最終話前編
本日完結
それから三ヶ月が経った。
春が来て、桜が咲き、そして散っていった。僕は毎日大学に通い、講義を受け、レポートを書き、友人と話をした。
特別なことは何も起こらなかった。でも、それでよかった。
田村さんとは週に一度、図書館で一緒に勉強するようになった。彼女は社会学を専攻していて、よく難しい話をする。僕は半分くらいしか理解できなかったが、それでも真剣に聞いた。
「山田さんって、ちゃんと人の話を聞いてくれるから、話しやすいです」
ある日、彼女がそう言った。
「そうですか?」
「はい。最近、そういう人少ないですから」
人の話を聞く。それは特別な才能ではない。でも、田村さんはそれを評価してくれた。
田中とも頻繁に会っていた。週末には飲みに行き、くだらない話をして、笑い合った。
「太郎、最近いい顔してるな」
ある夜、田中が言った。
「そうかな」
「ああ。前は死んだ魚みたいな目をしてたけど、今は生きてる感じがする」
生きてる感じ。確かに、僕は生きていた。他人の記憶の中ではなく、自分自身として。
記憶クリニックでのカウンセリングも続けていた。週に一度、医師と話をして、少しずつ自分の記憶を整理していった。
「山田さん、だいぶ回復してきましたね」
医師は僕の経過を見て、満足そうに頷いた。
「でも、まだ完全には……」
「完全に元に戻ることは難しいかもしれません」医師は正直に言った。「でも、今のあなたは以前より健康的です」
健康的。確かに、僕は以前より安定していた。記憶の混乱は完全には消えなかったが、日常生活に支障はなくなっていた。
「他人の記憶と共に生きる。それも一つの人生の形です」医師は続けた。「大切なのは、それに支配されないこと」
他人の記憶と共に生きる。僕の中には、まだ田村の記憶、高橋の記憶、そして犯罪の記憶がある。それらは消えることはない。
でも、それらに支配されることはなくなった。僕は山田太郎として、自分の人生を生きている。
ある日、大学の掲示板で記憶市場に関するシンポジウムの告知を見つけた。
『記憶売買と倫理——新しい技術がもたらす社会問題』
主催は法学部と倫理学研究室。記憶市場の問題点について、専門家が議論するらしい。
僕は参加することにした。自分が巻き込まれた問題について、もっと広い視点から理解したかった。
シンポジウムは大きな講堂で行われた。予想以上に多くの学生や研究者が集まっていた。
最初に登壇したのは、法学部の教授だった。
「記憶の売買は、現行法では規制されていません。しかし、それは法整備が追いついていないだけで、倫理的には多くの問題があります」
教授は記憶市場の問題点を列挙した。プライバシーの侵害、被害者の人権侵害、記憶中毒の増加、人格への影響。
次に登壇した脳科学者は、記憶移植の技術的側面について説明した。
「記憶移植は可能ですが、完全ではありません。移植された記憶は、受け手の既存の記憶と混ざり合います。そして、時には変容します」
僕はその言葉を聞いて、自分の体験を思い出した。確かに、記憶は混ざり合い、変容した。
最後に登壇したのは、倫理学の研究者だった。
「記憶とは何か。それは単なる情報の蓄積ではありません。記憶は人格を形成し、アイデンティティを作ります。他人の記憶を売買することは、その人の人格を商品化することに等しい」
人格の商品化。僕は田島由紀子さんたちのことを思い出した。彼女たちの死が、商品として売られていた。
質疑応答の時間になって、僕は手を挙げた。
「質問があります」
マイクが回ってきた。僕の声は震えていた。
「もし、記憶移植によって人格が変わってしまった場合、その人の責任はどうなるのでしょうか」
会場が静まり返った。倫理学の研究者が答えた。
「難しい質問ですね。法的には、記憶移植を受けたことが犯罪の免責事由になるかどうか、まだ判例がありません」
「法的にではなく、倫理的にはどうでしょうか」
研究者は少し考えてから答えた。
「倫理的には、その人は被害者であると同時に、自らの選択の結果も背負っています。記憶を買うという選択をしたのは本人ですから」
自らの選択。確かに、僕は自分で記憶を買った。誰かに強制されたわけではない。
シンポジウムが終わった後、僕は一人で校舎の外に出た。夕方の空が赤く染まっていた。
「山田さん」
背後から声がかけられた。振り返ると、倫理学の研究者が立っていた。
「先ほどの質問、実体験に基づいたものですね」
研究者は鋭い目で僕を見た。
「はい」
僕は正直に答えた。
「記憶移植を受けたんですか?」
