。
画面をスクロールすると、 アクセサリーの写真が並び始める。
その中で、 ひとつの指輪へ目が止まった。
少し太めの金色のリング。
中央には、 丸みを帯びたアイオライト。
カボションカットの石が、 柔らかな光を閉じ込めている。
派手ではない。
でも、 目を離せなかった。
「……綺麗」
気づけば、 優里は何度もそのページを開いていた。
値段を見る。
「……高い」
今の自分の貯金では少し厳しい。
優里はスマホを閉じる。
でも、 しばらくするとまた開いてしまう。
あの青紫色が、 どうしても頭から離れなかった。
昔から優里は、 簡単に「欲しい」と言えるタイプではない。
お年玉を貯めて。
お小遣いを残して。
欲しい物は自分で買う。
それが当たり前だった。
だから翌日の夜。
食卓で優里が小さく、
「ちょっと欲しい物、あるんだけど」
と口にした時、 由香里は少し驚いた顔をした。
スマホに映る、 青紫色の指輪。
「綺麗ね」
由香里は柔らかく笑う。
「でも高いから、やっぱりいい」
優里は慌ててスマホを引っ込めようとした。
けれど由香里は、 静かな声で言った。
「買おうか」
「え?」
「たまにはいいじゃない」
昔から滅多におねだりをしなかった娘。
そんな優里が、 “欲しい”と言った。
それだけで、 由香里には十分だった。
数日後。
届いた小さな箱を、 優里は自室でそっと開ける。
「……わ」
思わず声が漏れた。
写真で見るより、 ずっと綺麗だった。
青。
紫。
光によって静かに色を変える石。
優里は恐る恐る、 右手の人差し指へ指輪を通す。
「……ぴったり」
その瞬間、 胸の奥が少しだけ温かくなった。
検索した時、 説明の中にこんな言葉があった。
――ヴァイキングが道標にした石。
もちろん、 石が人生を変えてくれるなんて思っていない。
でも。
アニメの主人公たちは、 どんなに苦しくても前へ進んでいた。
“アイオライト”という歌も、 まるで迷う人の背中を押すみたいだった。
そして今、 この青紫色が指にある。
止まっていた心の奥で、 小さな声が顔を上げる。
――このままじゃ、駄目だ。
その時、 居間から父親の声が聞こえてきた。
「だから最近の若いのは根性がないんだ」
「やる気があれば仕事なんてどうにでもなる」
少し前の優里なら、 また胸を痛めていただろう。
けれど今は、 ほんの少しだけ違った。
優里は右手の人差し指へ触れる。
ひんやりとした感触。
静かな青紫色。
机の上では、 アニメの主人公がまた立ち上がっていた。
優里は、 そんな物語が好きだった。
だから。
「……私も、一歩だけ」
強くはない。
今だって怖い。
でも、 主人公たちみたいに。
ほんの少しだけ、 前へ出てみたいと思った。
優里はゆっくり立ち上がる。
そして部屋のドアへ手をかけた。
「……行ってきます」
小さく呟き、 榊優里は静かに一歩を踏み出した。




