第2章前編
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その記憶の移植は、これまでのものとは全く違っていた。
頭にヘッドギアを装着された瞬間から、嫌な予感がしていた。これまでの記憶移植では、意識が穏やかに沈んでいく感覚だったが、今回は違った。まるで冷たい水の中に突然放り込まれたような、鋭い衝撃があった。
そして、僕は「彼」になった。
名前は分からない。年齢も定かではない。ただ、僕は夜の公園にいた。街灯の光が木々の間から漏れて、地面に複雑な影を作っている。空気は冷たく、息が白くなった。
手に何かを握っている。
見下ろすと、それは包丁だった。刃先に月光が反射している。
心臓が激しく鼓動していた。でも、それは恐怖からではなく、興奮からだった。体の奥から湧き上がってくる、得体の知れない高揚感。これから何かが起こる。何か特別なことが。
公園のベンチに、一人の女性が座っていた。
年齢は三十代半ばくらいか。肩までの茶色い髪、紺色のコート。スマートフォンを見ながら、誰かを待っているようだった。
僕は……いや、「彼」は、その女性に近づいていく。足音を立てないように、慎重に。心臓の鼓動が耳元で響いている。手のひらに汗をかいているのに、包丁を握る手は驚くほど安定していた。
女性が振り返った。
その瞬間、僕は彼女の顔を鮮明に記憶した。大きな瞳、小さな鼻、薄い唇。頬に小さなほくろがあった。そして、その表情が驚きから恐怖へと変わっていく様子も。
「誰……?」
女性の声は震えていた。立ち上がろうとしたが、足がもつれて再びベンチに座り込んでしまう。
僕は無言のまま近づいた。包丁を握る手が震えていない自分に驚いていた。まるで何度も経験したことがあるかのように、自然な動作だった。
女性は助けを求めようと口を開いた。でも、声は出なかった。恐怖で喉が詰まってしまったのだ。
そして——
◇
「お客様! お客様!」
記憶屋の店主の声で意識が現実に戻った。ヘッドギアを外そうとする僕の手を、店主が慌てて制止している。
「大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ」
僕は椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。全身が冷や汗でびっしょりになっている。胃の奥から込み上げてくるものを必死に堪えていた。
「気分が悪いようでしたら、少し休んでいってください」
店主が心配そうに水を差し出してくれた。僕はそれを一気に飲み干した。でも、口の中に残る metallic な味は消えなかった。血の味だった。
「あの記憶は……」
「申し訳ありません」店主が頭を下げた。「やはりお勧めするべきではありませんでした」
「あれは何だったんですか?」
僕の声は掠れていた。
「特殊な記憶です。通常の青春記憶とは性質が全く違います。心理的外傷を負った方の記憶で……」
「殺人の記憶ですか?」
店主は答えなかった。でも、その表情が全てを物語っていた。
僕は料金を支払うと、ふらつく足で店を出た。夜の街が、さっきまでとは違って見えた。すれ違う人々の顔が、あの公園の女性と重なって見える。街角に潜む影が、何かを隠しているように思える。
アパートに帰り着くと、僕はすぐにシャワーを浴びた。熱い湯で体を洗い流しながら、あの記憶を忘れようと努めた。でも、女性の顔、彼女の恐怖に歪んだ表情、そして——
包丁を握る感触は、まだ手のひらに残っていた。
その夜、僕は眠れなかった。目を閉じると、あの公園の風景が蘇る。ベンチに座る女性、月光に光る包丁、そして血の匂い。記憶の最後の部分は曖昧だったが、確実に何かが起こったのだ。
翌朝、僕は大学を休んで図書館に向かった。新聞のバックナンバーを調べるためだった。いつ頃の事件なのか分からなかったが、手がかりを探してみたかった。
「公園」「女性」「殺人」というキーワードで検索を続けた。そして、三時間後、僕はそれを見つけた。
『都立桜ヶ丘公園で女性刺殺 犯人逃走中』
記事の日付は三ヶ月前。被害者は田島由紀子さん、三十四歳。会社員。深夜の公園で刺殺体で発見された。現場には争った形跡がなく、犯人は計画的に犯行に及んだと見られる。目撃者はなし。防犯カメラの映像も決定的な証拠は得られず。
写真を見た瞬間、僕の血の気が引いた。
それは間違いなく、記憶の中で見た女性だった。茶色い髪、大きな瞳、頬のほくろ。すべてが一致していた。
僕は新聞を持つ手が震えているのを感じた。これは現実の事件だった。そして、僕が購入した記憶は、その犯行の記憶だった。
図書館を出て、僕は都立桜ヶ丘公園に向かった。電車を乗り継いで一時間。住宅街の奥にある小さな公園だった。
記憶の中で見た風景と完全に一致していた。木々の配置、街灯の位置、そしてあのベンチ。すべてが正確に記憶されていた。
ベンチの周りには、まだ事件現場を示すテープの痕跡が残っていた。献花台も設けられており、色とりどりの花が供えられている。
僕は恐る恐るベンチに近づいた。記憶の中で女性が座っていた場所に立つと、あの夜の光景が鮮明に蘇った。月の位置、風の音、そして女性の表情。すべてが現実のものだったのだ。
でも、なぜ犯人の記憶が記憶屋で売られているのか?