「ええ。そして、混乱しました」
研究者は頷いた。
「あなたのような方が増えています。記憶市場の被害者です」
「被害者……」
「でも、同時にあなたは加害者でもあります」研究者は厳しい口調で言った。「他人の記憶を娯楽として消費することで、その人の人格を侵害した」
加害者。その言葉は胸に突き刺さった。
「私は、どうすればいいのでしょうか」
「贖罪はできません」研究者は断言した。「一度起こったことは、取り消せない。あなたにできるのは、これから誠実に生きることだけです」
誠実に生きる。それは簡単なようで、難しいことだった。
「あなたの中にある他人の記憶を、無駄にしないでください」研究者は続けた。「それは確かに倫理的に問題のある方法で得たものですが、今はあなたの一部です。その記憶から学び、成長してください」
記憶から学ぶ。僕は今まで、記憶に苦しめられるだけだった。でも、それを学びに変えることはできるかもしれない。
研究者と別れて、僕は再び桜ヶ丘公園に向かった。最後にここに来てから、数ヶ月が経っていた。
献花台には、まだ新しい花が供えられていた。田島由紀子さんを偲ぶ人々が、今も訪れているのだろう。
僕は花を買って、献花台に供えた。そして、長い時間手を合わせた。
「すみませんでした」
心の中で謝罪した。
「あなたの死を、僕は娯楽として消費しました。それは許されないことです」
風が吹いて、木々の葉が揺れた。
「でも、僕はあなたのことを忘れません。あなたの記憶を、無駄にしません」
それが、僕にできる唯一の贖罪だった。
公園を出て、駅に向かう途中、偶然に佐々木恵美さんの兄に出会った。
「あ……」
彼も僕に気づいて、立ち止まった。
「山田さん」
「ご無沙汰しています」
気まずい沈黙が流れた。彼は疲れた表情をしていた。
「妹の記憶、結局買わなかったんです」
彼がぽつりと言った。
「え?」
「あなたの忠告通り、見ない方がいいと思って」彼は苦笑した。「でも、毎日考えるんです。妹がどんな最期を迎えたのか」
「知らない方が、いいこともあります」
「そうですね」彼は頷いた。「でも、知りたいという気持ちも消えない。矛盾してますよね」
矛盾。人間は矛盾した存在だった。
「事件、まだ解決してないんですよね」
「ええ。犯人も捕まっていません」
彼は遠くを見つめた。
「でも、不思議なことに、最近は復讐したいという気持ちが薄れてきました」
「どうしてですか?」
「妹は戻ってこない。犯人を捕まえても、妹は戻ってこない」彼は静かに言った。「だったら、妹が生きた証を大切にした方がいいかなって」
生きた証。それは記憶だった。でも、犯罪記憶ではなく、生前の温かい記憶。
「妹のアルバムを整理してるんです」彼は少し笑った。「小さい頃の写真とか、家族旅行の写真とか。そういうのを見ていると、妹が生きていた実感が湧くんです」
僕は彼の言葉に、深く共感した。大切なのは、人が生きた証としての記憶だった。
「山田さん、あなたは妹の最期を知っているんですよね」
「はい」
「それは、重荷ですよね」
「はい」
「でも」彼は僕の目を見た。「その重荷を背負ってくれて、ありがとうございます」
僕は驚いた。感謝されるとは思っていなかった。
「僕は……娯楽として……」
「それでも、誰かが覚えていてくれる。それだけで、救われる部分もあるんです」
彼は頭を下げて、去っていった。
僕は立ち尽くしていた。彼の言葉が、心に重く響いていた。
他人の記憶を背負うこと。それは重荷だった。でも、同時に、誰かの人生を記憶し続けるという、意味のある行為でもあるのかもしれない。
大学に戻ると、田中が待っていた。
「太郎、どこ行ってたんだ?」
「ちょっと、用事があって」
「そうか」田中は僕の表情を見て、何かを察したようだった。「大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
僕は本当に大丈夫だった。以前のように押しつぶされそうになることはなかった。
「なあ、太郎」田中が言った。「お前、変わったよな」
「変わった?」
「ああ。前より、しっかりしてる」
しっかりしている。自分ではわからないが、田中がそう言うなら、そうなのだろう。
「就職、決めたんだって?」
「うん。小さな出版社だけど」
僕は先月、ようやく就職先を決めた。大手企業ではないが、自分に合っていると思った。
「出版社か。本が好きだもんな、太郎」
「うん」
本を通じて、様々な人生に触れる。それは、ある意味で記憶を共有することに似ていた。でも、健全な方法で。