犯人は誰なのか?
なぜその記憶を売ったのか?
疑問は尽きなかった。
アパートに帰ると、僕はインターネットで事件について調べ続けた。田島由紀子さんは大手商社で働く独身女性だった。特に恨みを買うような人物ではなく、動機は不明。警察は通り魔的犯行の可能性も視野に入れて捜査を続けているとあった。
でも、僕は知っていた。これは通り魔ではない。記憶の中の「彼」は明確に田島さんを狙っていた。待ち伏せしていたのだ。
僕は警察に連絡すべきか悩んだ。でも、どう説明すればいいのか? 記憶屋で購入した記憶だと言えば、狂人扱いされるだけだろう。それに、記憶の売買は合法でも、殺人の記憶を売買することは法的にグレーゾーンだった。
翌日、僕は再び記憶屋を訪れた。店主に事情を説明し、あの記憶について詳しく聞きたかった。
「やはり、そうでしたか」店主は困ったような表情を見せた。「お客様が調べるのではないかと思っていました」
「あの記憶はどこから?」
「匿名の売り手からです。身元は一切明かしていません。記憶の売買では、売り手の匿名性は保護されているんです」
「でも、殺人の記憶ですよ?」
「法的には問題ありません。記憶そのものに罪はありませんから。ただ、倫理的には……」
店主は言いよどんだ。
「他にも、そのような記憶が?」
「実は……」店主は奥の部屋に案内してくれた。そこには一般客には見せていない特別な棚があった。「こちらが特殊記憶コーナーです」
棚には十数個のカプセルが並んでいた。どれも高額で、説明も曖昧だった。
「交通事故の記憶」「暴力事件の記憶」「詐欺の記憶」
そして、その中に「連続殺人の記憶 第一回」という恐ろしいラベルを見つけた。
「連続?」
「はい。同一人物から提供された記憶のようです。時系列順に番号が振られています」
僕は愕然とした。記憶屋には殺人犯の記憶がシリーズとして売られているのだ。それも連続殺人の記憶が。
「誰が買うんですか、こんなもの」
「意外に需要があるんです」店主は苦い表情を浮かべた。「スリルを求める人、犯罪心理学の研究者、小説家の方など……」
「研究者?」
「記憶移植によって犯罪者の心理を直接体験できるというのは、学術的にも価値があるとされています。もちろん、倫理委員会の承認を得た上でですが」
僕は背筋が寒くなった。田島由紀子さんの死が、学術研究や娯楽のために商品化されているのだ。
店を出て、僕は再び桜ヶ丘公園に向かった。今度は夕方の時間帯だった。散歩をする人、犬の散歩をする人、ベンチで本を読む人。平和な光景だった。でも、僕にはその下に潜む闇が見えるような気がした。
献花台に新しい花が供えられていた。白い菊の花束に「由紀子へ 母より」というカードが添えられている。僕は思わず手を合わせた。
その時、背後から声をかけられた。
「すみません」
振り返ると、五十代くらいの女性が立っていた。黒いスーツを着て、田島さんに似た目元をしている。
「あの、もしかして由紀子を知っている方ですか?」
僕は戸惑った。どう答えればいいのか分からなかった。
「いえ、たまたま通りかかって……」
「そうですか」女性は寂しそうに微笑んだ。「私、由紀子の母親なんです。毎日ここに来てるんですよ。誰か、娘のことを覚えていてくれる人がいないかと思って」
僕の胸が締め付けられた。この女性の娘の死が、記憶屋で商品として売られている。その事実を伝えるべきか? でも、それは母親をさらに苦しめることになるのではないか?
「由紀子はいい子でした」母親は続けた。「人を疑うことを知らない、優しい子で。だからこんなことに……」
涙が母親の頬を伝った。僕は何も言えなかった。ただ、記憶の中で見た田島さんの恐怖に歪んだ顔を思い出していた。
「犯人は見つかるんでしょうか?」
「きっと」僕は答えた。「きっと見つかります」
でも、それは嘘だった。記憶を売った犯人が自首する可能性は低い。むしろ、記憶を売ることで利益を得続けるかもしれない。
その夜、僕は記憶屋のことを調べ続けた。記憶の売買に関する法律、倫理規定、業界の実態。そして、記憶売買に関する事件の記事も見つけた。
記憶中毒者の増加。偽の記憶を売りつける詐欺。記憶の著作権をめぐる裁判。そして、犯罪記憶の流通に関する問題。
記憶屋は表向きは合法的なビジネスだが、その裏には様々な闇があった。特に犯罪記憶の取引は、被害者の人権を無視した行為として問題視されていた。
でも、法的な規制は追いついていない。記憶そのものに罪はないという理屈で、犯罪記憶の売買も野放し状態だった。
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